2.誰かと食べる夜ご飯
目の前に築かれた空の段ボールの山に最後の一つを乗せ、ようやく荷ほどきを終えるた。
先程段ボールから出したばかりの壁掛け時計を見ると、短針はもう八を指していた。
今までも引越しはしてきたけど、やはり一人ですると勝手が違い、時間がかかることを実感させられた。
「あ、荷ほどき終わった?ちょうどご飯できたよ」
「うん。ありがとう。」
そこまで言って彼女がまだここにいることを思い出した。必死に整理していたせいですっかり彼女の存在を忘れていた。折角、再会出来たのに存在すら忘れるとは、僕もなかなかに酷い奴なのかもしれない。
たとえ、彼女に家を見に来たい、と言われたからだとしても、流石にそろそろ帰ってもらわなきゃいけないだろう。
「で、いつまでここにいるの?」
えへへ、と桜華さんは返事をせず、ただ誤魔化すように笑った。
「今日、泊まりたいって言ったら?」
「は?」
僕の頭にはいくつものハテナマークが浮かんだ。
「だから、泊めて欲しいって言ってるの!」
「無理だね。男女一つ屋根の下なんて、危ないよ。僕に襲われても文句言えないよ?」
ガオー、という幼稚な効果音が付きそうな獣のポーズを彼女に向かってしてみた。
「蓮くんにはそんな勇気ないでしょ。」
彼女の挑発するような笑顔には腹が立ったけれど、事実彼女に向かってそんなことをする勇気はないので反論はしない。
「じゃあ、せめて蓮くんにご飯の感想もらってからでもいい?せっかく作っちゃったし」
少しの沈黙にしびれを切らしたのは彼女の方だった。
そういえば、さっきから台所でいい匂いがしていると思っていた。作らせておいてそのまま帰すのも悪いので、仕方なくしばしの滞在を許そう。
「いいよ。どうせなら一緒に食べよ」
彼女がテーブルに用意している皿が僕一人用だと気づいたので、さりげない気遣いとして誘ってみた。もちろん彼女の保護者に許可を得るということを条件にして。
彼女は、目を輝かせ「ありがとう」と嬉しそうに言った。
本当はご飯を作ってもらった僕が礼を言うべきだけど、それは癪なので「どういたしまして」と、当たり障りのない返事をした。
「はい。今日の夜ご飯はクリームシチューです。さあさあ召し上がれ」
彼女はさながらウエイトレスのように残りの皿を運んできて、僕の正面に置いた。
白い艶やかなスープは僕の目をすぐさま虜にした。周りにはサラダなどの付け合わせもたくさん置いてある。
全体的に見ても色合いや肉と野菜のバランスなどがとても良く、しっかりと考えて作られていることがわかった。
「桜華さんって料理できたんだね」
「まあまあ、褒めるのはこれからですよお客さん」
彼女はここぞとばかりにニヤッと笑みを浮かべた。相当に自信があるらしい。
「いただきます」
僕はスプーンで一口、シチューをすくい、口に含んだ。まろやかで、ちょうどいい甘みがする。
「うまい」
意識して言った訳ではなかった。考えるよりも早くに口が動いた。たぶん、心の底から美味しいと思ったのだろう。
「そりゃ、私の愛情がこもってるからね」
「なるほどね」
僕の親は共働きだ。家ではいつもコンビニ弁当か自分で作って食べていた。だから、僕は親の愛情がこもってご飯など食べたことがない。
知らないのだから、このシチューが愛情のおかげだと言われても納得するしかないだろう。もっとも、照れ臭い言い回しではあるけれど。
「いや、納得するの?」
「え?じゃあ愛情じゃないの?」
「この天然め!!」
そう言うと、彼女も自分のご飯に手をつけ始めた。
「そういえば、さっきなんで急家に泊まりたいなんて言ったの?」
ご飯を半分ほど食べ終わった頃、特に話題がなかったので聞いてみた。というよりも、彼女と別れていた四年間の出来事にあまり触れて欲しくなかったので、そういう意味では予防線を張ったという表現が正しいのかもしれない。
「うーん、蓮くんといたかったから」
桜華さんは真顔で僕をまじまじと見つめた。
「ふーん、で、本当は?」
