ep 36
街道を進むうちに、日は傾き、空は茜色に染まり始めていた。
「日が暮れてきたわね。この先に開けた場所と水場があればいいんだけど……」リューネが地図を確認しながら呟く。野宿は避けたいが、次の宿場町まではまだ距離がある。
「あ、リューネ! 見て! 左手に湖があるみたいだよ!」先行していたラビィが、少し興奮した様子で戻ってきた。「湖畔なら、キャンプするのにちょうどいいんじゃないかな?」
「おお、湖! 水浴びしたいダゴ!」一日中荷車を押していたドラゴも、その提案に目を輝かせた。
三人はワカバに提案し、街道から少し外れた、静かな湖のほとりでキャンプを張ることに決めた。湖面は夕焼けを映して美しく輝いているが、夜の闇が迫るにつれ、周囲の森は不気味な静けさを増していく。
「今夜はここで野営しましょう。ワカバさんはテントでお休みください。私たちは交代で周囲を警戒します」リューネは手早くテントを設営しながら、ワカバに伝えた。
「まあ……ありがとうございます。本当に助かりますわ。皆さんも、どうか無理なさらないでくださいね」ワカバは感謝の言葉を述べ、心配そうに三人の顔を見つめた。
焚き火を起こし、簡単な夕食(主に干し肉と携帯食だ)を済ませると、夜の見張りの順番を決める。
「最初はボクがやるよ。耳が良いから、何かあってもすぐに気づけると思うし。2時間くらいしたら起こして」ラビィが最初に手を挙げた。
「分かった。お願いね、ラビィ。無理はしないで」リューネは頷き、ラビィに任せることにした。
「ふぁ〜あ……オレはもう眠いダゴ……」ドラゴは大きなあくびをしながら、早々に自分の寝袋に潜り込もうとしている。
「ふふ、ドラゴは一番力仕事だったものね。先に寝てていいよ」リューネは微笑みかけた。
夜が更け、満天の星が湖面に映る頃、ラビィからリューネへと見張りが交代された。交代の際、ラビィは「今のところ、変わった音は何も聞こえなかったよ」と報告してくれた。リューネは焚き火のそばに座り、剣を傍らに置き、静かに周囲に意識を巡らせる。森の奥からは、夜行性の獣の声や、風に揺れる木々の音が聞こえるだけだ。ふと夜空を見上げると、降るような星々が輝いていた。アルトゥンの空よりもずっと、星が近く、そして美しく見える。こんな景色を守るために、自分は戦っているのかもしれない……そんな感傷に浸りかけた時、彼女は気を引き締め直し、再び警戒に集中した。
【二つ首の魔獣】
何事もなく夜が明け、一行は簡単な朝食を済ませると、再びデュフランへの道を歩き始めた。湖畔を離れ、道は再び狭い森の中へと入っていく。
しばらく進んだ、その時だった。
先行していたラビィが、今まで聞いたことのないような、切羽詰まった声で叫びながら、転がるように駆け戻ってきた!
「リューネ! ドラゴくん! 大変! 大変だよ!!」
その顔は真っ青で、長い耳は恐怖に逆立っている。
「どうしたの、ラビィ!? 何があったの!?」リューネは即座に剣を抜き、ラビィに駆け寄った。ドラゴも斧を構える。
「お、オルトロスが……!! すぐそこの道の先に……!!」
ラビィの言葉に、リューネとドラゴは息を呑んだ。ワカバも顔色を変え、荷車の陰に隠れる。
オルトロス――地獄の番犬ケルベロスの兄弟とも伝えられる、二つの頭を持つ巨大な魔獣。その凶暴性と圧倒的な戦闘能力は伝説的で、シルバーランクのガーディアンパーティーですら苦戦を強いられるという。今の自分たちが、まともに戦って勝てる相手ではない。確実に、死が待っている。
「ど、どうするダゴ!? あんなのに勝てるわけないダゴ!」ドラゴの声が震えている。
「逃げられないの!?」ラビィが必死に周囲を見渡すが、道は狭い谷間に挟まれた一本道。左右は切り立った崖で、逃げ場はない。
(……ダメだ、逃げられない。かといって、戦っても……)
リューネは迫りくる絶望的な状況の中、必死に思考を巡らせた。そして、覚悟を決めた。
(……戦うしかない。でも、目的は討伐じゃない。ワカバさんと荷物を、無事に逃がすこと……! 時間を稼ぐんだ!)
