「経費削減には、湯治が効く」
石は翌日も飛んできた。
その次の日も飛んできた。
三日目も飛んできた。
田中とフィオは相変わらず石投げ合戦を続けていた。
田中が石を受け止めた。フィオが石を受け止めた。お互い少し距離を置いて、立ったまま動かなかった。
「……今日も決着がつかないぞ」とフィオ。
「そうだな」と田中。
沈黙。
「……疲れていないのか」
「疲れてる」
「疲れながら投げているのか」
「そうだ。お前もだろうが」
「…………そうだ」
「明日にしろ」と田中。
「逃げるのか」
「医療費の問題だ。疲弊して怪我したら薬代がかかる。論外だ」
「……その理屈は認めない」
「数字の話だ。認めなくていい。合ってるから」
フィオが石を地面に置いた。田中も置いた。
二人同時に背を向けて歩き始めた。こんなことが毎日繰り返されている。
******
宿に戻ると、ショウが柱に背を預けて待っていた。
「お帰りなさいませ、田中さん。ええタイミングで戻りましたな」
「トルネコか。話せ」
「急ですなあ。まあ、ええですけど」
ショウが手帳を開いた。
「王都から二里ほど外れたところに温泉宿がありますんや。湯治目当ての旅人が使う宿でして。一泊食事込みで一五Gです」
「一五か」
「一食分よりも安うございますよ。硫黄泉でして、疲労回復に効きます。傷の治りも早うなると言われてますな」
田中が少し止まった。
「傷の治りが早い」
「左様で」
「確認だ。一五Gで食事がついて疲労が抜けて傷の回復が早まる」
「……おおよそ、そういうことで」
田中が振り向いた。
「全員、集合しろ」
******
一時間後、一行は宿を出た。
参加したのは田中・エリュシア・ネネ・グレイン・フィルナ・アルス、それとグラだった。
「なぜグラも来るのですか」とエリュシア。
「温泉に魔力回復効果があるなら翼竜にも効く。医療費ゼロだ」
「翼竜の医療費が心配だったんですか、今まで」
「保険適用外だぞ。常識だろうが」
(考えたことが一度もありませんでした)
(というかこの世界に保険とかありましたっけ?)
(でも言われてみると、ゼロ円でした)
(……認めます)
グラが田中の肩の上で「グゥ」と鳴いた。
ネネがグラを横目で見た。
「……嬉しそうだな」
「温泉を知っているわけがないだろうが」
「そういう顔だというだけだ」
田中がグラを見た。確かに目が細くなっている。
「グラ……コスパが読めてきたか」
「翼竜がコスパを読めるわけがなかろう」とネネ。
フィルナが後ろでのんびり歩いていた。
「ネネちゃんって、グラが来ると嬉しそうだよね〜!」
「……うるさい」
「顔に出てるよ〜!!」
「魔王の顔に何も出ていない!我は出ていないと言っておろう!!」
グレインが一歩前を歩きながら、腕を組んで前を向いたまま言った。
「出てる」
「第二席まで言うのか!!」
エリュシアが内心だけで呟いた。
(……今朝よりも空気が軽い)
(三日続けて石を投げ合っていたのを、全員で見てましたしね)
(なるほど。疲れていたんです)
******
温泉宿は山の中腹にあった。
木造りの建物で、屋根に薄い湯気が漂っている。入口の前に桶が積んである。山の斜面から引いた水が細い木樋を流れていた。
「……懐かしい造りだ」と田中が言った。
声に感情はなかった。それでも、少しだけ歩幅が遅くなった。
(今、少し止まりそうになりました)
(言いませんが)
宿の主人が出てきた。白髪の小柄な老人だった。一行を見て少し目を丸くしたが、すぐに笑顔になった。
「いらっしゃい。六名様と……翼竜一匹さんで?」
「そうだ。翼竜の宿泊料はいくらだ」
「ははは。翼竜さんはお代をいただいたことがないので……タダで結構ですよ」
「タダか」
田中がグラを肩から外して見た。
「聞いたか。お前はタダだ」
グラが「グゥ」と鳴いた。
「……評価を上方修正する」
(翼竜に対する評価を今、上方修正しました)
(理由:タダだったから)
(毎回そこだけは一切ブレがありませんね、この方は)
******
仕切りの話になったのは、部屋に荷物を置いた直後だった。
宿の主人が廊下で説明していた。