「もー!冷静にスルーしないでよ!」
彼女によるこの手の冗談は四年前も日常茶飯事だった。だから、今さら動揺することもない。
「本当はね、ママと喧嘩しちゃったんだ」
「なんでまた喧嘩なんてしたの」
「えっと……忘れちゃった?」
てへ、と彼女はわざとらしく付け加えた。
「やっぱり桜華さんはバカだね。バカを治すためにも早く帰った方がいいよ。あ、バカ死んでも治んないんだっけ。そりゃ災難だね」
僕は煽るように早口で言った。人によっては性格が悪いとか言われそうだ。無論、こんな話し方彼女以外にはまずしないので問題はないのだが。
「もー!私傷ついちゃった!私のガラスのハートが砕けちゃった。修復するためにも今日は家には帰れない。ああ、誰か家に泊めてくれる人はいないかな?」
どうやら、彼女はこの茶番を続けるらしい。正直、演技に集中している彼女は面白いのでもう少し茶番を続けてもいいのだが、あいにく今日はもう時間がない。
「はいはい、さっさと食べて帰りなさい」
彼女は母親と喧嘩をしたと言っていた。彼女には理解出来ないかもしれないけれど、僕にとっては喧嘩をすることが出来るだけで充分に羨ましい。
両親は僕に対して常に冷たく、そして正しい。
僕に構う時間がないのは僕を養うためのお金を稼いでいるからだ。普通に義務教育を卒業し、こうして高校生にしては広すぎる1LDKのマンションで過ごせていることが何よりもの証拠である。
僕はこれまで、何一つ不自由のない暮らしをしてきた。だから、きっとこれ以上のものを両親にねだるのはお門違いなのだろう。僕は両親に愛の代替え品として、充分なほどのお金をもらっているのだから。
「えー、蓮くんのケチ」
「いいから、早く帰って。なんなら送って行くから」
正面からきっちりとぶつかれる関係があるのなら、しっかりとぶつかるべきだ。これは、たぶん僕だからこそ言えることだ。
「蓮くん。………お願いします」
しっとりと静かな声だった。そして、彼女はゆっくりと頭を下げた。その真剣な目つきには先程の茶番を演じていた彼女はもういなかった。
「なんで、そんなに泊まることにこだわるの?明日でもまた会えるよ」
「蓮くんの隣に少しでも長くいたいの」
一見、彼女はふざけているように見えた。でも、その鋭い眼光には鬼気迫るものがあった。
彼女を家に帰すという僕の判断は一般的に正しいはずなのに、何故か彼女を泊まるべきだと思ってしまう。
「………」
頭の中を渦巻く葛藤の嵐、一つずつ頭の中で整理していき、最終的に僕は大きな決断をすることにした。
「わかった。泊まってもいいよ。ただ、両親の許可はしっかり取ること。それは絶対条件だからね」
「え……やったー!さすが蓮くん!話がわかるねー」
また、彼女はころっと表情を変え手放しで喜んだ。
その変わり身の速さにもしかして彼女が演技をしていたのか、という疑いが頭をよぎった。
とはいえ、泊めてあげると言ってしまった手前、今更帰れなんて言えない。だから、ここは彼女に便乗して僕も楽しむとしよう。
久しぶりに再会した友達とせっかく長く居られるのに仏頂面じゃもったいない。
「じゃあ、私は一回家に帰るね」
「え?」
泊まることを許可したにもかかわらず、家に帰ろうとする彼女を僕は不思議に思った。
「もー、蓮くんはデリカシーないなー。私も女の子だよ。服とか色々持ってこないと。それとも、蓮くんは私に何も着せてくれないつもりー?」
「あぁ、そういえば女の子だったね。ついつい忘れてたよ」
本当は一秒たりとも忘れてはいなかったけど、彼女に言い負かされるのも不服だったので、そんな挑発をしてみる。
むむむ、と彼女は顔を赤くして怒りを露わにしていた。
「もういい、そういうことだから一回帰るね。あと、お風呂洗っておいたから、機械から音がなったら入っておいてね」
ふん、と去り際まで怒っていることをアピールしながら彼女は家を出た。
ただ、それでも僕に対しての親切さが抜けきらないのはやはり彼女らしい。
『お風呂が沸きました』
