「女神は、今日だけルールを破る」
この話も、笑えるところはありません。
でも、次の話では笑えます。
廃砦の最奥は、今まで来た場所と、空気が違った。
魔物がいない。
音がない。
それなのに、何かがいる。
田中が足を止めた。
「……違う」
ネネが魔力を高めようとして、止まった。
「……我の力が」
「抑えられています」とエリュシアが言った。声が少し固い。「神力も同じです。この場所、魔道具による封印が……」
田中が自分の手を見た。
いつもと違う。何かが、ない。
「……消えた」
「何が」とネネが言った。
「俺のチートが、ない」
三人に緊張が走った。
* * *
現れたのは、形のはっきりしない何かだった。
廃砦の石壁に溶け込むように立っている。輪郭が揺れている。魔物とも幽霊とも違う。ただ、圧がある。
田中は一瞬、それを見た。
頭の中で計算が走る。
俺のチートなし。ネネの魔力は半分以下。エリュシアの神力もまともに機能していない。勝てる確率。損切りか続行か。
その瞬間だった。
工場の音がした。頭の中で。
金属が擦れる音。機械の唸り。昼も夜も同じ音がする、あの場所の空気。
先輩の顔が浮かんだ。
設備の前に立って、笑っている顔。「田中、これ直しとかんと危ないぞ」と言った、あの顔。
上申書が却下された日。
また却下された日。何度も。何度も。却下され続け――。
事故が起きた日。
正しかった。
全部、正しかった。
それでも、止められなかった。
「……う る さ い」
田中が前に出た。
計算じゃない。損得でもない。説明もない。ただ動く。
* * *
田中が押されかけた。
チートのない体は、ただの十七歳だ。膂力も、耐久も、何もかも、普通の人間と変わらない。それでも退かない。
その時――エリュシアが前に出た。
天界の規則では、勇者の戦闘への直接介入は禁止されている。補助まで。支援まで。それが限界だ。
エリュシアは、その線を越えた。
「黙っていてください。今は」
感情で言った。規則より先に、体が動いた。
(……これは)
(ルール違反です)
(でも)
三人で、その何かに向かった。
田中が前に出る。弾かれる。壁に肩をぶつけた。痛い。チートのない体は、素直に痛い。血も出て、傷つく。
ネネが魔力を絞り出して牽制する。半分以下の出力でも、ネネの魔力はネネのものだ。その隙に田中が立て直す。
エリュシアが田中の背中に手を当てた。神力が抑制されている。それでも、出せるだけ出す。傷が少しだけふさがった。
「まだ行けるか?」
「行けます」
「我も!」
三人で、もう一度”それ”に向かった。
全力を尽くし――
倒せたのは、辛うじて、だった。
* * *
戦闘が終わった後、しばらく誰も動かなかった。
田中が壁に手をついて、息をついた。
「……まあ、助かった」
エリュシアが目を閉じた。
(「まあ」ってなんですか!!!)
(……でも)
(この方に、初めて触れられた気がします)
声には出さない。
ネネが田中を見た。
「……怖くなかったのか」
田中は答えなかった。
少しの間、石壁を見ていた。
それだけだった。
* * *
チートが戻ったのは、その何かが消えてしばらく後のことだった。
田中が手を見て、確認した。
「戻ったな」
誰も何も言わなかった。
エリュシアは少し離れたところに立っていた。
(……申請書を書かなければいけません)
(理由の欄は)
(まだ、書けません)
※神界業務日報 第二十三回
本日、規則に違反しました。
勇者の戦闘への直接介入は、天界規則第十七条により禁止されています。
申請書は後日提出します。
理由の欄は、まだ書けていません。いつか書きます。
追記:「まあ、助かった」と言われました。「まあ」の一言については、別途抗議します。
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※魔王の家計簿 第二十三回
本日の支出
・回復薬 二本 六十G
・その他消耗品 二十G
田中の評価:今日は評価できない。
エリュシアが前に出た。田中が何も言わず続いた。
我も続いた。
終わった後、田中は「まあ、助かった」と言った。
エリュシアが何も言わなかった。表では。
我には、その顔が少しだけ見えた。
家計簿には書けないが、書いた。




