1.春風の舞う桜の下で
ようやく本編第1話です。
お楽しみいただけると幸いです。
ガタンゴトンとローカル線特有の不規則な揺れの中、僕はうたた寝をしていた。
「次は桜ヶ丘ー」
少し鈍っている車内アナウンスを耳にして、僕の意識は、はっきりと現実世界に帰ってきた。
両足の間に置いていたリュックサックを手に取り外へ出る支度をする。
今日から新生活、一つ大きな深呼吸をして気合を入れる。
高校から一人暮らし、なんてのは少し珍しいのかもしれない。
まして、スポーツで学校へ行く訳でも寮に入るわけでもない僕は特に変わっているのだろう。
一般的に高校生が一人暮らしをする、と言うとそれだけで大変だとか言われるけれど僕にとってそれは全く当てはまるものではなかった。
家族と一緒に住んでいようがいまいが、僕はずっと一人なのだから。
「桜ヶ丘ー、桜ヶ丘でございます。お出口はー」
車内アナウンスとともに、僕の前にある自動ドアがプシューと炭酸の気が抜けたような音を立てて開いた。
電車の外の景色はおおよそこの世のものとは思えないほど美しかった。
四月初旬、この街の桜は満開を迎えていた。
一面を覆う桃色の群れが、まるで僕を歓迎しているようだ。四年前、ここに住んでいたはずなのにそれらは不思議と新鮮味を帯びていた。
『また、明日ね』
そう言っていた彼女はもういない。
彼女と会った最後の日、明確に『明日』と言わなかったことが何よりもの証拠だろう。
彼女がいなくなった理由は知らないが、彼女がいないという事実が変わりはしない。
でも、ここに戻ってきた。新たな人生をスタートする上でここより良い場所など思いつかなかったから。
僕は普段より少し軽い足取りであの場所へ向かう。
四年という長くも短くもない中途半端な時間の中で、この街はそれなりに変化を見せていた。
今にも潰れそうだったあの店は案の定潰れていたし、静かなこの街に不釣り合いな高層マンションが建っていたりとその変化は様々だった。
そんな変化を肌で感じつつも淡々とあの場所へ近づいていた。
この河川敷には二百を超える桜が植えられており、毎年それを目当てに県外からもたくさんの人がやってくる、らしい。ただし、それは四年前、彼女から聞いた情報であるため、現在もそうだと断言は出来ない。
特に、河川敷の入口付近では何本か桜が切り倒されているのが見て取れた。
付近に貼られていたチラシを見ると、なにやら巨大ショッピングモールを建設するらしい。街のシンボルと、利便性、どちらか大切なのか所詮子どもの僕にはわかりはしない。だけど、やっぱり彼女との思い出が詰まっている桜が切り倒されていくのは少し悲しい気持ちにもなる。
休日は宴会やピクニックなどで賑わっているこの場所も平日の、まして春休み最終日にはほとんど人がいなかった。
彼女はもうそこにはいない。それは、絶対的、決して変わりはしない事実である。だけど、行かずにはいられなかった。
決意とも、決別とも呼べる想いを胸に、僕はもう一度そこへ辿り着いた。『ヌシ』と呼ばれる桜の元へ。
堂々とした佇まい、圧倒されるような迫力、桃色の花弁があまりにも美しく、見とれていた。
息をするのを忘れる、その感覚を僕は現在進行形で味わっていた。
『春のヌシ』
この桜はこの街でそう呼ばれている。諸説は様々あるが、その中でも特に有力な説は、春の訪れを告げるようにこの桜並木で一番に花を咲かせ、春の終わりをそっと教えてくれるように最後に散って行く。その様子そのものを春だと感じた当時の人々が名付けたというものだ。
話を聞くだけでは納得することはできないだろう。しかし、ここは来ればそれを嫌でも信じてしまう。
それほどまでに『ヌシ』という存在は人の心をいとも容易く奪い取ってしまう。
久しぶり、挨拶の代わりとしてヌシに手を当てた。
一陣の風が吹く。枝がさわさわと音を立てて揺れた。
まるで、帰ってきた僕を優しく迎えてくれているようだ。
一番行きたかった場所への挨拶も終え、そろそろ家に向かう。
心の中でヌシに軽く別れを告げ、この場を去ろうと、回れ右をして後ろを振り返った。
すると、ちょうど僕の真後ろにいた女の子と目があった。
「え」
