「始めるなら、数字からだ」
翌朝。魔王軍四天王・フィルナが荷物をまとめて出発の準備をしていた。
荷物といっても大した量ではない。
小さな鞄一つ。四天王の第三席が持つ荷物にしては、あまりにも質素だった。
「ネーネちゃん、視察終わったから帰るね~!」
朝から満開の笑顔だった。
ネネが腕を組む。
「そうか。まあ、元気でな。皆にもよろしく伝えてくれ」
「ネネちゃん……照れてる!」
「照れてない!」
入口から田中が眺めていた。朝飯の後、特にすることもなく壁にもたれていた。
「お前、また来るのか?」
「うん!」
「来んな」
「えぇ!?」
フィルナが驚いた顔で田中を見た。田中は表情を変えない。
「来ても飯代が増える。論外だ」
「飯代で拒絶されちゃったのーわたし!?」
(初対面の相手にそれを言えるのですか……)
エリュシアが小さく咳払いをした。
「フィルナさん、勇者様はこういう方ですので……」
「なんか分かった気がします!」
(分かったんですか......)
―――――
出発前。フィルナがネネの前に立った。
少しだけ、声のトーンが落ちた。
「ネネちゃん」
ネネが目を向ける。
フィルナが手を伸ばして、ネネの手をぎゅっと握った。
「楽しそうだったよ」
それだけだった。説明もなく、理由もなく、ただそれだけ。
ネネが一瞬だけ黙った。何か言おうとして、言えなかった。
田中はその間、荷物の端切れを確認していた。見ていなかった。
―――――
フィルナが去った後、宿の前が少し静かになった。
「騒がしいのがいなくなったな」
田中がそれだけ言って、中に入ろうとした。
エリュシアが後ろから言う。
「……少しくらい名残惜しくないのですか?」
「惜しい顔してたか、俺は」
「……していませんでしたが――」
「なら答えは出てるだろうが」
(でも、ちょっとだけ笑ってたと思います……! どうせ言っても認めないので諦めます!!)
「……わかりました」
ネネは窓の外を見ていた。何も言わなかった。
*****
昼になった頃、王都からリッカが宿に来た。B級以上の依頼リストを持っている。昇格候補として、案件の確認に来たらしい。
ちょうどその時、ルコが朝の仕事を終えて戻ってきた。
テーブルを拭き終え、エプロンを外して、田中の前に立った。
真顔だった。
「弟子にしてくれ!」
沈黙。
(この方に弟子を……正気ですかルコ君)
リッカが顔を上げた。
「ちょっと待ってください。この勇者さんの行動、普通の冒険者と全然違うんですよ。D級でダンジョンの収支を計算しながら進むとか、昇格前に手数料を確認するとか、そもそも依頼の前に材料費の見積もりをするとか……それを弟子として教わろうとしているんですか?」
「……で、何を教えてほしいんだ」
田中はリッカを見なかった。ルコを見ている。
「数字。値切り。あと、なんで『安いだけで買うな』なのか」
三つ、即答だった。
田中が少し間を置いた。
「まず走れ」
「え」
「弟子は最初の三年は走り込みだ。常識だろうが」
(数字の弟子に走り込みを課しています。数字と走り込みの関係が全くわかりません)
「……数字のことを教えてもらいに来たんですけど」
「基礎体力があって初めて頭が動く」
「基礎体力と数字、関係あるんですか」
「ある」
「……どう関係あるんですか」
間が空いた。
「……今日は話だけだ」
(今の「どう関係あるんですか」で折れましたね)
ネネ「我も最初は走らされた」
ルコが目を丸くした。
「え、ネネちゃんも!?」
「三周した」
「それ何の意味があったんですか」
ネネが少し考えた。
「……わからん」
(走り込みの意味、魔王様も理解していませんでした)
リッカが壁に手をついた。「あのー、私いつまで待ってればいいですかね......」
―――――
田中がエリュシアを見て言った。
「そうだ。お前、字が綺麗だろ」
