ため息吐くと幸せ逃げるよ
「……はあ」
小さなため息が、思わず零れた。
篠田翔子は水色のシャーペンを放ると頬杖を付く。
「ため息吐くと幸せ逃げんで」
自習プリントから面を上げて斉藤翼は翔子をじっと見詰めた。彼女はたまに耳ざとい。
翔子は口元を押さえて眉根を寄せた。
「それは困るなあ」
「うん。気を付けた方がええよ」
訛った口調でそれだけ言うと、翼は数式の続きに戻った。短く切られた黒髪が、さらりと揺れている。翔子は自分の短い三つ編みの先をつまんだ。いいなあ、翼は綺麗な髪で。
中学に入学して一ヶ月。席が前後で仲良くなった翼は、二年程前にこっちに引っ越してきたらしい。一文字の眉ときゅっと結ばれた唇がきつい印象を与えているが、本当はただ世間知らずの変わり者なだけで、気遣いの出来る良い子だと翔子は知っている。もっとも、気の使い方がずれている事がよくあるけれど。
翼は思い出したようにふと手を止めた。
「そんで、どうしたん?」
「え?」
「ため息」
「あー……うーん。なんでも」
翔子は自分でも悩みの原因がよくわからなかった。具体的に、なにがこんなに、胸に詰まっているのだろうか。
言葉を濁す翔子に翼は首を傾げた。
「ならええけど」
翔子は辺りを見回すとずれた眼鏡を直し、声をひそめた。
「伊吹がね、また告白されてたんだよ」
「……あ、話すんや」
翼は瞬きしてほんの少し笑った。
皆本伊吹は翔子の幼なじみの男の子で、驚くほどモテる。
同級生は勿論のこと、年下、年上、近所の人、しまいには翔子の母も「伊吹君はかっこいいね」と言っている。弱冠十三歳にして大人までたぶらかすんだから、恐るべし、と翔子は舌を巻くばかりだ。
(確かに伊吹、格好いいもんね)
目鼻立ちのはっきりした端正な顔立ちはもちろんのこと、何か特有の魅力があるのだと翔子は思う。人を引きつけるオーラのようなものだろうか。妙な色気というか、なんというか。
小学校も高学年になった頃、翔子は気が付いた。どんなことにも才能があるように、人に好かれるのにも才能がある。ピアノが得意、野球が得意、絵が得意。そんなものと並ぶように、特殊な才能があるのだ。
だからずっとずっと昔から、伊吹はモテる。翔子とは違って。
「今回はラブレターだって。同じマンションの二年生の人から」
「へえ」
「このご時世にラブレターだよ。私、伊吹が居なかったらラブレターなんて都市伝説だと思ってたかも」
「皆本くんはすごいねんなあ」
「うん」
「篠田さんも欲しいん?」
「――ラブレター?」
「らぶれたー」
翼の問いかけに翔子は顎に握りこぶしをあて、黙り込んだ。
(私も欲しいのかな? 欲しいから、羨ましいから、こんなにもやもやするのかな)
「欲しい、のかも」
誰かが自分に手紙を書く。それはきっと、とっても嬉しい事なのだと翔子は思う。
「……ところで」
「うん?」
もうみんな自習のプリントを投げてしまったらしく、教室内は騒がしい。
翼は至極真面目な表情で首を捻った。
「らぶれたーって、なに?」
同じマンションだから。
それだけの理由で伊吹と下校し始めて、もう何年経つだろう。
翔子は鞄を持ち直し、こっそり伊吹を見た。
思えば幼稚園の時から機会があれば一緒に帰っていた。これだけは変わらない。
それでも、並んで歩く二人の距離は、少しずつ離れていっているように翔子は感じていた。伊吹の背はぐんぐん伸びて、顔の位置でさえ今はちょっぴり遠い。
これからもっともっと遠くなっていくんだろうな。男の子は中高で伸びるんだという。翔子はほとんど止まったのに。
(いつまでこうして一緒に帰れるのかな)
今はクラスが同じだから流れで下校も同じだけど、クラスが変わったら? 伊吹が他の人と帰ると言い出したら? ……それこそ、彼女でも出来て。
