給水栓
『夏のホラー企画2014』の参加作品です。
なおこちらは『4472文字シリーズ』というシリーズ物になっております。
1話め 『非常口』(http://ncode.syosetu.com/n4613bi/)
もしよろしかったら前作と文字数を見比べてやってください。
「警備っても、ほら、うちはもう他のセキュリティ会社が入ってるから、実質あの件での見回りだけなんだけど」
総務部長の橋さんは苦笑いしながらエレベーターの2Fボタンを押した。
「本当はこんなんで警備頼むのもどうよって思ったんだけど、女の子たちが怖がっちゃってさ。一週間ばかり見てもらって、あの現象が起きなくなったらもういいから。ゴメンだけど、ちょっと付き合ってよ」
かくん、と振動が伝わり、目的の階のランプ表示が点灯する。
思いのほか大きな音を立てて開くエレベーターに、内心、
(見てくれは瀟洒だが安っぽい造りのビルだな)
と悪態をついた俺は、橋さんに導かれるまま、模造大理石の敷き詰められた廊下に降り立った。
警備会社をやっている叔父の元にはかなりの頻度で奇妙な依頼が舞い込む。今回は『幽霊の正体を探ってくれ』というものだった。
ハイテクな大企業に席巻されるこの業界では零細な会社に仕事を選ぶ権利などない……とは叔父の口癖だが、実の理由はあの人自身が面白がってこの手の話に首を突っ込むんだろう。
四〇を過ぎても嫁のツテもないやもめ男の俺は、敬遠されるこれらの仕事を優先的に回される。まあ別にオバケなぞ怖くないからいいんだが。
廊下の右手に等間隔で並ぶアーチ型のドア。そのすべてのドアプレートには同じ貿易会社の名前が入る。
「二階はうちの会社だけなんだ」
と先導しながら説明する橋さんは、一番奥の、いかにもスペースが狭そうな室内に通じるドアを開けた。プレートには社名のあとに『総務部』の文字。
六畳ほどの空間にコの字型に並んだ長机。その最奥の、それでもいくばくかランクの差をつけてある部長用のオフィスチェアにまっすぐ向かった橋さんは、窓の外の鏡面張りのビルの反射光を遮るように、厚いカーテンを引いた。とたん室内に真昼の闇が降りる。
左手側の席を勧められ、腰をかける。長机のあちこちには使い込まれたパソコンが散見するのに、この一角だけは何もない。たぶん来客用のスペースなんだろう。年季が入った合板の机上には、打ち合わせの際にでも着いたのか、黒マジックの跡が残る。
部屋には他に紺地の制服を着た若いOLが一人、パソコンに向かっていた。
橋さんは、ひどく地味な印象の彼女に向かって、ためらいがちに言う。
「すまないけど浅井くん、お客さんにお茶を出してくれないか?」
OLは一瞬手を止めた。
そして。
顔を大仰に歪めてから、
「一人で、ですか?」
と聞き返す。
「うん。悪いね」
首肯した橋さんは、恨めしそうに部屋を出て行く彼女の背中に、また苦い笑みを貼りつけた。
「給湯室が問題の場所でね……」
俺と二人になってからすぐ、橋さんは笑顔を消して、ぼそぼそと語り出した。
「特にいまの……浅井さんがお茶を入れに行くときによく出るんだ、あの現象は」
「蛇口から婆さんの白髪が出てくるってやつですか?」
俺はなるべく感情を表さない声音で尋ね返した。
でないとバカバカしくて笑っちまいそうだったから。
橋さんは至極真面目な表情で頷く。
「あれが始まったのは二週間前。だからたぶん……いや絶対に、あの事故が関係してるはずなんだ。なんでうちに祟るのか……」
「まったくですね。婆さんもどうせなら轢いた加害者のとこに行きゃあいいのに」