彼女のいないリビングの真ん中でで僕は仰向け寝転がっていた。
一人でいるにはあまりにも広すぎるリビングに無機質な機械音声が反響した。
一人の部屋にはこんな大して大きくもない音ですら響く。つい先日まで、いや昨日まで知っていたことのはずだったのに、今日は何故か少し寂しく感じる。
学校、家、子どもの僕にとっておおよそ社会と呼べる空間の中で、僕は殆どの時間を一人で過ごしていた。
一人の時間には慣れているはずなのに、彼女と一緒にいると、一人の時間に孤独を感じる。それと同時に、また彼女が帰ってこなかったらどうしよう、そんな不安に襲われる。昨日まで、こんな一人でいることなんてただの日常だったのに。
頭を使えば使うほど、思考は暗転を辿っていった。何も起こっていないのに勝手に妄想は膨らんでいく。
だから、もう考えるのをやめた。思考をシャットアウトして僕は自分自身に言い聞かせた。
僕にできることは彼女を信じて、一秒でも彼女と過ごす時間を大切にすることだ、と。
未熟なただの子どもの僕にはこれからしか出来ないのだから。
さて、思考も停止したことだ、そろそろ風呂にでも入ろう。せっかく彼女が気を利かせてくれたのだ、ありがたく入らせてもらうことにする。
もし、彼女が帰ってこなかったら……なんて、そんなこと考えるだけ無駄だ。
僕が風呂から出て、洗面所でドライヤーをしていると「たっだいまー!」と近所迷惑極まりないほど大きな声が聞こえた。さっきまで抱えていた心配もただの杞憂だとわかり、思わず安堵の息が漏れた。
僕はすぐさまドライヤーの電源を切り玄関へ向かった。
「ただいま」
彼女は僕の顔を見るとニコッと笑みを浮かべた。
「お帰り」
久しぶりに口にするその言葉には多少の違和感こそあど、悪い気はしなかった。
「は、はああぁ?」
桜華さんの顔ばかり見ていた僕は、彼女の右手に持つそれを見て、今まで発したことのない声を出した。
それこそ、本当に近所迷惑だと言われそうな声の大きさだった。
キャリーバッグ、それが彼女の右手に持っていたものだ。しかし、それは軽い旅行などではなく、海外へ留学に行く時使うようなサイズだった。
バカにならないほどの荷物を持ったきた彼女に僕は言葉を失った。
当の本人はきょとんとしていて、僕が何に驚いているのかわからないようだった。
呆れた、話を聞いてみると、彼女は母親の怒りが冷めるまでここにいるらしい。彼女の主張は、一度泊めると言ったのだから何日でも泊まらせてほしい、とのことだった。期限を付けなかった僕にも非はあるかもしれない、でも普通家に泊まると言えば一日や二日だろう。家に泊まる、というワードだけで一体誰が一週間や二週間だと想像できるだろうか。
「で、ちゃんと許可もらってきたんだよね?」
「うん。怒ってたけど、男の子の家に泊まるって言ったらもうあんたの好きにしなさい!ってOKもらえたよ」
彼女は、はははと笑いながら言っていたけれど、それを許可と捉えていいものか、悩ましいものである。何より彼女のように自由奔放な子どもを持って大変だな、と子どもながら彼女の母親には同情する。
「わかった。もう好きにしてくれ。僕は明日の用意でもしておくから、風呂にでも入っておいで」
彼女との話し合いは平行線を辿ると察した僕は先程とは違う理由で思考をシャットアウトすることにした。
「え?明日?」
明日は入学式だ。さすがにこれを忘れているのは呆れる、という言葉だけでは済まない。
「なに?ボケちゃったの?明日、入学式だよ」
ここまで言ってあることを思い出した。もしかすると、明日入学式が行われる高校は、僕が入学予定の赤波高校だけなのかもしれない。大抵の高校は明日だと思うけれど、彼女の高校が特別に別の日の可能性もある。
「そういえば、桜華さんは何高なの?僕は赤波だけど」
「あ、入学式…ね。わ、私は赤波東だよ。蓮くんとは離れ離れだなー、ざんねーん」
彼女はわざとらしく肩を落とした。僕も彼女と同じように肩を落とした。
