第一話
佐伯さん。
佐伯紗季さん。
血液型はA型のRH-で、誕生日は四月二十九日のおうし座。ミートドリアが好きで、牛乳を忌避している。利き腕は右で、利き足も右だ。左目の視力のみが悪く、学校ではそちらの方にのみコンタクトレンズを装着している。
幸いなことに好みのタイプが背の高い人、という訳ではない。また彼女の美貌は校内でファンクラブが出来る程で、彼女に恋する男子の名前のみで歌が一曲歌える、かも。
そして僕も。
そして僕も、大変身分違いで不釣り合いな事は勿論分かっているのだが――彼女に、恋をしていた。
「佐伯さん、三組の吉田と別れたらしい――」
夏休みも終わり、しばらく過ぎた頃だった。
佐伯さんが三組の吉田と付き合っていた事は、去年の冬休みに発覚した事だ。僕は去年の冬休みまで彼女に告白する好機を情報を収集しながら虎視眈々と臆病に狙っていたのだが、それで望みは潰えた事になる――いや、ならなかった。僕はそれ程諦めの良い人間では無かった。むしろ、ゲームなんかでは何回もやり直して、その度に同じ失敗をし直す様な、そんな人種の人間だった。
とある筋に、佐伯さんの情報収集を購買の焼きそばパンを日々奢る事で依頼していたのだが、その者から
「佐伯さん、三組の吉田と付き合ったらしい」
このメールが来るやいなや、メールの送り主に
「別れさせろ」
の返信を送ったのだ。女子も真っ青の速打だった(因みに僕は未だガラケーユーザーだ)。
それからと言うもの、吉田の恥ずかしき歴史を探す事に僕(それに情報収集を依頼している者)は、躍起になっていた。あの佐伯さんと言えど、あの純度百パーセントの白無垢で出来ている佐伯さんと言えど、そのようなブラックな歴史を持つ者とは付き合って居たくは無いだろうとの思いからだ。
しかし佐伯さんとは対照的にその吉田という男は実に目立たない奴だった。同じクラスの人にもその存在を忘却の彼方へぶん投げられる様な。佐伯さんと付き合った事で目立った、と言うよりは、ファンクラブ、純情男子、情報収集者その他関係者各所に目をつけられた吉田だったが、それでも目立たない奴と言うのは目立たないオーラを放っているようで、或いは何のオーラも放っていない様で、黒歴史どころかレッドな歴史もブルーな歴史もイエローな歴史も、なーんにも出ては来なかった。
そんな時、だ。
僕が佐伯さんと付き合う為に、吉田を佐伯さんと別れさせる為に、吉田の黒歴史を探していた時。その知らせは届いた。
「佐伯さん、三組の吉田と別れたらしい――」
この事を聞いた時――メールなので正確には読んだ時だが――僕はどれ程喜んだ事か!
人の不幸は蜜の味、という言葉がある。それは全く逆の場合にも適用される様で、かの憎き吉田が佐伯さんと付き合っていた頃は、一日中毛虫を口の中に詰め込まれている様な心持ちだった。
だが。
だがしかし。
佐伯さんは吉田と別れたと言う。遂に吉田と付き合うという事がどれ程愚かしい事か、やっとわかったのだろう。蜜の味どころではなかった。むしろ今であれば死んでしまってもいいと思った。いや、ならない。もし今死んでしまっては、これから僕といちゃいちゃする、未来に存在するであろう全佐伯さんに申し訳が立たない。僕は佐伯さんと付き合わなければならない。運命で、宿命で、宇宙のコスモス的な何かにそうと定められている。
僕はたっぷり半時間程悩んでから、とりあえず、こう返信した。
「まじで?」
「まじだ」
僕は半ば涙ぐみながら、
「まじか……」
と呟いた。