伊吹は運動が出来るから、部活に入る可能性だって高い。今だって、色んな人に誘われている。翔子は翔子で、美術部か吹奏楽部に入りたいと思ってはいるものの、決めかねていた。自分から伊吹との時間を減らす事が、どこかで引っかかっているのかもしれない。
(伊吹の方はこんな事悩んでないんだろうなあ)
「はあ……。――って、うわあ!」
思考に浸かっていた翔子がふと気付くと、伊吹に顔を覗き込まれていた。彼の整った顔が、すぐそこにある。
翔子は制服の上から心臓を押さえつけ、後ずさった。深い緑色のセーラー服に、ぎゅっと皺が寄る。
びっくりしすぎ、と伊吹はけらけら笑う。
むっとしながら翔子は少し早足になって、伊吹を追い越した。駆け寄って来る伊吹は、未だに口の端が上がっている。
「それで、どうかした?」
「え?」
「ため息」
あ、この会話、翼ともしたな。
思い当たると同時に、翔子は目を瞬かせた。
「あれ、私ため息吐いてた?」
伊吹呆れたように頷く。
翔子は翼の言葉を思い出していた。
「ため息吐いたら幸せが逃げちゃうんだって。翼が言ってた」
「幸せ逃げる、ねえ……」
唇を尖らせて伊吹は何か考え込んだ。
翔子は抜けるように青い空を見上げると、溶けていった自分のため息の行方に思いを馳せた。
逃げてしまった幸せはいったいどこへ?
(ため息なんて吐かない、明るい人の所かなあ)
考えるとまた、息が零れてしまった。翔子は慌てて口を押さえる。
風が一筋、翔子達の間を吹き抜けていった。
また、逃がした。
翔子の元に『ラブレター』が届いたのは、数日後のことだった。
授業が終わり、翔子が伊吹と話しながら帰りの支度をしていると、翼に声を掛けられた。
翼は翔子達に向かって、白い封筒を差し出す。
「……らぶれたー」
翼がラブレター……伊吹に?
封筒と翼の乏しい表情を交互に見て、二人は揃って固まる。先に口を開いたのは翔子だった。
「伊吹は相変わらずすごいねえ」
「……いや」
翔子が感嘆して伊吹を見ると、彼は顔をしかめていた。ラブレターなんて日常茶飯事だからなんとも思わないのだろうか。
「って、そうじゃなくて! 翼、伊吹のこと好きだったの?」
声が大きくなってしまい、すぐにハッとして翔子はきょろきょろ教室内を見回した。誰にも聞かれてなさそうで安心する。
翼は目をぱちくりさせていた。
「ちゃうけど」
「……そっか」
翔子は胸をなで下ろした。手紙を書いたのは翼ではないようだ。
(そうだよね、翼は好きな人いるって言ってたし、その人は確か年上だった筈だもん)
誰かに伊吹に渡してって頼まれたのかなあ。ならいいんだけど。
伊吹は『ラブレター』を睨むようにしながら、口を閉ざしている。
封筒を手にしたまま翼は首を傾けた。
「これ、皆本くん宛ちゃうよ」
「へ?」
翼の白い指先は、ゆったりと翔子を指し示した。
視界の端で伊吹の眉間の皺が深くなる。
「わ、私に?」
「うん」
「嘘だあ。私にそんなのくれる人いないよ」
「……おったみたいやけど?」
翔子の鼻先で封筒を振る翼の手から、伊吹がそれを取り上げた。
「ちょっと伊吹、私のだよ」
「嬉しいのかよ」
伊吹の形の良い唇がすぼめられている。
じっと見つめられて翔子は眼鏡の奥の視線を泳がせた。
助けを求めるように翼を探すと、いつの間にか教室のドアを出ようとしている。
「ばいばい」
ひらりと手を振って彼女は教室を後にした。引き留める間もない翼の行動の速さに、翔子は唖然としてしまう。
誰からの手紙か、聞きそびれちゃった。
『篠田翔子様。
優しいところ、可愛いところ、素直でまっすぐなところが好きです。篠田さんがいてくれて、よかった。』
手紙は、それだけで終わっていた。
