「ある夜の話」
今回は静かな話です。
笑いはありません。
それでも、読んでもらえると嬉しいです。
王道亭の夕飯が終わった後のことだ。
廃砦からの依頼書が届いたのは、昨日の昼過ぎだった。「攻略済みとされていた
施設に再度魔物が巣食い始めた。調査と掃討を依頼したい」。
報酬の数字を見て、田中は少し考えた。「明日、条件を確認する。それから決める」
それだけ言って、後は夕飯を食って、外に出た。
ベッカーの夜は静かだ。
王都のように灯火が多くない分、空が広い。
路地を一本入ると、昼間はやっていない屋台が出ていた。薬草売りの老人と、その
隣に雑貨を並べた商人。棚の端に、細長い箱が一列だけ置かれていた。
田中は足を止めた。
「……それ」
商人が振り向く。
「神タバコですか。一本五百ゴールドになります」
田中は少しの間、黙っていた。
十秒か、十五秒か。
「……くれ」
商人が箱を一つ渡した。田中は代金を出した。釣りはなかった。
* * *
「……買うのか」
声がした。
振り向くと、ネネが立っていた。いつの間にいたのか、気づいていなかった。
「一本だけだ」
「ずっと「論外だ」と言っていたではないか」
「……そうだな」
田中は箱を開けた。中に一本だけ入っている。
「習慣だから」
それだけ言って、路地の端に向かった。
ネネは何も言わなかった。ただついてきた。
* * *
少し遅れて、エリュシアの気配がした。離れた場所に立って、こちらを見ている。
田中は立ち止まって、タバコに火をつけた。
煙が上がる。
ベッカーの夜の空気に、少し濃い香りが混じった。
ネネが横に来て、黙って見ていた。
「……前のとは違うのか?」
「少し濃い」
「……慣れるか?」
「慣れん」
田中は一服して、空を見た。
「でもまあ、悪くない」
エリュシアは、少し離れたところに立ったままだった。
(……よかった)
声には出さない。
何がよかったのかも、うまく言葉にならない。
ただ、よかった。それだけだ。
* * *
三人とも、しばらく黙っていた。
虫の声だけが聞こえた。
ネネが、前を向いたまま言った。
「……お前、元の世界に帰りたいと思うか?」
田中は答えなかった。
タバコの煙が一本、夜空に伸びていく。
「……帰っても、誰もおらんしな」
少し間があった。
「……昔、一人、死なせた」
また空を見た。
それだけだった。
続きはない。説明もない。
田中はまた空を見た。そういう顔だった。何かを嘆いているわけでもなく、ただ
言っただけ、という顔。
ネネが空を見た。
エリュシアも、少し顔を上げた。
三人で、ベッカーの夜空を見ていた。
エリュシアは何も言わなかった。
(……記録にあります)
田中の四十六年分のログ。仕事の記録。改善提案書の記録。却下の記録。
残業の記録。誰かの後始末の記録。
全部、書類として処理してきた。
(帰っても、誰もいない)
四十六年間の記録には、確かにそう書いてある。
エリュシアは、黙っていた。
* * *
タバコが短くなってきた頃、田中が言った。
「次、削れないのはこれだけだ」
ネネは何も言わなかった。
エリュシアも何も言わなかった。
煙だけが、夜の空に上がっていった。
※おじさん解説! 第十九回
「神タバコ」というのは、一本五百ゴールドの高級品です。
現代日本円で換算すると、だいたい七千五百円。
田中さんはこの世界に来てからずっと、断り続けていました。
「論外だ」とも言いました。「五百Gだろうが」とも言いました。
14話でタバコが切れた後も、買いませんでした。
15話でガンツさんからもらった葉巻を一本だけ吸いました。
17話では、ポケットに手を入れていつもの感触がないことを確認していました。
そして今夜、初めて買いました。
「習慣だから」と言っていました。
おじさんはそういう言葉を、長い説明よりも信用することにしています。
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※神界業務日報 第十九回
本日の特記事項。
勇者田中剛、神タバコを初めて購入しました。
理由:「習慣だから」
購入金額:五百ゴールド
備考:「帰っても、誰もおらんしな」という発言がありました。
照合中です。以上。
追記:神タバコの煙を、三人で見ていました。
追記2:「次、削れないのはこれだけだ」という言葉がありました。
記録します。理由の欄はまだ書けていません。
追記3:よかったと思いました。
業務報告書にこの一文を書くべきかどうか、まだ決めていません。
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※魔王の家計簿 第十九回
本日の支出
・神タバコ 一本 五百ゴールド(田中の分)
田中の評価:評価の言葉が、今日は見つからなかった。
三人で空を見た。
田中が「帰っても誰もおらんしな」と言った。
我には、その「誰も」の数がわからない。
ただ、それが長い数だということは、わかった。
神タバコは「少し濃い」と言っていた。それでも吸っていた。
田中が「削れないのはこれだけだ」と言った。
節約の鬼が節約しないものを一つだけ持っている。
なぜかは、たぶん我にしかわからない気がしている。
でも聞かなかった。
明日から、また三人で動く。
今日のことは、家計簿に書いた。数字でなく文字で書いた。




