「海は、ただで入れる」
海はタダだ。
入場料もない。維持費もかからない。
田中剛が海に行った理由は、それだけでよかった。
翌朝、ギルドに戻ると、リッカが書類を二枚持って待っていた。
「まず、B級昇格の正式推薦書です」
「ヨシコさん、手数料は」
「無料です。リッカです。」
「そうか、ヨシコさん」
「聞いてないですよね!?」
「なら受け取る」
「人の話聞いてぇぇぇ!?」
田中が書類を見た。一行読んで、次の行を読んだ。
「これでB級になるのか」
「推薦なので、審査がありますが……正直、形式だけです。ダンジョンの記録を見れば誰でも通します」
「審査の日程は」
「一週間後を——」
「急げ」
「……善処します」
エリュシアが横から口を挟んだ。
「昇格を急ぐ理由はあるのですか」
「上がれるなら早い方がいい。機会費用だ」
「……その言葉、ネネから最近よく聞きます」
「覚えたなら使え。常識だろうが」
ネネが少しだけ顎を上げた。
(……褒められた気がする)
(気がするだけかもしれないが)
リッカが二枚目の書類を出した。
「もう一つ、緊急依頼が入っています。報酬割増、危険度B相当です」
「読む」
田中が書類を一瞥した。
「海辺の町か」
「シーラという港町です。魔王軍の下っ端が暴れているという報告が入っています。他のパーティが手を出せていない状況で——」
「行く」
「理由を聞いてもいいですか」とエリュシア。
「割増だ。常識だろうが」
ネネが少し眉をひそめた。
「……我の軍か」
「お前は関係ない」
「そういうわけにも——」
「とっとと行くぞ」
(話を切るのが毎回早いのですよ……!)
(もう少し私の話だって聞いてくれても......)
―――――
一方そのころ、魔王城の一室で四天王・ゾルグが頭を抱えていた。
「なぜだ……陽動のつもりだったのに……なぜ本当に暴れているのだ……!」
遠くでゼフィーラが書類を投げた音がした。
*****
シーラまでは半日の道程だった。――当然のように馬車も転移魔法も使わず、田中の
「走るぞ」の一言でここまで走ってきたのだ。
街道を外れると、潮の匂いがしてきた。ネネが少しだけ歩幅を広げた。田中は気づいたが、何も言わなかった。
港町の入口に着くと、遠くに光っているものが見えた。
海だった。
ネネが止まった。一瞬だけ。すぐに歩き始めたが、その一瞬を田中は見ていた。何も言わなかった。
町の中は騒がしかった。商店の窓が割れている。路地の端に魔物の足跡が残っている。住民が戸を閉めて中に引っ込んでいた。
エリシュアが状況を確認する。
「現地の冒険者は手を出せていない状況です。魔物の数は十体前後、ただ魔力を持った個体が混じっているらしくて——」
「わかった」と田中。「まず宿を取る」
「……え、先に依頼をこなさないのですか?」
「先に宿だ。荷物を置く。着替える」
「着替える?」
田中がエリュシアを見た。
「作れるか」
「……何をですか」
「水着だ」
「水着は支援物資の対象外です。嗜好品に——」
「冒険に必要な装備だ」
「水着が装備ですか!?」
「海に入る。動ける格好がいる。装備だ」
エリュシアが止まった。
「……それは、一応、理屈としては」
「作れるか」
「……技術的には、可能です」
「作れ。スクール水着ともう一枚、合計二枚」
「スクール水着とは何ですか」
「説明する。メモしろ」
(この方が「メモしろ」と言う時、ろくなことになりません)
(分かっているのに、なぜメモを出してしまうのですか、私は)
説明が終わった。
エリュシアが固まった。
「……これを、作るのですか」
「そうだ」
「私も着るのですか」
「お前は神界正装があるだろうが。俺とネネの分だ」
エリュシアが一瞬だけ表情を変えた。
「……わかりました。作ります」
(なぜ少し残念な気持ちになっているのですか、私は)
(断然こっちの方が布の面積が多いです)
(分かっています)
(……でも)
「あと」
「……まだあるのですか」
「ふんどし」
「ふんどし!?」
「俺の分だ」
「あなたの分はスクール水着ではないのですか!!」
「俺はこっちだ」
「昭和を引きずらないでください!!」
「常識だろうが」
(今「ふんどし」を作ることになりました)
(女神になって何年も経ちますが、初めての案件です)
「……わかりました」
ネネが田中を見た。
「ふんどしとは何だ」
「後で見ればわかる」
「……楽しみにしておく」
リッカとルコは顔を見合わせた。
「……何が起きているんですか」とリッカ。
「わかりません」とルコ。「でも帳面に書いておきます」
「書かなくていいです!!」
*****
宿で着替えることになった。
先にエリュシアが出てきた。
神界の水辺正装だった。白を基調にした布地だが、面積が極端に少ない。背面は紐二本。女神の美的感覚が全振りされた一着だった。
田中が止まった。
「……お前、それは何だ」
「神界における水辺の正装です。品位があります」
「Tバックじゃないか」
「正装です!」
「痴女か、お前は」
「ちちちちちがいます!! 神聖な正装です!!」
「変態か」
「へ、へ、変態ではありません!!!」
(勇者に「痴女」と言われた女神は史上初だと思います)
(でも確かに布が少ないです)
(……少し、恥ずかしいです)
「動けるか」
「……動けます」
「なら十分だ」
(「十分」でした)
(「十分」……)
(複雑です)
―――――
次にネネが出てきた。
黒いスクール水着だった。
田中がじっと見た。一言だけ言った。
「……様になってるな」
「そうか?」
「スク水はそういうもんだ。常識だろうが」
(今「様になってる」と言いましたね)
(私には「十分」だったのに)