翔子は熱くなってしまう頬を押さえながらベッドに飛び込んだ。寝ころんだまま、白いシンプルな便箋に並ぶ文字を繰り返し眺める。角張っているけれど綺麗な字だった。
こんなの、生まれて初めてだ。
(だって、私に、好き、なんて)
さて、問題は一つ。
「誰からかなあ……」
身体を起こして、机の上から封筒を手に取る。隅々まで確認するも、どこにも差出人の名前がない。
翔子は脳内に思い当たる節のある人物を浮かべてみる。見事なまでに誰もいない。これが伊吹なら、沢山いるんだろうなあ。
「いたずらって線も、勿論あるよね」
むしろ、そっちの方が信憑性がある。からかうくらいの気持ちで書いたのだろう。
どちらにせよ明日、誰に頼まれたのか翼に訊けばいいだけの事だけど。
(……でも、知る必要、あるのかなあ)
もしこれが本物だったとしたら、差出人の名前が無いのも直接渡さなかったのも、バレたくないからなのかもしれない。
(――私の事が好きだなんて、恥ずかしいよね。みんなに馬鹿にされちゃうよ)
手紙は引き出しにしまって、翔子は部屋に置いてある鏡を覗き込んだ。
酷い乱視で手放せない分厚い眼鏡。地毛で赤茶けた肩くらいまでの髪は、癖が強くてまとまらないからいつも三つ編み。毛先も前髪も、好き勝手跳ねている。下がった眉に、頬にはそばかす。物心付いた頃からこれと言った変化もない自分が、映っている。
髪を解いて、眼鏡を取ってみる。レンズの無い世界は何重にもなってぼやけてしまい、よく見えない。
片頬を摘んで引っ張る。じわりと痛い。
伊吹なら、胸を張って好きって言われるのだろう。伊吹を好きだという女の子はみんな一生懸命で自分の気持ちに誇りを持っている様にさえ見えた。それが翔子にはいつも眩しくて、羨ましかった。
吐きかけたため息を無理矢理飲み込むと、息苦しくて一層ぼやけた。
朝から伊吹の機嫌が悪い。正確には、昨日の帰りからか。
放課後になってもそれは同じで、でも他の人には気付かれていないようだった。これも彼の才能の一つだろうか。
どうしたものかな、と翔子は隣を歩きながら悩んだ。突き出た唇は、拗ねてる時の伊吹の癖だ。たまに摘んでやりたい衝動に駆られる。
伊吹は意外と単純な所があるから何かで機嫌をとってみよう、と翔子は思い立ち、少し高い位置にある伊吹の肩に手を伸ばした。
翔子が開口するより速く、伊吹が生真面目な声色を出す。
「誰からだった?」
伸ばした指先が、行き場を無くした。
「誰って?」
「あの、手紙だよ」
「……わかんない。名前書いてなかったから」
結局翔子は翼に訊ねたりしなかった。考えれば考えるほど自信が無くなっていって、小さな勇気でさえ今は出せない。
「――知りたい?」
翔子は伊吹の問いかけを受けて俯いた。こんな事を言うからには、彼は知っているのかもしれない。
のろのろ地を蹴る自分の靴を眺めながら翔子は、ああ歩幅も違うとぼんやり思った。隣を歩く伊吹の靴は、一回り大きい。足まで大きくなったんだ。
翔子は笑顔を作ってから顔を上げた。
「いいよー。私には十分過ぎるくらい、嬉しかったもん。きっと知られたくないんじゃない? ……ラブレターなんて貰えただけで奇跡だからなあ、これ以上はいいや。そもそも、いたずらかもしれないし」
本音だった。もう少し、この奇跡に浸っていたかった。知るのが、怖かった。
「でも、もしも本物ならお礼くらい言いたかったかなあ」
翔子が呟いて隣を見ると、伊吹がいなかった。代わりに湿っぽい風が翔子の頬を撫でた。
後ろを顧みると、伊吹は立ち止まって下を向いていた。伸びてきた前髪が彼の表情を隠している。せっかく綺麗な顔してるんだから、もったいないよ、と苦笑しながら翔子は駆け寄った。
「奇跡なんかじゃないよ」
「え?」
「だって、俺も好きだから。ずっと前から、好きだったから」