残念、そう言った言葉では足らないほど悔しかった。もし、彼女が赤波東だと知っていれば、間違いなく僕もそこを受験していただろう。
この辺の高校を適当に決めた僕を恨んでやりたい。
せっかく再会出来たというのに、こればかりは不運としか言いようがない。
「そういうことだから、早く風呂に入ってきなよ」
「りょーかい!」
警察のような敬礼をした彼女は、風呂に入るための用意を両手一杯に持って、浴室へ向かった。
彼女が浴室へ向かったことを確認して、僕も早速明日の用意をしようと明日の用意を大まかにしてあるカバンを手に取った。
「あれ?ない」
明日の用意をしながら入学式のしおりにチェックを入れていると、シャーペンの芯が出てこなくなった。
カチカチと何度かノックをしてみたけど、出てこなかった。どうやら、詰まっているわけでもなく、単に芯がなくなったらしい。
芯を変えようと筆箱の中で詰め替えを探ってみたけどケースさえも見つからなかった。
仕方なく、あと何本かあるほかのシャーペンも試してみたけれど、結果は変わらず芯が出てくることはなかった。
引っ越し前、学校に必要なものはひとしきり揃えたつもりだった。しかし、流石にシャーペンの芯にまで気を使っていなかった。迂闊だ。
顔を上げ、時計を見る。短針はちょうど10を指していた。一応この地区において未成年が補導される時間だ。チェックもほとんど済んでいたし、明日学校へ行く時に買いにいけばいいのだけれど、僕はそうしなかった。
僕の趣味という訳ではないけど、僕は夜出歩くことが好きだった。それは、世間的にいう夜遊びなんかとは違う。本当にただただ外を散歩するだけだ。
風呂に入った後、火照った体が涼しい外の風で冷えていく感覚、それが好きだった。昼と夜で街の見える顔が違うことを実感できることもこの散歩の醍醐味だと思う。
元々、この街でもする予定だったこともあり、ちょうどいいと思った。また、僕はこれまで補導されたことなど一度ないので躊躇なく家を出る準備をした。
春になり、暖かくなってきたので、少し薄めのコートを羽織り、荷物をまとめた。
確か徒歩十分程度の場所にコンビニがあったはずだ。
スマホでマップを開き確認する。
「はぁー、気持ち良かったー!」
僕がマップを確認し終え、靴を履こうとしたところで浴室のドアが開いた。
そういえば、また桜華さんのことを忘れていた。このまま、家を出ていたら、「神隠しだ!」とか騒ぎそうだ。危ない危ない。
浴室から出てきた彼女はいかにも女の子な白いモコモコとした部屋着を身に付けていた。艶やかな肌、まだ微妙に湿っている髪の毛は彼女に大人の女性らしい色気を感じさせた。
「あれ、どっか行くの?」
目があった彼女は不思議そうに僕を見つめた。
「うん、シャーペンの芯が切れちゃって。コンビニまで行ってくる。何か欲しいものとかある?」
留守を頼むついでに何か買ってきてあげようという、僕なりの優しさだった。
「いらなーい」
彼女はそれだけ言って部屋の奥まで行った。
何もいらないとのことなのでゆっくり歩いてこようと思い、ドアノブに手をかけた。
「ちょっと待ったー!」
時代劇のような言い回しで彼女は僕に静止を促した。
「これでどう?」
意味もわからず振り向くと、彼女はあのモコモコした部屋着から、いかにもスポーツマンなジャージに着替えていた。アイドルのびっくりな早着替えに僕は言葉を失った。
彼女は、僕をもう一度見つめ、「どう?」と再び訪ねてきた。どうやら服を着替えたから自分も連れて行けということらしい。
こうなったら、彼女はとことん面倒臭い。うまく一人で行くことに出来ても、それまでに長い時間を浪費するだろう。そうなれば、今回こそ補導されかねない。ならばいっそ、と折れることにした。
「わかった、一緒に行こっか」
「うん!」
桜華さんの弾んだ明るい声が僕の耳に届く。たまには一人じゃない散歩もいいかもしれない。
ドアを開ける。瞬間、待っていたかのように風がビューっと室内に入り込む。
四月の暖かい風が僕を迎えるように優しく頬を撫でた。