困惑、動揺、押し寄せる感情の波に僕は思い切り後ずさりをした。背負っていたリュックサックが勢いよくヌシにぶつかる。
動揺した理由は目の前にいる女の子だ。
女の子らしい低い身長、くりっとした大きな目、肩甲骨の下あたりまで伸びている長い髪の毛どれも、あの頃と共通する特徴だ。あの頃と比べ、纏っている雰囲気は大人びてはいるけれど間違いない。彼女は四年前、ここで出会った少女、春風桜華だ。
「もしかして、蓮くん?」
僕はこくりと頷く。
彼女も戸惑っているようだ。
彼女はあの日、突然姿を消しただけだ。決して亡くなったわけではない。正確には亡くなったという情報を僕は持っていない。だから、彼女と僕が再会する可能性はもちろんあり得る。だけど、そんな都合のいいことが本当にあるなど考えもしていなかった。
「やっぱり、桜華さんなの?」
「そうだよ。久しぶり、だね」
お互いに四年という時間の長さを感じさせるようなぎこちない話し方だった。
「うん。四年ぶり、かな」
「そっか。もうそんなになるのか」
ここで、会話が途切れた。短くて長い沈黙の訪れだった。実際のところ、十秒あったかも怪しいその時間を僕は数時間のように感じた。きっと、彼女も同じだっただろう。
「ねぇ」
痺れを切らしたのは僕だった。その一言を僕は出来るだけ重みを持って発した。はたからみれば威圧的とも取れるかもしれないほどに。
そうして、これから言うことに大きな意味があると伝えようとした。
本当は僕の自己満足で終わらせるつもりだった。僕がそう思えば、きっとそうなのだと思っていた。
けれど、もしも答え合わせが出来るのであれば話は別だ。
聞きたい、その衝動を抑えられるほど、僕は大人じゃなかった。
「あの時、なんで急にいなくなったの?」
「えっと、あれは…」
彼女は煮え切らないような回答をする。
「やっぱり、桜華さんも引越しだったの?」
この四年間で僕が導いた一つの答え。僕が彼女の立場であったらしていたであろう行動。
大切だから、泣いている姿は見たくない。大切だから、笑って最後の日も過ごしたい。だからお別れの言葉は言わない。
優しい彼女だからこそ選ぶであろう手段だ。
「あはは、やっぱ蓮くんにはバレちゃったか。うん、そうそう。私、引越したんだ。結局パパにごねてすぐに帰ってきたんだけどね。ただ、蓮くんとは入れ違いになったみたい」
ふぅ、と安堵の息を漏らす。よかった、彼女がいなくなった理由が僕の考え通りで。
「じゃああの日、明日って言わなかったのもわざとなの?」
ついで、と言わんばかりに僕は次々に答えを合わせていく。
「あちゃー、そんなとこまでバレてたの。さっすが蓮くん鋭いねー。」
僕をからかう彼女には先程までのぎこちなさなど微塵もなく、まるで当時のままだった。
「本当に、嫌われたのかと思って心配したんだよ」
彼女とは反対に、僕は泣きそうだった。
彼女と再会できたから。
彼女が僕のことを嫌いじゃないってわかったから。
彼女とまた一緒にいられるから。
「ごめんごめん、私もそんなつもりじゃなかったんだよ」
彼女は僕をなだめるように言った。
「もう、時効でいいよ。そのかわり、今度は何も言わずにどっか行ったりしないでよ」
もう、あんな辛い想いは十分だから。
「……うん」
彼女は少しの沈黙の後、頷いた。その沈黙が何を意味しているのか、僕にわかりはしないけれど、彼女が答えたうん、というその言葉を今は信じよう。
「そういえば、蓮くんってまた引越してきたの?それとも今日は旅行?」
「引越しだよ。高校では親元を離れて一人暮らしでもしようと思って」
第一、春休み最終日に旅行をしている余裕など、大抵の学生にはない。こういう日は、家で新年度のために準備をするものだ。
もちろん、僕も例外ではないのでそろそろ新しい家に行かななければならない。
「ねえ、蓮くんの家、見に行ってもいい?」
彼女は目を輝かせる。あの頃と同じ目だ。四年前からこの目をした彼女に勝ち目はないと知っている。だから、早々に白旗を上げ降参することにした。
「見に来るだけなら」
やったー、やったー、と彼女は飛び跳ねている。その姿を見てやっぱり、彼女は春風桜華なのだと実感する。
騒がしくて、うるさくて、賑やかで、幸せな僕の新たな日常がもうすぐ始まろうとしていた。