驚くほど澄んだ黒い瞳に絡めとられて、翔子は動けない。体中が一息に熱くなる。
これは、誰だろう。この、目の前にいる人は、一体。
斉藤翼は、目に見えてしょげている伊吹に首を傾けた。
伊吹が落ち込んでいる。なんて珍しい。落ち込んでいる事が、というより、感情をここまで表に出すなんて。
休憩が始まると一目散に教室を出て行った翔子の席――つまり翼の後ろだ――に座り、すっかり肩を落としている。
「斉藤さん……」
伊吹の声は助けを求める子供の様だった。
「どうしたん?」
「翔子に嫌われたかも」
「そういえば様子変やったね」
翼は朝からずっと不自然な翔子達の姿を思い返した。
朝も一人ずつ来ていたし、翔子は今日、授業中以外教室にいない。伊吹を避けていたと考えれば納得出来る。
「けどなんでまた、わたしに相談するん?」
「だって俺、女友達いないから」
斉藤さん翔子と仲良いし。けろりと言い放つ伊吹に翼はなるほど、と思った。今現在、進行形で女の子達の視線を感じる。鈍感だと自覚のある自分でもなんだか居心地が悪いんだから、伊吹と友達になれる女の子はなかなかいないだろう。
長いため息を吐いてから、伊吹は頭を掻いた。
(あ、寝癖ついとる。教えんけど)
「翔子がラブレター貰って悔しかったんだよ。翔子、嬉しそうにするから」
「皆本くんは篠田さんがほんまに好きなんやね」
伊吹は顔を赤くして長い睫毛を伏せた。
「はっきり言うね、斉藤さん」
「あかんの?」
いいけどさ、と伊吹は口をもごもごさせる。
余裕のない伊吹の姿に、翼は口角が上がるのを感じた。
(皆本くんの見栄っ張りはやっかいやなあ)
そんなんやから篠田さんにも誤解されるんだ、と言ったら彼は唇を尖らせて閉口した。
「皆本くんもあげたらええのに」
「……ラブレター?」
「らぶれたー」
ゆっくりと首肯する翼に伊吹は目を逸らした。
「手紙とか苦手で」
「でも、篠田さん言ってた。『らぶれたー』は好きな人に、どこが好きかとか、どんなに好きかとか、書いて送る物なんやって。貰った人は、幸せな気持ちになれるんやって」
「……助言有難いんだけど、もうちょっと早く教えて欲しかったよ」
それから、伊吹は盛大に嘆息した。
「あ、ため息吐くと幸せ逃げんで」
終礼が終わるとほぼ同時に飛び出し、アスファルトを疾走した。
逃げていても仕方ない。
わかってはいる。わかってはいるんだけど。
足を緩めるとうっすら汗が滲んだ。
「はあ……」
翔子が伊吹を振った、という噂は、早くも広まっていた。伊吹ファンの子達から睨まれるのは今に始まったことではない。翔子はいつも、申し訳ないと感じていた。
けれども今日のは、今までのそれとはまた違う。
振った訳ではないんだけどなあ。昨日は何も言わずに逃げたから。
「そもそも、昨日のあれだって、私の勘違いかもしれないんだし」
嘘。冗談。聞き違い。言い間違い。早とちり。幻聴。夢。妄想。どの可能性だってある。でも、ちゃんと伊吹と話す勇気は湧かなかった。
「ねえ、篠田さん」
ふいに背後から呼びかけられ、息を飲む。この声は、確か。
「森崎先輩」
ついこの間、伊吹にラブレターを渡していた人だ。伊吹いわく「丁重にお断り」された人。
「伊吹君振ったってほんと?」
「……えっと」
「あんなに独占しといて振るってどういう事?」
詰め寄られて、翔子は何も言えなくなった。
(森崎先輩は私が伊吹を振ったのを怒っているのかな、違うんだろうなあ)
頭の中がぐるぐるして、考えがまとまらない。
「ごめんなさい」
翔子の口から出て来たのは、それだけだった。今言うべき言葉じゃないと、知っているのに。
思った通り彼女は一層目に角を立てた。
いつでも真っ正面から向き合う森崎先輩は自分とは真逆だなあ、と翔子は思った。