「こちらが男湯、こちらが女湯でして——」
「仕切りに建設経費がかかっている」と田中が言った。
「……はい?」
「混浴でいい」
エリュシアが止まった。
(な)
(んですか)
(正気ですか、この方は)
「……別にいいぞ」とネネ。
「!?」
「気にしない」
「気にしてください!! 魔王として気にしてください!!」
フィルナが小首をかしげた。
「わたしもどっちでもいいよ〜! 一緒の方が賑やかで楽しそうだし〜!」
「フィルナさんまで!!」
グレインが腕を組んで前を向いたまま言った。
「……俺は別がいい」
「グレインさんありがとうございます!! 正気の方がいました!!」
「あたりまえだろ」
「そうです!!あたりまえです!!」
エリュシアが田中を真正面から見た。目に力が入っていた。
「別にしてください」
語気が強かった。いつもと違う声の出し方だった。
田中が少し止まった。
「……そうか」
それだけ言って、田中は男湯の暖簾をくぐった。
エリュシアが内心で静かに息をついた。
(……勝ちました)
(何に勝ったのかは、わかりません)
(でも、勝ちました)
******
男湯。
アルスが脱衣所の前で目をつぶって立っていた。
「……なぜ目をつぶっている」と田中。
「れ、礼儀として——! 隣が女湯ですし、声が聞こえることもありますし——!!」
「壁がある」
「でも礼儀というものは——!」
「無駄だ。腕立て千回。それから入れ」
「な、なぜここで腕立てが——」
「礼儀は行動で示せ。腕立て千回が先だ。常識だろうが」
アルスが床に手をついた。なぜか理由に納得している顔だった。
田中が湯に足を入れた。丁度いい温度だった。岩を組んだだけの素朴な湯船で、山の水が絶えず流れ込んでくる。余計な装飾がない。
「フ~~……悪くない」
グラが田中より先に湯へ飛び込んでいた。元気よく泳ぎ回っている。
田中が三秒見た。
「……回復効果がある。お前は医療費ゼロだ」
石壁で隔てた女湯で聞いていたエリュシアはこう思った。
(翼竜のコスパが上がりました)
(こちら側から見ても上がりました)
アルスが腕立てをしながら声をかけてきた。
「し、師匠は……なぜ動じないのですか、こういう状況に……!」
「何にだ」
「隣の……その……声が聞こえることとか……!」
「四六だからだ」
「……え?」
「気にするな」
アルスは何かを言いかけて、腕立てに戻った。
ちょうどその時、仕切りの向こうから声が聞こえて来た。
「エリュシアさんってすごいよね〜!」とフィルナの声。
「……何がですか」とエリュシアの声。
「スタイル! 私とぜんぜん違うよ〜! 顔もきれいだし、胸もとぉってもおっきいし〜!!」
沈黙――
男湯に、見事に聞こえた。
アルスが腕立ての途中で固まった。目を開けていないのに顔が真っ赤になっていた。
「(聞こえてしまいました……!!)」
「(礼儀として聞いていません!!)」
「(聞いていませんよ!!!)」
「……腕立てを続けろ」と田中。
「は、はいいいいいい!!!」
******
女湯。
エリュシアが顔をわずかに赤くした。
「……フィルナさん、声が大きいです」
「えっ、聞こえちゃってるかな!?」
「向こうにも聞こえます」
「ごめんね〜!! でもほんとのことだよ!? エリュシアさんほんとにきれいだよ〜!!」
グレインが湯の端の岩に腕を組んで座っていた。視線を逸らしながら言った。
「……まあ、そうだな」
「グレインさんまで言わないでください!!」
「事実だろ」
(事実です)
(書けません)
フィルナがグレインのほうにくるくると泳いできた。
「グレインちゃんもスタイルいいよね〜! 鍛えてる感じがして! 腹筋とか!!」
「……うるさい」
「ほんとのことだよ〜! かっこいいな〜!!」
「うるさいと言っている」
ネネが静かに目を閉じていた。グラがネネの頭の上に乗ったまま、一緒に目を細めている。
「……我も入っていいか、その話題に」とネネ。
「ネネちゃんも!!」
「グレインは我より体が締まっている。参考になる」
「参考にするんだ!?」
「魔王も体が資本だ」
フィルナが笑った。