エリュシアの動きが止まった。
「……なぜそれを」
「見てりゃわかる。ルコの練習帳を作れ。数字の書き方から始まる一冊だ」
「私は女神ですよ!? 天界の管理業務がございます!」
「タダで最強の補助戦力が教材を作る。断る理由がない。常識だろうが」
(また経費削減枠で使われています)
(でも「字が綺麗」と言われました)
(見ていたんですか、この方――)
(――今それは関係ありません)
「……わかりました」
ルコが遠慮がちに言った。「……女神様って、すごい人なんじゃないですか」
「すごい人だ」とネネが答えた。「だが田中には勝てん」
(な、なぜそんなに冷静にそれを言えるのですか……! しかも間違っていないのが悔しいです)
リッカが小声で「あなた方一体どういうパーティなんですか……」と呟いた。誰も答えなかった。
―――――
「ところで」と、ネネが口を開いた。
「なぜ学費は取らんのだ。機会費用ではないのか?」
全員が止まった。
テーブルの上がシンと静まり返る。
(魔王が機会費用という単語を使いました)
(一体、どこで覚えたんですか)
「……いつの間にそんな言葉を」
「田中に教わった」
田中が少しだけ間を置いた。
「……成長したな」
ネネが黙った。
(……なんか少し嬉しい)
「学費は不要だ」
「将来、様々な形で黒字で返ってくる。先行投資だ」
ルコが言う。
「……勉強代って、投資なんですか」
「そうだ。始めるなら、数字からだ。常識だろうが」
ルコが少し考えてから言った。
「……計算から勉強してみる」
「あの」とリッカが恐る恐る言った。「冒険者になりたいかどうかの話、どこへいったんですか」
「してない」
「ですよね!? してくださいよ!?」
*****
夕方。田中がポケットから箱を取り出した。
持ち上げて、軽さを確認する。
一本だけ残っていた。
指先で確認して、戻した。吸わなかった。
ネネが横から見ていた。しばらくしてから言う。
「……今日は吸わないのか」
「明日にする」
「なぜ」
「残り一本だ」
ネネは何も言わなかった。
ただ、箱がポケットに戻るのを最後まで見ていた。
※おじさん解説!
「何になりたいか」より「何を目的にするか」が先だ。
強くなりたい、は動機であって目標ではない。
ルコは「数字・値切り・理由」と三つ言った。
それが田中の「始めるなら、数字からだ」を引き出した。
それだけだ。
あと走り込みは今でも正しいと思っている。
三年は長すぎたかもしれないが。
※神界業務日報 第13回
本日の特記事項。
宿場の少年が弟子入りを申し込みました。
教わっている内容:数字・値切り・コスト計算。
冒険者になるかどうかの話は出ませんでした。
私は練習帳の作成を命じられました。
字が綺麗と言われました。業務報告書に記録するか迷いましたが、しました。
追記:フィルナは帰りました。宿の前が少し静かです。
追記2:勇者様が残り一本のタバコを「明日にする」と言っていました。
理由「残り一本だから」。記録します。
※魔王の家計簿 第13回
今日の支出:変わらず。
フィルナが帰った。別れ際に手を握られた。
何か言おうとしたが言えなかった。何を言えばよかったのかは今もわからない。
ルコが弟子入りした。田中は「数字からだ」と言った。
我も最初はそう言われた気がする。
機会費用という言葉を使ったら「成長したな」と言われた。
少し嬉しかったので書く。家計簿に書いていいのかわからないが書いた。
田中はタバコを吸わなかった。残り一本だからだそうだ。
何かを最後に残す気持ちは、少しだけわかる気がした。
※第一席ゼフィーラの業務報告 第1回
フィルナの視察が完了した。
消去法での派遣判断は正しかったはずだった。
追記:誤算だった。
追記2:グレインが「俺が行く」と言ったことは記録する。




