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これが最後の恋になりますように  作者: 海坂依里
第3章「夜舞病棟に戻って」
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第5話「私が幸せになれるのなら」

「寄贈した本を回収されているということは、その絵本はまたどこかの施設に……」

「うん、そうしようかなって」


 それが、寄贈される本の正しい行く末。

 自由に本を楽しむことのできない子どもたちのために、絵本は次の幸せと出会いを求めて旅立つ。

 それが、寄贈される本の正しい在り方。


「施設に寄付しなければいけない絵本だと理解はしています」


 私がいただいた幸せを、世界のどこかにいる誰かに贈る。

 そういった幸せの循環に憧れてはいたものの、私という人間は強欲だった。


「この絵本には夢が詰め込まれていて、多くの人に読んでほしいって思っているのですが……」


 雨依(うい)様の厚意を、独り占めしたい。


「雨依様が寄贈された絵本を、私にください」


 雨依様の想いを全部、私が受け取りたい。


「代わりに、私がほかの本を寄贈します。だから、その絵本を……」


 この絵本だけは、誰にも渡したくないと思った。

 雨依様が寄贈してくださった絵本だけは、誰にも贈ることができないと思った。


「私にください」


 間違いだらけの選択だということは理解した上で、私は欲しい物を強請った。

 夜舞病棟で、楽しみや喜びは分けるものだって教わってきた。

 玩具を独り占めすることも、お気に入りの何かを独り占めすることは悪だと思ってきた。

 それでも、人生で初めて欲しい物を欲しいと伝えた。


「この間、俺が羽乃架(はのか)さんに贈った絵本を寄付するって案は駄目かな?」

「……駄目、です……」


 雨依様の顔を見ることができない。

 怒られることはない。咎められることもない。

 けれど、雨依様の表情を確認できない。確認する勇気が湧いてこない。


「同じ絵本が二冊になるよ?」

「雨依様が贈ってくれた絵本が、欲しいです」


 同じ絵本を二冊所有したいという可笑しな願望だからかもしれない。

 同じ絵本を二冊も持って、どうするのって思われるのが心配だからかもしれない。

 だから、私は雨依様の瞳を直視できなくなってしまったのかもしれない。


「……嬉しくて……」


 感情が、溢れてくる。

 言葉を止めなければいけないっていう意思に反して、言葉が溢れてくる。


「誰かに想われたことがないので……」


 雨依様は夜舞病棟の子どもたちのことを思って、絵本を寄贈してくれた。

 私のためを想っての寄贈ではないと分かっていても、雨依様が行ってくれた《《贈る》》という行為を嬉しく思う。


「幸せ過ぎて……」


 私が絵本と出会ったのは数年前の話。

 絵本と出会った時点で雨依様とは出会っていないはずなのに、雨依様はずっと私の傍にいてくださったような錯覚を起こし始める。

 それくらい私の心は、幸せという感情で満たされ始める。


「雨依様のことを、独り占めしたくなっている自分がいるんです」


 遠い未来で、出会うことを約束されているような。

 遠い未来で出会うことになるから、この絵本が存在していたような。

 あり得ない幸せ。でも、確かに存在している幸せを私は抱きしめる。


「ごめんなさい……」


 絵本を手にしているのは雨依様であって、私は何も抱えていない。

 それでも幸せが逃げていかないように、私は形のない幸せをしっかりと抱きしめる。


「自分のことしか考えていなくて、ごめんなさい……」


 自分が想像もつかないくらい昔から、雨依様が夜舞病棟に関わってくれていたことが嬉しい。

 国にとって夜舞病棟がどんな施設なのかは分からなくても、今感じている幸せは本物だと思った。


「羽乃架……」

「……はい」

「……さん」

「はい」


 初めて、名前を呼び捨てしてくれた。

 呼び捨てされることの方が自然に思えたのに、雨依様は『さん』という敬称をつけて私を呼んだ。

 呼び捨てしてくれてもいいのに、むしろ呼び捨てで呼んでほしいと思うのに、私は言葉を慎んで顔を上げた。


「抱きしめない……」

「え?」


 雨依様が、歩み寄ってくれる。


「抱きしめない……けど……」

「雨依さ……」


 抱きしめ合うことができるくらい私たちの距離は縮まったけれど、言葉通り雨依様が私を抱きしめることはない。

 代わりに雨依様は体を預けるように、私の肩へと頭を乗せてくる。


「羽乃架さん、力を抜いて?」


 それ以上、雨依様は私に触れてこない。

 触れてこないけれど、雨依様の存在を確かに感じる。


「そんなに体をぎゅっと抱きしめたら、羽乃架さんが折れそう」

「折れない……と思います……」


 私があまりにも力を込めて、ぎゅっと自分の体を抱きしめるから……。

 だから、体から力を抜くように命じられる。


「雨依様……」


 これは、命令。

 そんな風に意識することで、なんとか腕の力を抜くことには成功する。

 けれど、抱きしめるものを失った自分の腕をどこにやっていいのか分からない。


「この体勢は……とても緊張します……」


 行方の分からなくなった腕が、何かを抱きしめたいと訴えかけてくれる。

 その何かの正体に気づき始めている自分のことを、人は不埒と呼ぶのかもしれない。


「うん……緊張を煽って、ごめん」


 私の肩に擦りつくように触れていた雨依様の額が離れ、私たちは再び向き合うかたちになる。

 これが、当たり前。

 元の、当たり前に戻れたことに安堵していると、雨依様は手にしていた絵本を私の視界に入れてくれる。


「受け取ってくれるかな?」

「今度、寄贈する本を……一緒に探しに行ってもらえますか?」


 疑問を疑問で返したのだから、もちろんこれらの問いに返答はない。

 けど、そんなやりとりが楽しい。

 そんなやりとりが面白いと感じられるようになってきた。


「もちろん。約束するよ」

「謹んで頂戴します」


 重なり合った返答に、心を和ませるような笑いは含まれていない。

 それでも、楽しい。

 雨依様と言葉を交わし合えることに、喜びを感じる。


「作業を再開しようか」

「はい」


 改めて、いただいたメモに目を通す。

 雨依様が夜舞病棟に寄贈してくれた本の数の多さに驚かされるけれど、知らないところで夜舞病棟の子どもたちを気にかけてくれる人がいたこと……愛を注いでくれる人がいたことを体と心で実感していく。


「雨依様」


 体と心が同時に成長すると言うには、大袈裟かもしれない。

 けれど、生まれて初めて、夢というものが宿り始めたような気がする。

 人を殺す可能性ばかりを気にしていた私に、初めて夢が生まれたような気がする。


「私」


 具体的な案はない。

 具体的な未来像を描くことはできない。


「幼い子どもたちに、幸せを贈る仕事がしたいです」


 それでも、今日という日を通して私の世界が変わったことは確かだった。

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