第7話「恋に落ちて、蒼を見上げた」
(この先に、雨依くんがいるような気がする……)
真っ白な雪に残された足跡は、私のことを知らない人のものもあるかもしれない。
雨依くんは国の偉い人たちと、大事な話を進めている最中かもしれない。
急遽浮かび上がった可能性に不安を抱きながらも、私は足跡の上に足跡を重ねていくことを選んだ。
『っ、待って!』
雨依くんと再会した、あの日。
声をかけられると同時に、後退りをしてしまったことを思い出す。
随分と失礼な態度をとってしまったけれど、雨依くんは私のことを知っていたからこそ怒ることがなかった。今なら、そう理解できる。
(あの日が、私と雨依くんを再び繋いでくれた……)
灰色で覆われていた空の色は、澄み切った蒼へと移りゆく。
真冬の夜舞病棟では、ほとんど見ることができない青空。
私が大好きな蒼を視界に入れることができているのは、季節が春へと向かっているから。
(寂しい……)
恋しいと想い続ける蒼が、失われる時刻へと近づき始める。
まだ、陽の光は沈まない。でも、もうすぐで空は青い色を失ってしまう。
夜舞病棟は視界に入っているのに、門から夜舞病棟までが遠い。
何時間もかかる道程ではないと分かってはいても、空の色が変化を見せる瞬間に居合わせているせいで焦りを感じてしまう。
(この先に、もしも雨依くんがいなかったら……)
見知らぬ暗い夜道を、独りで歩かなければいけない。
独りで行動することが難しいのなら、早めに帰宅するべきだった。
けれど、どうしても私は最後に夜舞病棟に帰ってきたかった。
「はぁ、はぁ」
あまりに身勝手で、自己満足。
そんな私を嘲笑うかのように、夜舞病棟の出入り口である扉はしっかりと施錠されている。
そんなのは分かり切っていたことのはずなのに、もう二度と開くことのない扉に涙を零しそうになった。
(夜舞病棟の中にはいない……)
夜舞病棟の中から鍵をかけている可能性だってあるのに、夜舞病棟の中に雨依くんはいないと思った。
(また、勘……)
魔法を使うこともできなければ、未知なる力を操ることすらできない。
でも、さっきから私は何かに導かれるように足を動かしていく。
もちろん辺りを見渡しても、案内人的な存在は感じない。
雨依くんが何かしらの魔法を施しているかもしれないけれど、その何かを感じることも私にはできない。
(でも……)
雨依くんがいる場所が分かる気がする。
雨依くんに招かれているのかとか、そういう難しいことは分からない。
私ではない誰かのための魔法を残してくれているのかもしれないけど、そういうことすら今の私には理解することができない。
(会いたいから……)
身勝手で、自己満足。
でも、私は、この会いたいって気持ちを貫きたい。
(雨依くん……!)
心の中で、大切な人の名前を叫ぶ。
大切な人の名前は、私が生きる世界を幸せなものにしてくれる。
「はぁ……はぁ……」
子どもたちが遊ぶことのなくなった夜舞病棟では、昔のように綺麗に雪が除去されなくなった。
歩き辛くて仕方がない。
けれど、この歩き辛さは、雨依くんと再会した日のことを鮮明に思い起こしてくれる。
「雨依、くん……」
何かに導かれているのかもしれない。
そんな物語のような、空想的な世界のような妄想を繰り広げていた。
でも、実際は、そういうことではないと気づいていた。
「雨依くん……」
私の足を動かしていたのは、自分の中にある記憶。
雨依くんと過ごした日々でもあり、雨依くんと過ごしたすべての時間が、私をこっちだよって手招きしてくれた。案内してくれた。
「良かった……雨依さ……」
夜舞病棟の裏庭で、出かかった言葉を抑え込む。
(雨依…………様……)
まだ、物語の世界にいたい。
頭の中で繰り広げていた妄想が終わりを告げる。
「…………」
夜舞病棟の陰に隠れながら、私は雨依くんをこっそり視界に入れていた。
ただ、見つめるだけ。
遠くから、大切な人を想い続けるだけ。
「…………」
物語の世界にいるのは、きっと楽だと思う。
記憶が戻らないフリをして、雨依くんをご主人様だと慕って、もしもその主従関係設定が破綻したら家族という絆を築く。
そうすることで、私は雨依くんの永遠になることができる。
(でも……)
裏庭で、雨依くんは独りぼっちだった。
数分が経過しても、雨依くんを迎えにくる国の偉い人たちは現れない。
雨依くんは誰も迎えに来ることのない場所で、ただ一か所だけを見つめ続けたまま動きを見えない。
(さっきから、何を見て……)
広大な敷地。
夜舞病棟が置かれている敷地全部を使ってかくれんぼをしたら、決して見つけてもらうことはできない。
それくらいの広さある真っ白な世界に、雨依くんは独りきり。
「…………」
雨依くんが見つめていた物の正体が、私にも分かった。
(雪だるまの、残骸……)
白一色の世界に散らばった、色鮮やかな布地や花びらや木の枝や葉。
暖かな春を知ることのできない雪だるまたちは、自然の流れに従って溶けてしまった。
何日も前に世界から姿を消した雪だるまたちが生きた痕跡を、雨依くんはずっと見つめていた。
「雨依さ……」
雨依様。
本当に、その呼び方でいいの?
誰かに問いかけられているわけでもないのに、そんな疑問が頭の中をかすめていく。
「…………」
本当に、私はこれからも嘘を吐き続けるの?
記憶が戻っていなフリをしていくの?
「雨依、くん……」
雨依くんは、常に私の幸せを考えてくれた。
夜舞病棟にいるときも、夜舞病棟を離れてからも、記憶が消えた子どもたちの幸福な未来のことを、ずっと考えていてくれた。
「…………」
雨依くんが見つめている雪だるまたちの軌跡だって、私を喜ばせるために用意してくれたものだということを知っている。




