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これが最後の恋になりますように  作者: 海坂依里
第5章「夜舞病棟の〈外〉で生きていく」
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第6話「晴れた日の蒼い空に会いたい」

「あ……」


 私のために用意された部屋の前までやって来ると、入り口の扉に雨依(うい)くんがもたれかかる様子が視界に映った。


「身体、温まった?」


 雨依くんの声が、体温を急激に上げていく。


羽乃架(はのか)さんが部屋に入るのを見届けてから、休もうかなって思って……」


 否定しなくてもいいよって。

 そんな都合いい言葉は聞こえてこないけど、自分で自分の心を否定しようとしたタイミングで雨依くんは私の前に現れてくれた。


「ごめんね、羽乃架さん」

「雨依さ……」


 零れてもいない涙を拭うように、雨依くんの指が私の目元に触れる。


「いっぱい泣いたよね……」


 泣いた跡を消すことはできても、目の腫れまでは隠しきれなかった。

 一瞬だけ触れた雨依くんの指が遠ざかって、私は雨依くんから謝罪を受ける。


「怖がらせて、ごめん……」


 こんな顔をさせたいわけじゃない。

 雨依くんには、笑ってほしい。

 それなのに、今の私は雨依くんを悲しませることしかできない。


「ごめん……本当にごめん……」


 私のことなんて、どうでもいい。

 私は雨依くんが笑ってくれれば、それでいい。

 私が幸せとか幸せじゃないとか、雨依くんが気にかける必要はどこにもない。


「…………雨依様」


 止まない雨と、同じになってはいけない。


「羽乃……」

「怖かった……」


 塞き止めていたはずの涙が溢れてしまう。

 ここで泣いたら、雨依くんにもっと辛い想いをさせてしまう。

 それを理解しているのに、雨も涙も止んではくれない。


「誰かを……殺めてしまったんじゃないかって……」


 零れる涙の量が増えれば増えるほど、雨脚が強くなっている気がする。


「誰も殺していないよ」

「はい……」

「羽乃架さんは、誰も殺めたりなんてしていない」

「……っ、はい……」


 雨の音が強くなる。

 私の言葉をすべて雨音にかき消してほしいと願うけれど、現実そう上手くはいかない。

 こんなにも弱い私を曝け出してしまったら、雨依くんはいつまで経っても安心して自分の幸せを探しに行くことができない。


「雨依様……」


 雨依くんには、笑ってほしいと思うのに。

 雨依くんの幸せを、願い続けているのに。


「抱きしめてください」


 それらの想いに反する行動ばかりとってしまう。


「一瞬だけでいいので……」


 このままでは、雨依くんは笑ってくれない。

 このままでは、雨依くんは幸せになれない。


「一瞬だけ……抱きしめて……っ」


 叶うはずのない願いを、こんなにも簡単に叶えてくれる人がいた。

 抱いてはいけない願いを、こんなにもあっさりと叶えてくれる人が傍にいてくれた。


「雨依さ……」


 一度離れてしまった距離が縮まるなんて、気のせい。勘違い。

 それでも、再会してから今日までで一番近い距離で雨依くんに触れている。触れてもらえた。


「雨依様……雨依様……」


 私は雨依くんの腕の中で大きな幸福感を得ることができているのに、きっと雨依くんは幸福感の欠片も感じていない。

 正反対の感情を抱いているって分かっているのに、私は雨依くんに家族という立場を強要する。


「そんなに毛布で顔を覆うと、息できなくなるよ」

「風邪……移すといけないので」


 私の涙が止まるまで、雨依くんは私のことをずっと抱きしめてくれた。

 涙が落ち着きを見せる頃に身体を休めるよう促され、私と雨依くんは一台のベッドの上で向かい合わせになりながら言葉を交わし合っていた。


「昔から、ずっとそうだよね」

「昔……?」


 恋仲でもない男女が一台のベッドを共有することは許されなくても、家族という関係なら許してもらえる。

 それを分かっていたから、拭いきれない孤独を和らげるために雨依くんが望んでいないことを強いた。

 また、家族という立場を利用した。


「羽乃架さんは……」

「羽乃架で、いいです」


 雨依くんに名前を呼び捨てされたいと思っていたのは、雨依様は上の立場の方。

 私は下々の立場だからだと身分をわきまえた上で湧き上がってくる感情だと思っていたけれど、そうじゃなかった。


「呼び捨てされた方が、しっくりするので」


 夜舞病棟で一緒に過ごしていたとき、雨依くんは私の名前を呼び捨てにしていたから。

 雨依くんの記憶は残っていなくても、身体は雨依くんのことを求めていた。

 ずっと、ずっと、雨依くん(雨依様)に呼び捨てされたいと願っていたということ。


「……羽乃架は、風邪を引くたびに布団で口を覆うんだよね」


 雨依くんから直接、私の記憶に関する話は聞かされていない。けれど、雨依くんは私との思い出を語り始める。


「……風邪を、移したことはありますか?」

「ううん、一度も」

「……良かったです」


 過去の話をしてくれるようになったということは、このあとに待っている展開は想像ができてしまう。


「……俺も、夜舞病棟の出身者で……」


 雨依くんは私の幸せを考えて夜舞病棟の話をするかどうか、ずっと悩んでくれていた。

 それなのに、雨依くんが心に留めていたものを無理に引き出すことになってしまった。


「昔……雨依様と私は、出会っていたということですよね……?」

「うん……周りが呆れるくらい、ずっと一緒にいた」


 毛布で顔を隠しながら、雨依くんの表情を覗く。

 昔の思い出を語るときの雨依は悲しそうに見えて、私が記憶を失うことになった理由には良くないものが込められているってことが分かる。


「そんなに大切にしてもらっていたのに……」


 戻った記憶と、未だに失われたままの記憶を擦り合わせていく。

 こうすることで記憶が完全なものになるかは分からないけれど、記憶が戻ることで心が強くなれるのなら努力していきたい。

 たとえ努力が無意味なものだとしても、過去の記憶が雨依くんを支えるための強さに変わるのなら無意味な努力すら継続したい。


「雨依様に、お話していないことがあって……」


 幼い頃から、たった独りで抱えてきた隠しごとを伝えようと思った。

 自分が抱えている事情を打ち明けるというのは、とても身勝手な行動だと思う。

 自己満足とも言えると思う。


「羽乃架の話、聞いてもいい?」


 人は身勝手と分かっているのに、自己満足だと分かっているのに、どうして口を動かすことができてしまうのか。

 雨依くんの同情を誘って、雨依くんの心が離れていかなければいいのにって思っているのかもしれない。


「体調が悪いなら、無理して話す必要はない」


 同情を得られれば、相手の迷惑を省みない最低な人間ではありませんよって身の潔白を証明できる。

 だから、私の口は達者に育ってしまったのかもしれない。

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