内心では橋さんの深刻さをアホらしく思いながら、でも口調だけはなんとか気遣うふりをする。
警備会社の社長である叔父から、この怪異の経緯は聞いていた。
橋さんの言う二週間前、全国的にも騒がれたあの事故が起きた。
午後三時。熱波が正常な大気を塗り替え、人の感覚を否応なく狂わせた魔の時間。
別の場所で路上警備に当たった俺にもあのときの苛酷さは身に染みた。アスファルトから上る蜃気楼。靴底のゴムが溶ける異臭。塩気の強い汗は目に入って容赦なく粘膜を傷つける。
屋外の俺には車内のドライバーがひどく羨ましく見えた。けれどそれは恐らく勝手な憶測で、彼らもきっと参っていたんだ。それほどに暑さは人を蹂躙していた。
そのトラックが痴呆の徘徊老人を後輪で巻き込んでしまったのは、だから仕方のないことでもあったんだろう。八二歳の老婆だったそうだ。八〇〇メートルも引きずられた体は、すでに人間の形をなくしていたらしい。
そして。
その婆さんが事故に遭った地点が、いま橋さんが座っているすぐ後ろ、オフィスビルの前を走る幹線道路のど真ん中だった。
橋さんは現場を見たのだろうか。トラックに巻き込まれる老婆の惨状を。
「見えなくても意外と気づくもんだよ。ああいうときの音っていうのは」
俺の視線を受けて、橋さんは、また定番の苦笑いを頬に刻んだ。
「でも確かめたくないよね? 誰だってそうじゃない? 僕だけが特別に薄情だったわけじゃない」
続きの言葉は、俺にというより、まるでそばに立っている老婆への言い訳みたいだった。
ついさっき部屋に入るなりカーテンを閉めた橋さんは、きっとあの日も、事故が起きたと察知するなり確かめもせずに同じことをしたんだろう。
「なんで化けたりするかなあ……。自分から道路に飛び出したんでしょ? だったら自業自得じゃないか」
苛立った声音に不似合いな歪んだ笑みが、橋さんの表情から消えない。
そのとき、ドアが乱暴に開いて、怒り顔の浅井嬢が湯呑みの乗った盆を抱えて入ってきた。
俺の前に、それでも来客だと気を使ったのか丁寧に冷茶を置いたあと、放り出すような仕草で橋さんに盆を押しつける。
「もういい加減にして。お祓いでもなんでも早くして!」
剣呑な言葉を上司に投げたあと、つんと顎を突き出して自分のデスクに戻っていく。
空虚な笑顔のまま、橋さんは、湯呑みと一緒に盆に乗っていたそれを摘んで、俺のほうに向けた。
「ね? 浅井さんはヒット率が高いでしょ?」
彼の指にはべっとりと濡れた白い毛髪状の束が絡んでいた。
深夜〇時。他会社のセキュリティを一時的に切ってもらう約束の時間だ。
これから一度、そして三時と四時のあいだにもう一度の巡回プログラムが組まれている。仕事に入る直前に定例の連絡を入れると、社長は楽しそうにこう言った。
「若い女ならお前も喜ぶんだろうがなあ」
「残念ながら俺に重要なのは生きてるか死んでるかって点のほうです」
つまらない冗談に憮然と答えながら、俺はまだ何かを喋っていた叔父との通話を切った。ビル内の照明とともにエレベーターも電源を落とされたので、階段で二階に向かう。
昼は大理石っぽく見えたフロアの床は、懐中電灯の下では、まるで水に濡れた何かが這い回った跡のような様相を描いていた。
右に並ぶドアの向こうからときどき呻くのは、表通りを行き交う車の走行音が乱れた共鳴を起こしているせいだろう。
『誰もいないこと』を慎重に確かめながら、奥に進む。
総務部のプレートが朧な輪郭を現し始めた。
そこで俺は足を止める。
昼間の橋さんの表情を思い返す。
凄惨な事故を即座に察したという橋さんは、いったい何を聞いたんだろうか。老婆の断末魔? それとも肉体の破壊音?