「ネネちゃんだってきれいだよ〜!! ちっちゃくてかわいいし、色っぽいし!!」
「……そうか」
「うん!! 田中さんもきっとそう思ってるよ!!」
ネネが少し止まった。
「……なぜ田中が出てくる」
「だって田中さん、ネネちゃんのことよく見てるよ〜!?」
「……気のせいだ」
「気のせいじゃないよ〜!!」
(田中は……聞いていません)
(仕切りを隔てた先で聞いていません)
(四六だから、です)とエリュシアは内心思った。
アルスが男湯で腕立てを再開したのが、仕切りの向こうで聞こえた。
「な、なんの音だろう〜?」とフィルナ。
「腕立てだろう」とグレイン。
「なんで!?」
******
仕切りの岩の向こうから、田中の声が来た。
「コスト管理で動いてる奴は信頼できる。グレは数字が見えてる」
アルスに言っていた。節約の話をしていた。
女湯の中が、少し静かになった。
グレインが固まっていた。
(……聞こえた)
(「信頼できる」と言ったか)
(俺のことを「信頼できる」と——)
「グレインちゃん!? 顔がめちゃくちゃ赤いよ!! 大丈夫!?」
「のぼせていない」
「でも——」
「湯のせいだ」
(湯のせいだ)
(絶対に湯のせいだ)
(他の理由など、ない)
「グレインちゃん!! のぼせてるよ!! 田中さーん!! グレインちゃんが——」
「黙れ!!! 騒ぐな!!!」
グラが「グゥ」と声を上げた。ネネが薄目を開けた。
「……フィルナ。静かにしろ」
「ご、ごめんねネネちゃん……」
静かになった。
グレインが湯の中で少しだけ深く沈んだ。
(……「信頼できる」)
(湯のせいだ)
(絶対に湯のせいだ)
******
ネネが長湯をしていた。
フィルナが上がった。グレインもいなくなった。グラだけが頭の上でまだ寝ている。
目がとろんとしてきた。湯気が白くなっている。体の境目が曖昧になってきた。
男湯の方から田中の声が来た。
「出ろ」
「……なぜわかる」
「入って何分だ。経験則だ。出ろ」
ネネが動こうとした。動けなかった。体が湯に溶けていた。
「……足が重い」
「バスタオルを巻け。腕を出せ」
仕切りの岩の端から腕が出てきた。
ネネがバスタオルを体に巻いた。腕を伸ばした。田中の手がネネの手首をつかみ、引っ張った。
ネネは、腕一本で温泉から引きずり出された。
「……勇者に引きずり出された魔王は、千年で我が初めてだろうな」
「熱中症は薬代がかかる。経費削減だ」
(……なぜかそれが嫌じゃない)
(経費削減で引き上げてもらった。それだけのことだ)
(なぜ、嫌じゃないのだ)
廊下で待っていたフィルナが飛んできた。
「ネネちゃん!! よかった〜〜!!!」
「……大げさだろう」
「だって心配で——!!」
エリュシアが廊下の端から、それを見ていた。
(よかった)
(……よかった、のでしょうか)
(声には出しません)
******
全員が上がった後も、エリュシアだけが湯の中にいた。
膝を抱えて、湯の端に座っていた。
天井から湯気が上がっている。石造りの壁がじんわり温かい。
(……温かい)
(どこが、と問われても答えられません)
(でも、温かい)
少し経った。
外から田中の声が来た。
「エリュ、何してる。出ろ」
(……そう言うと思っていました)
「……わかりました」
「バスタオルはあるか」
「あります」
「巻いてから出ろ。廊下で待つ」
「……わかりました」
エリュシアが立ち上がった。バスタオルを体に巻いた。
歩き出す前に、一度だけ湯を見た。
(……温かかった)
(理由は書けません)
(でも、温かかった)
廊下に出ると、田中が壁に背を預けて待っていた。こちらを見なかった。
「……遅い」
「長湯は体にいいと言います」
「いくらかかった」
「宿代に込みです」
「なら元を取るまで入れ。次から」
(……今、長湯を推奨されました)
(経費の話でした)
(わかっています)
(でも)
「……わかりました」
(なぜか、少し嬉しいです)
(書きません)
******
夜。
田中が縁側に座って煙草を一服していた。山の空気が冷たかった。煙が真上に薄く伸びた。
遠くに灯りが一つあった。
フィオだった。