(スク水と神界正装で評価が変わるのはなぜですか)
ネネは自分の格好を見下ろした。
「……悪くないな」
「黒が映える」
(……なんか、嬉しい)
ネネが少しだけ顎を上げた。エリュシアは黙って前を向いた。
―――――
田中が出てきた。
全員が止まった。
褌だった。
「……なんですか、それは」とエリュシア。
「海パンだ」
「海パンではありません! どう見ても褌です!!」
「昭和の海水浴はこれだ」
「昭和を今すぐ置いてきてください!!」
ネネが真顔で帳面を出した。
「褌……経費……」
「お前は書くな」
「参考になる」
「何の参考だ」
エリシュアが遠い目をした。
「……このパーティ、本当に大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫じゃないと思います」とルコが即答した。ちなみにルコは肌が弱いので水着を着ていない。
「同意見です」とエリシュア。
*****
海辺に出た。
砂浜に魔物の足跡が残っている。数体が波打ち際の近くをうろついていた。田中が一体目に近づいた。
デコピンした。
霧散した。
二体目を振り払った。霧散した。三体目が逃げた。残りが散った。
「……相変わらずですね」とエリュシア。
「普通だろうが」
「普通ではありません」
そこへ、砂浜の端から声が来た。
「待て勇者! 我こそ四天王第四席——」
田中が褌のまま振り向いた。
砂浜に立っていたのは、重厚な鎧をまとった大柄な男だった。使命感だけで動いている顔をしていた。目の下にクマがある。
ゾルグが止まった。
「……なぜ褌なのだ」
「海だからだ」
「それは答えになっていない」
「常識だろうが」
「褌が常識な時代はいつですか!!」
ネネがスク水のまま腕を組んだ。
「ゾルグ。その計画の予算はいくらだ」
「ね、ネネ様!! その格好は!!」
「水着だ」
「水着ですか!? 魔王様が!?」
「着心地がいい」
「そういう問題では!!」
「で」と田中が言った。「予算は」
「よ、予算は……」
「ないな」
「……」
「論外だ」
ゾルグが泣いた。
褌の男に予算を聞かれて泣いた。
(ゾルグさん、気持ちはわかります)
エリュシアはそっと目を逸らした。
「次、計画を立てる時は予算から始めろ」と田中が言った。「報連相は基本だ」
「なぜ勇者に言われなければならないのだ!!」
「正しいからだ」
「……ぐ」
ゾルグが鎧の袖で目を拭った。
「……覚えておく」
「覚えてから来い」
「次こそは——」
「次は予算を持ってこい」
「……持ってくる」
ゾルグが砂浜を歩いて去っていった。鎧が砂に沈むたびに少しよろけた。
*****
依頼が完了した。
夕方。潮の色が変わり始めた。空がオレンジと紺の間にある。
田中が砂浜で貝を拾い始めた。タダだから。
ネネが波打ち際の手前で立っていた。動かなかった。
エリュシアが少し離れたところから見ていた。リッカとルコはもう宿に戻っている。
「……広いな」とネネが言った。
「千年、城にいたんだろうが」と田中。
「ああ」
「海は来たことなかったか」
「……なかった」
田中が隣に立った。台詞はなかった。
(……この方は、こういうことを何も言わずにやります)
(ずるいです)
ネネが波打ち際に一歩踏み込んだ。
波が足に当たった。
「冷たいな」
「そうだ」
「……悪くない」
「そうだ」
二人とも前を向いたまま。
エリュシアが静かに近づいた。少し離れたところに立つ。三人で同じ方を向いた。
田中が手の中の貝を見た。
「これもタダだ」
ネネが少し笑った。
「……タダが一番好きなんだな、お前は」
「当然だろうが」
波が来て、引いた。
また来て、引いた。
三人とも、しばらく黙っていた。
(その後めちゃくちゃ潮干狩りさせられました......)
*****
一方そのころ、四天王ゾルグの『魔王様奪還作戦・陽動海辺版』は砂まみれで終わっていた。
「なぜだ……なぜ俺が褌の男に予算を聞かれて泣いているのだ……!」
「人選の問題だ」「自業自得だ」と二方向から飛んだ。
ゾルグは砂を握った。「……次こそは」
「「止めはしない」」
※おじさん解説!
スクール水着というのは昭和の文化遺産だ。
シンプルで機能的で余計な装飾がない。
経費の無駄がない。これが水着の正しい姿だ。常識だろうが。
褌は通気性がいい。これも常識だ。
あと、海はタダで入れる。
維持費もかからない。入場料もない。
この世界で一番コストパフォーマンスのいい場所かもしれん。
※神界業務日報 第17回
本日の特記事項。
「水着は冒険に必要な装備」という解釈で物質生成を要求されました。
理屈としては通ります。非常に悔しいです。
スクール水着とふんどしを作りました。記録します。
神界の水辺正装が「痴女」と評されました。記録します。
「十分だ」と言われました。記録します。
ネネが「様になってる」「黒が映える」と言われていました。記録します。
四天王第四席・ゾルグと初対面しました。予算がありませんでした。記録します。
本日は記録することが多すぎます。
追記:三人で海を見ました。記録しません。
※魔王の家計簿 第17回
本日の支出:宿代・食費・依頼経費。黒字。
スク水というものを着た。動きやすかった。
田中が「様になってる」と言った。
「悪くない」と思ったので書いた。
海は広かった。初めて見た。
冷たかった。悪くなかった。
田中が隣に来た。それだけ。
でもそれだけで、なんか、よかった。
ゾルグが来て泣いて帰った。
次は予算を持ってくるらしい。
少しだけ期待している。予算の話を聞くのが楽しいので。
貝はタダらしい。田中はやはりタダが一番好きなのだな。




