~名もなき旅人の見たもの・三~
目の前に広がるのは整えられた道……ではなく、獣道。
鬱蒼と生い茂る木々は太陽の光を遮り、昼であるはずなのに薄暗い。時折、道の脇でガサリと何かが動く音がして、そのたびに緊張が走る。
レンコウガ南の森。鬼人たちが『修練所』と呼ぶだけあって、決して安全なものではない。強力な魔物が生息しているという話も聞いた。
そんな中を、緊張を適度に保ちながら丸一日歩く。
月がのぼり始めた頃、森が少し開け、ぽつぽつと灯りが見えてきた――思わず、ほっと息を吐く。
近づいていくと、茅葺き屋根の素朴な家々が寄り添うように立つ、小さな集落がそこにはあった。
家の周りには水の張られた畑が広がっており、月明かりを反射してキラキラと輝いている。
集落の入口らしき場所に、見張りなのだろうか。一本角の鬼人が立っている。
その角は美しい翠色をしており、肌も薄緑がかっているのが明るい月のお陰で分かった。
南部に多く住むという翠角族だろう。
彼は自分に気づくと、驚いたように目を見開き、警戒の色を浮かべた。
「……何者だ。こんな夜更けに、余所者が何の用だ?」
槍を構え、いつでも動ける姿勢で、一本角の翠角族は低く鋭い声で問いかけてくる。
素直に旅の者だと告げ、宿を乞う。
なるべく丁寧に伝えたつもりではあったが、彼の警戒が解かれることはない。鋭い眼差しでこちらの全身を確認し、腰の短剣と背中の弓に目を留めた。
「旅の者だと? ここはどの街にも繋がっておらんぞ。
このような森の奥まで、何の目的で来た。ここは、物見遊山で来る場所ではないぞ」
わずかに、ほんの僅かに槍の穂先は下を向いたが、未だに鋭い目は向けられている。何か小さなきっかけがあれば、彼の槍は容赦なく突き出されることだろう。
彼の背後の集落から、ざわめきが聞こえてきた。他の住民たちも夜の来訪者に気づき始めたようだ。
不用心に近づいてくることはなく、家の戸口から何人かの翠角族がこちらを窺っているのが見えた。
「素性の知れぬ者を易々と集落に入れるわけにはいかん。まずは名を名乗れ。そして、どこから来て、どこへ向かうつもりなのかを話せ」
その口調は詰問に近い。しかし、それは当然だろう。このような夜に訪れた余所者の自分を歓迎するとしたら、こちらの方が彼らを疑わなくてはならない。
名を名乗り、「レンコウガから来た」と告げる。
彼はこちらの名前を反芻し、改めて家名で自分を呼んだ。険しい顔が少し柔らかくなったのは、名前を名乗ったこと。それと、レンコウガという見知った土地から来たことが、最低限の安心材料になったからのようだ。
「レンコウガから……あそこは外の者も多いと聞くが、こんな森の奥まで来るのは珍しい。貴殿は……行商人には見えない。俗に聞く冒険者とやらなのか?」
彼は槍を地面につき立て、腕を組む。まだ完全に気を許したわけではないが、対話の姿勢は見せてくれた。
そんな彼の様子を見ていた他の村人たちも、すぐに危険はないと判断したのか、何人かがこちらに近づいてくる。彼らの奥には、幼い子供を抱えた女性の姿もあった。彼女は心配そうに子を抱え直しつつ、しかし好奇心も隠せないといった表情でこちらを見ていた。
「夜の森は危険だ。魔物も出るし、迷えば二度と帰れん。宿を貸すのは構わんが……その前に、あんたが我らに害をなす者でないと示してもらう必要がある。
何かあんたの身分を証明するものはあるか? 冒険者ならば、証があると聞くが」
言葉は厳しいが、理不尽な要求ではない。
素直に応じたいところではある。しかし残念ながら自分は冒険者ではなく、世界どこにでも通じる身分証は冒険者証以外にはない。
首を横に振って冒険者ではないと伝える。代わりに、武器を外して地面に落とした。それだけでは不足かもしれないと思い、両手も上げて害を加える気はないことも示す。
「……ほう」
