第1話「もうすぐ終わる、おかえりの言葉」
「羽乃架ちゃん、おかえりなさいっ!」
白い雪に塗れながら、夜舞病棟の玄関ホールへと繋がる扉を開く。
すると、二階へと繋がる大階段から、見知った顔が次々に下りてきた。
「あのね、みんなでね、かくれんぼをやってるの!」
「人が減っている今が、大かくれんぼのチャンスかなって!」
「どのお部屋も、入り放題だよ!」
懐かしい騒がしさに包まれることで、涙腺がゆらりと揺らいだ気がする。
でも、ここは泣くところでもなんでもない。
かくれんぼをやっているのか鬼ごっこをやっているのか分からないみんなを見送って、私はみんなとは逆に二階へと足を運んでいく。
(どのお部屋も、入り放題……)
耳を澄ませば、遠くから賑やかな声が聞こえてくる。
でも、階段を一段一段上っていくのは私だけ。
(夜舞病棟に、大事な資料は残っていないということ……)
独りでいることを、孤独と感じているからなのか。
夜舞病棟とはなんなのか、知ろうとしているからなのか。
どちらにしたって私の心は、心細いという感情に支配されつつあった。
(階段を上るのって、こんなに大変だったかな……)
先の見えない階段を上っていくって、こんなに不安になるものだったかな。
なんだか、足が重い。
なんとか自分が過ごしていた部屋までやって来たけれど、扉を開く勇気が出てこない。
(この部屋を使っているのは、私だけ……)
夜舞病棟で一緒に過ごしてきた友達は、新しい家族の元で新しい人生を歩み始めた。
夜舞病棟に残っているのは、最後に夜舞病棟を出ると言っている遥叶。
そして、まだ新しい環境に溶け込めない子どもたち。
「…………」
扉を叩こうとするけれど、その手は宙をさ迷う。
叩いてみればいいのに。
扉を叩いたところで、中には誰もいない。
だったら、迷うことなく叩いてみればいいのに。
「…………」
何を恐れているかと言ったら、見知った顔が部屋の中ににいないことが怖い。
(二度と会えないわけじゃないのに……)
夜舞病棟で育った子どもたちを引き受けてくれる家庭が決まった年長者の子たちは、引っ越し先の住所を一枚のカードに書き残す作業を行った。
夜舞病棟を出た後、手紙の交換が義務づけられているわけではない。
それでも、夜舞病棟を出た後に何かが起きたときに頼ってほしい。
何もできないかもしれないけど、話を聞くことくらいならできるから。
そういう気持ちを込めながら、年長者の子たちは住所を書き綴る作業に勤しんだ。
(また、会えるよね……)
木製の扉を、とんとんと叩く。
木が奏でる優しい音も好きだけど、夜舞病棟の扉は少し違った音を運んでくる。
優しい音とは正反対の、鈍くて低い音。
「ただいま」
それは夜舞病棟が長年月利用されてきた証でもあり、木製の扉が弱ってきても修理されることがなかったという証。
馴染みある音に心を綻ばせそうになるけれど、私の中の綺麗な思い出ばかりに浸ってはいられない。
(春が訪れる頃には、夜舞病棟の外に出なければいけないから……)
扉を叩いても、返答はない。
『おかえり』と言葉を返してくれる人も、この部屋にはいないということ。
「…………」
友達がいないからって、寂しがってはいけない。
友達がいないからって、心細くなってはいけない。
言い聞かせるように心で呟きながら、私は鍵が存在しない夜舞病棟の一室で体を休める。
「はぁー」
息を吐き出す。
白い息は、部屋の室温が低いことを伝えてくる。
「…………」
外の冷たい空気に体が晒されないように、体を掛け布団の中へと収める。
吐き出す息が白くならないように、頭まで掛け布団でしっかりと体を覆う。
布団の中で呼吸すれば、息は白くならないから。
「寒い……」
心細くなった理由は、風邪を引いたからだったからなのかもしれない。
せっかく夜舞病棟に帰ってきたのに、誰とも話をすることなく私は自分の部屋に隔離されてしまう。
「……強い体になりたい」
薪の爆ぜる音が、私の思考を覚醒させる。
視界には揺らぐ炎が映り、部屋も体もより一層暖められていくのを感じられる。
どれだけ長い間眠りに就いていたのか判断できないくらい、深く眠ることができたはずなのに今も体は重たい。
(早く……元気にならなきゃ……)
汗をかけば、体温は下がる。
それを実践したいと思ってはみるものの、汗が出てくるほど体が熱を持っていない。
体温計は熱があることを訴えていたはずなのに、私の体は熱を放出できない。
だから、苦しい。
だから、いつまで経っても治らない。
体はずっと、悪寒に襲われたままだった。
「失礼します」
扉をトントンとノックする音よりも先に、失礼しますという言葉の方が先に聞こえてきた。
それは可笑しいことなんじゃないかと、声の主に尋ねてみたい。
けれど、私はすべてを掛け布団で覆っている状態。
(いつ、声をかければいいのかな……)
突然声を出してしまうと、声の主を驚かせてしまうことに繋がる。
目的があって部屋を訪れた彼を驚かせることは望んでいない。
でも、このままでい続けたら、彼と喋る時間がなくなってしまうことも理解している。
「…………」
近くで、薪ストーブが点火される音が聞こえる。
部屋を暖めに来てくれたことが分かって、益々彼に話しかけたくなってしまう。
どうしよう。
どうしよう。
さっきから、そればかり。
勇気を出せない私は、永遠に彼と話す時間を得ることができない。
「はぁ……はぁ……」
身体を休めなければいけないのに、考えを巡らせてしまう。
思考も一緒に休めなければ、身体は休んだことにならない。
それは分かっている。
分かっているけど、私は考えることをやめたくなくて……。
「羽乃架?」
より近くで、彼に名前を呼ばれる。
部屋の入口付近にいたときと、声の聞こえ方が違う。
その、声の聞こえ方が違うことに私は安心感を抱く。