宿の敷地から外れた岩の上に座って、一人で石を磨いている。笑っていない。ただ手を動かしている。その背中が、何かをひたすら続けることだけで自分を保っているように見えた。
田中が煙を吐いた。
(命令で動いてる顔だ)
(……俺も二十三年、同じ顔をしていた)
声はかけなかった。
煙草を最後まで吸い切って、立った。
(明日だ)
縁側の引き戸を開けて、中に入った。
遠くでフィオの手だけが動き続けていた。
******
**その頃、神界では――**
ウルダが書類の山の前に座っていた。表情は穏やかだ。姿勢は正しい。
「……エリュシアの外出申請、今月で何件目ですか」
部下の神官が書類を確認した。
「温泉付き宿泊施設への移動申請が一件、経費精算が一件、翼竜の同行許可申請が一件で……合計三件でございます」
「温泉」
「担当勇者が湯治と申請しています。『疲労回復・傷口修復促進・医療費の削減』という理由で、費用対効果の計算書が添付されています」
「計算書」
「はい。一五Gの出費で想定回復コストが最大四○G削減できるという試算が……」
ウルダが目を閉じた。
十秒ほどそのままでいた。
「……認可します」
「寛大です」と部下が言った。
「寛大です」とウルダも言った。
机の下で、足が少しだけ貧乏ゆすりをしていた。
部下が小声で別の神官に耳打ちした。
「……ウルダ様、最近よく貧乏ゆすりをされていませんか」
「言うな」
**※おじさん解説!**
湯治というのは昭和の文化だ。
温泉に長期滞在して体を治す。病院に行く前に湯治場に行く。そういう時代があった。
医者代より安い。副作用がない。飯がうまい。
理にかなっている。経費削減だ。
硫黄泉は疲労回復。炭酸水素塩泉は傷に効く。食塩泉は体が温まる。
成分で選べ。数字で判断しろ。
これも常識だろうが。
******
**神界業務日報 第21回**
本日の特記事項。
仕切りに関する検討を行いました。別にしました。理由:書けません。
フィルナ氏に外見を評価されました。男湯に聞こえました。記録しません。
長湯をしました。「元を取るまで入れ。次から」と言われました。
意味は分かっています。
それでも少し嬉しかったです。理由:書けません。
本日の私の所在:温泉宿でした。
追記:温かかった。記録しません。
******
**魔王の家計簿 第21回**
入浴料:一五G(食事込み)。
グラも入湯。支出:〇G。回復効果あり(勇者判定)。
勇者に腕をつかまれた。支出:〇G。
どの項目に書けばよいかわからない。
「色っぽい」とフィルナが言った。
どの項目に書けばよいかわからない。
「田中さんもきっとそう思ってる」とフィルナが言った。
どの項目にも書けない。
石を磨いている女勇者が遠くにいた。
田中も声をかけなかった。
我も声をかけなかった。
二人とも同じ判断だった。
こういう時、我と田中は似ている気がする。
……書いてしまった。
******
**フィルナのおたより 第3回**
温泉、きもちよかったです!!!
グレインちゃんが顔をすごく赤くしてたよ〜!
「湯のせいだ」って言ってたけど、湯のせいじゃないと思うな〜。
でも言いませんでした!
エリュシアさんってほんとにきれいだよね〜!
男湯に聞こえてたみたいで、アルスくんが外で腕立てしてたよ〜!
なんで!?
ネネちゃんが田中さんに引き上げてもらってました。
バスタオル姿でした。よかった!!!
夜、田中さんが一人で縁側にいました。
声をかけようとして、やめました。
なんとなく、そういう顔でした。
遠くで女の子が石を磨いてました。笑ってなかったです。
明日、笑ってるといいな、って思いました。
******
**グレイン状況報告 第1回**
石投げ合い合戦より三日目。王都外れ温泉宿にて宿泊。
仕切り:別。適切な判断。
アルス:腕立て後に入湯。理由は不問とする。
グラ:温泉入湯。コスパ評価が上昇。特記なし。
ネネ:長湯。引き上げ済み。経費削減名目。特記なし。
エリュシア:長湯。自力で出た。特記なし。
自分:入湯。「信頼できる」という言葉を聞いた。
……報告書に書く必要はない。
湯のせいだ。
以上。




