第2話「しあわせすぎる夢を見た」
「苦しい?」
体全部を覆っていた掛け布団が、正しい位置に戻されていく。
その様子を見つめながら、私はゆっくりとした時間の中で遥叶と視線を交わらせていく。
「いつもの、風邪だから……」
だから、大丈夫。
そう、伝える。
風邪だから、少し休めば良くなることを知っている。
だから、遥叶が傍にいなくても大丈夫だってことを、残り僅かな体力で彼に伝える。
「早く元気になって……子どもたちに、外の世界のことをお話してあげたい……」
夜舞病棟を出た後、こんな風に体調を崩してしまったら。
私はちゃんと、体調が悪いことを伝えることができるかな。
無理をする方が迷惑をかけるって分かっていても、無理をして体調が悪いことを隠してしまうんじゃないかなって。
「じゃあ、尚更早く良くならないとな」
「うん……」
正直になるって、意外と難しい。
相手に嫌われないために嘘を吐くのは、いけないことなのか。
今の私には、まだよく分からない。
「一緒に暮らしてると、何が幸せなのか分からなくなるな……」
再び眠りの世界へ旅立った私は、遥叶の言葉を聞き逃した。
何かを言っていたような気がするのに、私の聴覚は遥叶の音を拾ってくれなかった。記憶に留めておくことを、許してはくれなかった。
不思議な夢を見た。
今よりもずいぶん幼い私が、大好きな絵本に夢中になっている夢。
「羽乃架、夕飯の時間だよ」
私の名前を呼んでくれる貴重な男の子は部屋に入って迷うことなく、私が息を潜めているベッドに近づいてくる。
「羽乃架は、ご飯を食べるより……」
厚手の布団が捲られて、一冊の絵本を隠し持っていた私は男の子に見つけられてしまう。
「本を読んでいる方が好きだね」
男の子は夕飯時間を無視している私を叱りつけることもなく、ただただ穏やかな温かみある声を私にくれる。
「遥叶も、一緒に読もう?」
私は、部屋に入ってきた男の子のことを遥叶と呼ぶ。
すると、男の子の顔には、描いていた絵を失敗したときように何重にも線が引かれてしまった。
線で覆われたしまった男の子の顔は見ることができなくなってしまったけど、男の子の声だけは聞こえる。
だから私は、構わずに話を続けた。
「魔法使いの絵本だよね」
男の子の表情を確認することはできないけど、男の子は優しい声を向け続けてくれる。
一緒に布団の中に潜り込んでくれた男の子は、私が読んでいた絵本に興味を持ってくれた。
「あのね、遥叶」
男の子は、私が好きな絵本のことをよく知っている。
「いい子になる魔法って、あると思う?」
魔法という未知なる力を悪く描く物語もあるけれど、私が好きな物語では魔法は幸せを与えるものとして描かれている。
私は、世界を良くするために使われる力に憧れを抱いた。
「羽乃架は、もういい子なのに?」
「いい子じゃないよ……いい子じゃないから、お母さんは私のことを置いていったの」
「いい子だから、夜舞病棟のみんなは羽乃架のことが大好きなんだよ」
「…………」
男の子は私のことをよく知ってくれているけど、私が夜舞病棟に連れて来られた本当の理由は知らない。
私がいつまで経っても秘密を話すことができないから、こんな風に引っかかりが生まれてしまう。
「みんな……いなくなっちゃうの……」
「羽乃架……?」
「物語の世界では、みんなが幸せになれるけど……」
私たちが生きる世界は、現実だから。
だから、幸せになれない人がいる。
私は男の子に、事実を突きつける。
私のことを大切に想ってくれる男の子に、現実は残酷だと教える。
「じゃあ……」
男の子の表情は、相変わらずぐちゃぐちゃな落書きのように見えてしまう。
でも、男の子の声だけは明るいものだったことを思い出す。
「僕が、羽乃架を幸せにする魔法を使う」
思い出す……?
これは、夢のはず……。
それなのに、私は心の中で《《思い出す》》という不思議な表現を使った。
「いい子の羽乃架が、もっと幸せになれるように」
私のことを《《いい子》》だと言ってくれる男の子の、顔が見たい。
私を幸せにしてくれると言ってくれる男の子が、笑ってくれているところが見たい。
「僕が、ぜ~ったいに羽乃架のことを幸せにするよ」
そんな、彼の表情を見たいという贅沢な願いは叶わなかった。
願いは実現することなく、私は夢から現実へと引き戻された。
「…………」
夜舞病棟の自室で、目を覚ます。
固いベッドに、重たい布団。
体を休めるためのベッドのはずなのに、眠れた気がしない。
これが夜舞病棟の寝具だったことを思い出しながら、私は部屋の天井を見上げた。
「…………」
不思議な夢を見たような気もするけれど、その夢に対して懐かしさを感じるのはどうしてなのか。
昔、遥叶と一緒に絵本を読んだことがあったような気もするけれど、それも遠い昔の話すぎて覚えていない。
「いい子になる魔法……」
幼い私と、幼い遥叶の声が、鮮明に記憶に残っている。
見ていたのは夢だけど、これはやっぱり過去の回想なのかもしれない。
(人を殺す可能性を持った私は、いい子になることができますか……?)
仰向けだった体を横に向ける。
寝返ることで、だんだんと意識が覚醒してくる。
ぱっちりと開いた視界に映り込んできたのは……。
「え!?」
寝心地の悪いベッドだったとは思うけど、長年使い続けたベッドの寝心地はある意味では最高ということかもしれない。
時計の針が何周したか分からなくなるくらい、私はぐっすりと眠りに陥っていたことを目覚まし時計の針が知らせる。
「っ」
人生で、こんなにも急いで身支度を整えたことはなかったと思う。
雨依様の家で初めて体を休んだときは杏さんがすべての身支度を整えてくれたけれど、ここは夜舞病棟。
自分のことは、すべて自分で行わなければいけない。
「はぁ、はぁ」
急いで。
自分の足に、そんな命令を下す。
だって、今日は。
「はぁ……」
雨依様が、夜舞病棟に来てくれる日。




