第9話「美しいものに触れてもいいよって声をかけてくれる人がいるのなら」
私は夢見が良くないことが多くて、眠る時間というものがあまり好きではなかった。
悪夢に魘されるとまではいかないけど、次の日の朝を迎えても心はなかなか晴れやかになれない。
でも、そんな日々から私はもうすぐ卒業する。
「羽乃架」
夢の中で、お母さんに会った。
「今日は、なんの日でしょうか」
お母さんは私の名前を呼んでくれない人だったけれど、夢の中は特別だった。
お母さんが私のことを、名前を呼んでくれた。
「今日は、羽乃架が産まれてきてくれた記念日なの」
蝋燭が灯されたホールケーキは、とても二人で食べきれるものではない。
それくらい豪華なケーキをお母さんに用意してもらえるなんて、夢の中では大きな奇跡を起こすことができるんだって。
これからの眠りに、希望のようなものを抱いてしまった。
「羽乃架」
ずっと、名前を呼んでほしかった。
ずっと、お母さんに名前を呼んでもらいたかった。
叶わないと諦めてしまっていた私の願いは、夢の中で実現する。
「お誕生日おめでとう」
お母さんに送られた、おめでとうの言葉。
私は、これに別の意味が込められているように感じた。
「ありがとう、お母さん」
あなたは、人を殺す可能性があるという言葉に囚われながら生きてきた。
お母さんは私を、その言葉の呪縛から解放するために現れてくれたのかなって思った。
『人を殺す可能性はなくなったよ、おめでとう』
『ありがとう、さようなら』
夢の中で交わし合った最後の言葉に、私は勇気をもらった。
お母さんから、最後の贈り物を受け取った。
「ん……」
夜舞病棟を出てから、私はよく眠るようになったと思う。
時間を忘れてしまうほど熟睡する日もあって、あ、こうして私は眠ることが怖くなくなっていくんだと思った。
「雨依様……」
私の隣で体を休めている雨依くんの名前を呼ぶ。
「おはようございます……」
一番に、雨依くんに挨拶大切な人へ向けて挨拶を送る。
一日の始まりに、大切な人に挨拶できる幸福感に浸ろうとしたとき……。
「雨依く……」
ベッドで体を休めているのは、私だけだった。
一緒に一台のベッドで眠りに就いたはずなのに、目を覚ましたときに雨依くんは私の隣にいなかった。
私が無理を言って雨依くんを休ませてしまったから、残っている仕事を片付けに行ったのかもしれない。
(恋人じゃないから……当たり前……)
俯きそうになる。
けれど、私は脳裏を過ぎる否定的な感情を自ら打ち消した。
(私は、雨依くんを幸せにするって決めたから……)
これは、一方的に決めたこと。
雨依くんの迷惑を考えずに、私が雨依くんのためにやりたいと思ったこと。
だから、俯いて落ち込んで、勝手に拗ねるのは良くない。
「よしっ」
気合いを入れるために呟いた言葉だけど、なんだか自分らしくない言葉の気がして笑ってしまいそうになった。
ベッドから体を起こして、熱を下げるために働いてくれた汗を洗い流そうと腕に力を入れたときのことだった。
「あ、ごめ……っ! 起きてると思ってなくて……」
部屋の扉が、音も立てずに遠慮がちに開かれた。
「ノックしないで入るとか失礼にも程が……って、本当にごめん!」
会話の流れから、ぐっすり眠っていた私を起こさないように配慮してくれたことが窺える。
雨依くんは何も悪くないのに、こんなときまで私のことを想いやってくれる。
「あ……お粥……食べられそうかな」
雨依くんにもやりたいことや、やるべきことは多くあるはず。
それなのに、私のために時間を割いてくれることがとても嬉しい。
「食べたい……って、少し待ってください!」
雨依くんが部屋に戻って来てくれたことに喜びを感じていたけれど、私にはもっと気を遣わなければいけないことがある。
覚醒しつつある意識は、ベッドに近づこうとした雨依くんを制止させた。
「薬が効いて……その……汗をたくさんかいてしまって……」
雨依くんが同じベッドで休んでいないことを寂しいと思っていたはずなのに、いざ雨依くんと顔を合わせると私の準備は何も整っていないことに気づかされる。
「羽乃架が食べ終わるのを確認したら、すぐに出て行くよ」
それは、食べ終わるまで部屋を出て行ってくれないということでもある。
どんなに雨依くんが無頓着な人だったとしても、汗の匂いは不快以外の何物でもないと思う。
(これ以上、雨依くんに嫌われたくない……)
ただでさえ私は、雨依くんにとって記憶を消す対象だった。
私の顔を見るたびに苦しい想いが甦ってくるはずなのに、更に醜態を曝け出すことで雨依くんの嫌悪感を煽りたくない。
「まだ食欲が湧かないかな」
食欲がないという言葉を否定するために、私は首を何度か横に振る。
けれど、食欲があるのにお粥に手をつけない理由を説明することができない。
「口、開けられる?」
雨依くんの表情を直視できなくなっていた私は、雨依くんの言葉通りに口を少し開いてしまった。
「んっ」
「少し食べて、そうしたら薬を飲もうか」
自分の手を使わずに、私は雨依くんにお粥を食べさせてもらった。
突然のことに戸惑いながらも、雨依くんを安心させるためにも口に含んだお粥を咀嚼していく。
「あの……あとは自分で食べま……」
「あーん」
まるで、子ども。
駄々をこねて食事を摂らない子どもをあやすように、雨依くんは柔らかい声色で口を開くように促してくる。
(雨依くんにとって私は……妹みたいなものなのかもしれない……)
雨依くんが兄という存在を装ってくれるのなら。
そうすることで、私と普通の関係を築いてくれるのなら。
雨依くんと接することが恥ずかしいという気持ちを抑え込んで、私も雨依くんに対して普通を提供できるようにならないといけないのかもしれない。
「……美味しい……です」
なるべく雨依くんには、もう夜舞病棟に触れてほしくない。
夜舞病棟に関わることで、雨依くんは苦しんでしまう。
そう思って、私は記憶が戻っていないフリをしている。
そう思って、私は一方的に主従関係を築き上げている。
「ありがとうございます、雨依様」
この距離感が、ちょうどいい。
この距離感が、心地いい。
「あの……今度こそ、自分で食べ……」
「俺が、羽乃架のことを甘やかしたい」
それなのに、私たちは近いうちに家族という関係へと進んでしまう。
戸籍上のことでしかないけれど、家族という関係性は私と雨依くんの距離を近づけてしまうみたいで怖い。