明らかに人が死んだ音を目の当たりにしながら、確認することすらできなかった『意気地のない男』。もしその瞬間に浅井嬢も同席していたのなら、きっと彼女も上司を軽蔑しただろう。だからあの辛辣な態度だったんだ。
死んだ婆さんは何のためにこのオフィスに現れるんだろう。自分を見捨てた橋さんへの恨み? でもそんな理由で化けてまで出るもんなんだろうか。
蛇口から流れ出る白髪。白髪が生えるのは頭。……老婆の最終的な姿は、報道によると『原型を留めていなかった』という表現だった。だとすれば……。
もしかして老婆の頭はまだ見つかっていなくて、このビルの敷地内に転がっているんだろうか。それを発見してほしくて、給水管を伝い、蛇口から『証』を垂れ流すんじゃないだろうか。
俺は足早に歩みを再開した。総務部を素通りし、その奥の死角に隠れていると思われる給湯室に向かう。
そこには全面すりガラスの風呂場のようなドアがあった。変わった形状だが、たぶんさぼるOLたちの溜まり場にしないようにとの用心なんだろう。あの小心な総務部長の考えそうなことだ。
ドア上部のプレートに『給湯室』の文字を確認して、俺はそっとノブを回した。
白髪を振り乱した老婆の生首がいきなり目の前に迫ってきた。
……ということもなく、無人の室内には、ありふれた茶器や洗剤が並ぶ、静かな光景が広がっている。
懐中電灯の光を給水栓に当てると、吐水口に垂れ下がっていた水滴が鈍い光沢を返した。
そして。
その中に。
……それは混ざっていた。
「お前も空気読めよな。せっかくありついた仕事をたった二日でおじゃんにしやがって」
翌日の夜。業務完了の報告書を提出し、もう巡回の必要がなくなったことを告げると、社長はあからさまに気分を害して俺を罵った。
「しかも面白くねえ完了報告をしやがって。白髪の正体なんか適当にぼかしておきゃあいいんだよ。そのほうが盛り上がるだろうが」
悪びれずしゃあしゃあと言う叔父に、俺は肩を竦めて見せた。
深夜の巡回中に給水栓から溢れてきたモノ。
それは人間の一部などではなく、ただの野菜屑だった。そう、とうもろこしのひげだったんだ。
白く細いそれは、濡れていればたしかにごわついた老婆の髪に見えないこともなかった。事故との関連性に目が曇っていればなおのことだ。
巡回翌日、つまり今朝、出社した橋さんに確認を取ると、彼は驚きつつも即座に給水タンクのメンテナンス会社に電話をした。タンクは表通りに面した坪庭の地中に埋められている。
呼び出された担当者はまもなくタンク上部のごく片隅に空いた穴に気づいた。そしてその穴から中に飛び込んだ異物を拾い上げた。
それは、事故の際に現場から跳ばされた『老婆の乗っていた自転車の前かご』と『前かごに入っていた野菜の詰まった買い物袋』だったんだ。
怪異がビル全体で起これば、あるいはもっと解決は早かったかもしれない。けれど生憎、あのビルに設置されたポンプは固形物を三階以上に運ぶ能力はなかった。一階はオフィスではなく駐車場だ。
後ろめたさを持つ橋さんのいる階にだけあの現象が起こったのがなんとなく象徴的ではあったが、とりあえずこの件は幽霊騒動なんかじゃなかった。
「死んだ婆さんにしても、一件落着で忘れられるよりは、ずっと怖がられてるほうがよっぽど供養になっただろうに」
まだぶつぶつ言う叔父を尻目に、俺は退社の支度を整えた。正直、もう関わるのは嫌だった。
叔父の前に置かれた年季の入った湯のみ茶碗が目に入るたびに、浅井嬢に出された冷茶を思い出す。
視線を逸らす俺に、叔父は不思議そうに尋ねた。
「とうもろこし入りの茶で腹でも壊したのか? そんな繊細な質でもあるまい」
俺は溜息を吐いてから、
「違いますよ」
と答えた。
そして補足する。
「タンクにあった異物はそれだけじゃありません。前かごと野菜と、それから……たぶん、とっさに買い物袋を掴もうとしたんでしょうね。老婆の右の手首から先も見つかったんです」
叔父は口をつけかけていた茶碗の中身を盛大に吹き出した。