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これが最後の恋になりますように  作者: 海坂依里
第2章「夜舞病棟の〈外〉を知る」
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第5話「ニ人の関係に名前はあるはずなのに」

「いや、羽乃架(はのか)さんが大丈夫ならいいんだけど……」


 雨依(うい)様が口を付けたところとは、違うところに口を付けたつもりだった。

 けど、そもそもそういった行為をまったく意識しなかったおかげで、雨依様に余計な気遣いをさせてしまった。


「そうだよね……家族なら、こういうのって普通……」

「嫌って感情が……まったくなくて……」


 ついこの間までは、雨依様の前で口を開くことすら恥ずかしかった。

 雨依様と一緒に食事をするなんてもってのほかと言ってもいいくらい恥ずかしい想いをしていたはずなのに、今日は迂闊だった。


「馴れ馴れしかったですよね……家族になるといっても……まだ時間が……」


 慣れ。

 こういうものを慣れと言うのかもしれない。

 けど、雨依様との関係性に慣れなんてものは存在しなくていい。存在してはいけない。

 雨依様と本当の意味で家族になれる日なんて、未来永劫訪れることはないのだから。


夜舞(よまい)病棟での癖、だったんじゃないかな?」


 先ほどまで雨依様は取り乱していたように感じたけれど、雨依様はいつもの優しい声色で私に話しかけてくれた。


「子ども同士で生活していると、分け合うって当たり前のことだったと思うから」


 雨依様の言葉を聞いて、妙に納得してしまう自分がいた。

 けれど、だったら心を支配し始めている感情の名前はなんなのかと尋ねたい。

 この感情に、名前はありますか?


「そういえば……そうですよね」

「うん、だから気にしないで」

「……はい」


 用意された食事を完食できないことはよくあって、残った食事をお腹の空いた子どもたちで分け合ってもらうという思い出は記憶に残っている。


「俺も、意識しないようにするから」


 でも、それは雨依様との食事とは違う次元のお話。


「このあとの予定は、書店さんでしたよね?」

「羽乃架さん、思い切り話題を変えてるよね?」

「いただきます……」


 他人同士で食べ物を分けるってことが、どういう行為を差すのか。


(私は雨依様に、従う者だから……)


 主人の食事に手を出すなんて、あってはならないこと。

 躊躇いもなく雨依様の食事に口をつけるなんて、本来はあってはいけないこと。

 そこに主従関係があってもなくても、他人の食事に手を出すなんてはしたない。


(私は世界で一番、下の位……)


 《《初めて》》が、心臓を揺らす。

 はしたないことをやったって自覚があるからこそ、心臓がぐらつくのかもしれない。


「羽乃架さん」

「はい……」


 名前を呼ばれたから、振り向く。

 視線を、雨依様の方へと向ける。


「ありがとう」


 穏やかな風が吹き抜けて、雨依様が魔法の力を使ったものだと勘違いしてしまった。

 髪を揺らす風も、美しく広がる蒼い空も、私の視界に映る人も、私に与えられるすべてが優しすぎて泣きそうになる。


「そんな……私こそ、引き取ってくださったことに感謝をしていて……」


 夜舞病棟の外に、怖いものなんて何も待ってはいなかった。

 ただ怖いのは、私が《《人を殺す可能性》》を持つ子だってことくらい。

 それ以外に、私を傷つけるものは夜舞病棟の外には存在しない。


(人を、殺す可能性……)


 お母さんの声が頭の中に響くけれど、なんとか必死に母の声を聞こえないフリをする。

 こんなにも穏やかな時間を壊してしまうような表情を、《《従う者》》が見せてはいけないと知っているから。


「羽乃架さん、体調が悪いなら……」

「いえ、そんなことは……」

「家族なんだから、気軽に話しかけてくれていいんだよ」


 家族ってところを、特別に強調されたような気がした。


「…………私、新しいクレープを購入してきま……!」

「お互い、食が細いのに食べきれる?」

「……すみません」


 私が立たされている場所は崖でもなんでもないけれど、まさに崖っぷちに立たされているような気分になってくる。


「すみません、申し訳ございませ……」


 謝罪の言葉しか、出てこなくなりそうだった。

 それすらも申し訳なく思っていると、唇に温かな感覚が当てられる。


「食べよう」


 雨依様の指が、私の唇に触れている。

 それ以上、言葉を紡がなくていいと指示をくれる。


「ね」


 その言葉をきっかけに、手にしていたクレープを食べ進める。

 けど、クレープの味がよく分からなかった。

 私はクレープの味を、感じられなくなってしまった。


「これが、羽乃架さん用に作った銀行口座の通帳」


 書店さんまでは徒歩で、帰り道は馬車で迎えに来てもらった。

 私の面倒を見てくれている(あん)さんの表情が優しく綻んでいるような気がして、あ、無事に雨依(うい)様の自宅まで帰れるのだと安堵した気持ちを受け取る。


「夜舞病棟で暮らしている子どもを引き取った家庭には、養育費が振り込まれることになっているんだけど……」

 

 窓の外を流れていく景色が、物凄い速さで変わっていく。

 記憶に留めておくことも難しいくらいの速さの中、私は生きていかなければいけないのかなって。なんとなく、そんなことを感じた。


「家の外観を見てもらって分かる通り……我が家はお金に困っているわけじゃないから、国からいただく養育費は羽乃架さんの通帳に全額入れることになってる」


 夜舞病棟を流れる時間は、ゆっくりとしたものだった。

 その速さが丁度よかった。

 その速さが心地よかった。

 けれど、そんな大好きだった時の流れに帰ることは、もうすぐできなくなってしまう。


「これからの、羽乃架さんの人生のために使ってほしい」


 少しずつ。少しずつ。

 夜舞病棟を出たとき、私が迷うことなく生きていける環境が整えられていく。

 人生で初めて、通帳というものを渡される。

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