「こんな子のどこがいいんだか。篠田さんのそういうとこイライラする。嫌い」
嫌い、という言葉を咀嚼するのに時間が掛かった。
「ごめんなさい。でも私、森崎先輩のこと好きだから、好きになって貰えるように気を付けます」
にっこり笑った翔子に、意味分かんない、と言い残彼女は行ってしまった。
目の前がぼやけて、後ろ姿が何重にも見えた。大勢の人に後ろを向かれているみたいに。
(あれ、私いつの間に眼鏡外したんだろう)
ぺたぺたと自分の顔を触る。眼鏡はきちんと掛けてある。
翔子はずっと、胸の中に大きな空洞を感じていた。ぽっかり出来たこの隙間は、埋め方もわからない。
「――翔子」
声変わりした低い声も、伸びた背も、大人びた顔つきも、落ち着いた性格も、どれも格好いいのに。
「ごめんね、伊吹」
伊吹は首を横に振った。
心臓は、血を全身に巡らせるための機能を持っているらしい。それが上手く動かないからかな。こんなに天気が良くて暖かいのに、手が冷たい。
マンションの下にある小さな公園に来るのは久しぶりだった。昔はよく二人で遊んだものだけど。
「さっきの、俺のせいだ」
「ううん。私のせいだよ」
石のベンチはざらざらして、固くて、ひんやりしている。
濃い睫毛が、伊吹の頬に影を落としている。翔子は視線を滑らせて、そのまま切れ長の目元へ。高い鼻梁をなぞり、乾き気味の薄い唇、顎、首筋。
伊吹の憂いを帯びた横顔を眺めながら、翔子は自分の丸っこい頬を撫でた。
(どうしてここまで違うんだろう。どうして)
「違う。翔子はなにも悪くない。俺のせいで迷惑を掛けてるって、わかってる。でも、本当なんだ。小さい頃から、翔子が好きだった」
まただ。世界から伊吹が消えてしまった。いなくなっちゃった。
「……どうして」
「――全部、だよ。だって、翔子は」
伊吹は翔子の方を向いた。
翔子は、思わず見とれた。日が傾いて、オレンジに染まる空と、風の音。
翔子よりずっと綺麗な顔で、翔子よりずっと綺麗な髪を揺らし、翔子よりずっと綺麗な指先で翔子に触れて、翔子よりずっと綺麗な声で、よりによって伊吹は言ったのだ。
「綺麗だから」
全身の血が顔に集まるような感覚に、くらりとした。
その瞬間、乾いた音が春の夕焼けに響いた。
翔子は全速力で走った。エレベーターなんて待てない。階段を駆け上がり、自宅のドアを開け、靴を振り落とし、自室に入ってドアを閉めた。鞄が手から滑り落ちる。
しびれた右手は心臓が脈打つ度に熱を放った。
きっと生まれて初めてぶった相手は、きっと生まれて初めてここまで自分を想ってくれる人だった。
翼は、ほとんど泣きそうに揺れる眼鏡の向こうの茶色に、首を傾けた。
翔子が落ち込んでいる。
(よく笑う人はよく泣くって誰かが言っとったなあ)
休憩が始まると一目散に教室を出て行った伊吹と関係があるのだろう。
「似たもの幼なじみやなあ」
翼はしみじみ呟く。
「……似たもの?」
「昨日は皆本くんがわたしの所に相談に来はった」
「伊吹が?」
「うん」
一言発する毎に翔子の声は小さくなっていく。
「……伊吹に告白された」
「うん」
「死ぬかと思った」
「生きててよかったなあ」
「そしたら、ぶっちゃった」
「グーで?」
「ううん、パーで」
「そんなら大丈夫やね」
盛大なため息の後で、翔子は丸い目を伏せてちょっとだけ笑った。
「あの手紙は、純粋に嬉しかったの。なのになんで伊吹のは、こんなに頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃうんだろ。嬉しいのに、なんで」
「あの手紙って、わたしの?」
「え?」
「らぶれたー」
「え」
翔子が口を開けて瞬きをした。
(なんか変な事言ってもうた?)