感心したような声が彼の口から漏れ出た。彼の警戒心が、薄れていくように見えた。
彼は槍を再び掴んだ。だが、その穂先がこちらに向くことはなく、ただそれを肩に担ぎ直す。
それから彼は、背後で心配そうにこちらを見ていた他の村人たちに、もう大丈夫だ、とでも言うように手を振った。彼の目がこちらを見て、彼自身の家名を口にした。
「武器を拾ってくれ。疑って悪かった。我が名はサカキという。
夜が明けるまででよければ、我が家で休んでいくといい。
大したもてなしはできんが、茶くらいは出せるだろう」
彼の言葉に、素直に頭を下げる。
「ありがとうございます、サカキ殿」
そしてゆっくりと武器を拾う。サカキが満足気に頷いた。
「なに、困った時はお互い様だ。もっとも、こんな森の奥で外の人間を助けることは滅多にないがな」
サカキはそう言ってカラリと笑うと「こっちだ」と、集落の中へと歩き始めた。
後をついていくと、先程まで遠巻きに見ていた村人たちが、道を空けながらも興味深そうにこちらを見つめてくる。子どもたちは母親の裾を掴みながら、その影からひょこりと顔をのぞかせている。
彼らの視線に敵意は見えず、純粋な好奇心だけが宿っているように感じた。
集落は決して大きくはないが、よく手入れされているのがわかる。家の土壁には農具がかけられ、軒先には薬草らしきものが吊るされていた。
畑は形良く整えられ、土にしっかり根付いた作物が風にそよぐ音とやや湿り気を帯びた空気、どこかから聞こえてくる虫の声が、夜の静けさを心地よく彩っている。
やがてサカキは、集落の少し奥まった場所にある一軒の家の前で足を止めた。周囲の家より少しだけ大きい、立派な作りの家で、中からは温かな灯りが漏れていた。
「ここが我が家だ。さあ、入ってくれ」
彼が木の扉を横に動かして開けると、中からはふわりと香ばしい香りが漂ってきた。
靴を脱ぐべきか迷ったが、サカキがそのまま歩いていくのでそれに習い、一段高くなったところで彼が履物を脱いだので自身もブーツを脱いだ。
そしてつい彼の履物――草で編んだようだ――をじっと見ていると、サカキがこちらのブーツをしげしげと不思議そうに見ていることに気づいた。
彼もこちらの目に気づいたのか、少し気恥ずかしげに笑い、そのまま奥へと促された。
奥からはあの香ばしい香りが、風に乗ってこちらまで届いていた。
奥のドアをサカキが開くと、「おかえりなさい」と軽やかな声がした。サカキと同じ翠色のまっすぐな一本角を持つ女性が、橙色の瞳でこちらを驚いたように見て立ち上がった。
「あなた……。その方は?」
「旅の方だ。道に迷われたそうで、今夜はうちに泊まっていただくことにした」
女性は一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべると、自分に深いお辞儀をしてくれた。
「ようこそおいでくださいました。私はサカキの妻で、ナツメと申します。さ、どうぞ奥へ。何もありませんが、せめて温かいお茶でもどうぞ」
ナツメと名乗った女性は、そう言って部屋の中央へ自分を促した。
部屋の中央には少しくぼみがあり、火が焚かれてあった。そしてその火で湯を沸かしていたらしく、女性はその温かなお湯で丁寧に茶を淹れてくれた。
湯呑、という持ち手のない陶器の容れ物を両手で受け取ると、じんわりと温かさが伝わってきた。そしてどうやら、玄関から漂っていた香りはこの茶の香りだったようだ。
「ありがとうございます。いい香りがしますね」
ナツメは「ふふ……私が作った茶葉なんです。喜んでいただけたようで何よりです」と柔らかく笑った。
温かい茶と柔らかな物腰には、旅の疲れを癒やしてくれるような温もりを感じた。
――『戦士の国ライガイア見聞録』 三日目・了
※本記録は、名もなき旅人と記録補助者による共同生成である。