どうも自分は人とずれているみたいだから、よく不安になってしまう。友達も、ろくに出来ない。
翔子はそんな翼に笑って話しかけてくれる。だから『らぶれたー』を書いた。好きな人に、どこが好きか伝える物だと翔子に聞いたから。
「篠田さん、らぶれたー欲しいって言ってたから。……あかんかった?」
しばしぽかんとしてから、翔子は可笑しそうに笑い出した。
「なあんだ、翼だったんだ。勘違いしちゃって恥ずかしいなあ。そっか、よかったあ。ありがとう」
翔子は眼鏡をとって目元を拭う。
ひとしきり笑った後で眼鏡を掛け直した翔子は、晴れやかな面持ちだった。いつもみたいに、ふんわりした空気を纏ってほんの少し上を向く。
「もしも生まれ変われるなら、私とは似ても似つかない人になりたいな。……それで、誘惑するの。伊吹が私みたいな奴に引っかからないように」
「たぶん皆本くんは誘惑出来ひんよ、誰にも」
「そうだね」
あんなに綺麗で、格好いい人、いないもん。
独り言のように囁いた翔子は、誇らしげだった。
翔子の中で伊吹は、伊吹であって、それ以外何者でもなかった。
物心付いた頃から側にいてたくさんの時間を共有したけれど、兄妹とか、家族とか、親友とか、そんなものとは違う。心に伊吹のスペースがあって、そこにすっぽり収まっていた。伊吹の場所は伊吹にしか埋められない。
だからずっとずっと、寂しかったのだ。伊吹が変わっていくのが。翔子は変わらないのに伊吹だけが変わっていって、心の空洞が広がっていくのが。
メールで呼び出した伊吹は、静かにブランコを漕いでいる。
「伊吹」
「なに」
「昨日はごめんね」
「いいよ。俺こそごめん」
伊吹はブランコを止めて、それでも前を向いたまま。
代わりに、なんて気持ちで翔子は地を蹴った。世界が揺れている。
「ううん。ほんとにごめんね。伊吹の人生初の口説き文句、最後まで聴かなくて」
にんまり口角をあげると、伊吹は口と目を丸くしていた。みるまに耳まで真っ赤っか。
オトコマエが台無しだよ。オトコマエ? お母さんが言ってた、伊吹はオトコマエだって。ふうん。
翔子はブランコに夢中な振りをして、伊吹の顔を盗み見る。頬を染めてくすぐったそうに笑うのが、幼く見えた。鼓動が高鳴るのを誤魔化すように翔子はかぶりを振る。
(ああそっか。伊吹は変わってなんていない。変わってしまったのはきっと、)
「私の方なんだ」
だって、気付かないうちに。
「……なにが?」
「今度話すね」
「えええ」
伊吹は苦笑混じりにため息を吐いた。
「あ、ため息吐いたら幸せ逃げるんだよ」
「……いいんだよ。そんな簡単に逃げる幸せはすぐ帰ってくるから」
これは唇を尖らせているなあ、と伊吹を盗み見ると、予想通りで嬉しくなった。
翔子は溜まっていたため息をお腹の底から吐き出した。
奥の奥から出た息は、びっくりするほど熱かった。
ブランコを思い切り漕ぐ。空の近くでたっぷり息を吸う。
私達は、もう元には戻れない。
そうだラブレターを書こうかな。書きたいことが、いっぱいあるんだ。