「二人とも、聞いて!」リューネは仲間たちに向き直り、決然とした声で言った。「私たちがここでオルトロスを食い止める! その間に、ワカバさんは荷車と一緒に、できるだけ遠くまで逃げてください!」
「ラビィ! あなたは後方から、オルトロスの足を狙って動きを鈍らせることに集中して! 援護をお願い!」
「ドラゴ! あなたは私と一緒に前衛! そのパワーで、できる限りオルトロスの注意を引きつけて!」
「りょ、了解!」ラビィは震える手で矢をつがえた。
「わ、分かったダゴ! オレがやるダゴ!」ドラゴも恐怖を振り払うように、両手斧を強く握りしめた。
「ワカバさん!」リューネは荷車の陰で震えるワカバに叫んだ。「私たちは必ず後から追いつきます! だから、今は迷わず、先に進んでください!」
「で、でも……あなたたちを見捨てるなんて……!」ワカバは涙声で訴える。
「大丈夫です! 私たちを信じてください! 行ってください、早く!」
リューネは、無理やりの笑顔を作って、ワカバを送り出した。リューネたちの覚悟を感じ取ったのか、ワカバは涙を振り払い、強く頷くと、必死で荷車を引きながら谷の先へと走り去っていった。
ワカバたちの姿が見えなくなった直後、谷の向こうから、地響きと共に巨大な影が現れた!
グルルルル……!!
二つの頭を持つ、黒い巨犬。それぞれの頭には鋭い牙が並び、燃えるような赤い瞳が憎悪を湛えて三人を見据えている。体長は5メートルを超え、その巨体からは、死と破壊の気配が漂っていた。
「来るよ!」
リューネの叫びを合図に、リューネとドラゴはオルトロスに向かって駆け出した!
「オレが先に行くダゴ!」
ドラゴが両手斧を振りかぶり、オルトロスの一方の頭に叩きつけようとするが、オルトロスはそれを嘲笑うかのように、もう一方の頭でドラゴの斧を弾き飛ばした!
「ぐおっ!?」
「ドラゴ!」
リューネが剣でオルトロスの注意を引きつけようとするが、その巨大な前足の一薙ぎで、盾ごと吹き飛ばされそうになる!
「くっ……!」
ヒュン! ヒュン!
その瞬間、後方からラビィの矢が連続で放たれた! 矢は正確にオルトロスの両前足の関節付近に突き刺さる!
「ガルルルッ!?」
さすがの魔獣も、足への攻撃は堪えたようだ。オルトロスは苦痛に唸り声を上げ、動きが一瞬鈍る。
「今だよ! ドラゴ!」
「ドラゴファイヤー!!」
ドラゴが体勢を立て直し、炎を放射する! しかし、オルトロスは二つの頭から同時に黒い霧のようなものを吐き出し、炎をかき消してしまった!
「嘘……!?」
「まずい、逃げるよ!」
三人は必死に攻撃をかわし、防御し、そしてラビィが足を狙って矢を放ち続ける。目的は時間稼ぎ。ワカバさんが十分に離れるまで、なんとか持ちこたえるのだ。しかし、オルトロスの猛攻は凄まじく、三人は次第に追い詰められていく。ラビィの矢も尽きかけていた。
(もう……限界……!)
リューネが覚悟を決めた、その時。
「……よし! 今だ! 全力で逃げるよ!」
ワカバたちが十分に離れたと判断したリューネは、撤退の合図を送った!
三人は、最後の力を振り絞って、一斉に背を向けて走り出した!
「グルオオオオオオ!!」
背後から、オルトロスの怒り狂った咆哮が追いかけてくる!
しかし、幸運なことに、オルトロスは追ってこなかった。ラビィの矢によって負わされた足の傷が深かったのか、あるいは、逃げる小物よりも、縄張りを荒らされた怒りの方が大きかったのか。理由は分からないが、三人は命からがら、オルトロスの脅威から逃れることができた。
どれだけ走っただろうか。やがて前方に、荷車を押して待っていたワカバの姿が見えた。
「皆さん! ご無事で……! ああ、よかった……!」
ワカバは涙ながらに三人に駆け寄ってきた。
三人は、疲労困憊で地面に座り込みながらも、互いの無事を確認し、安堵の息をついた。
「はぁ……はぁ……なんとかなったね……」
「怖かった……もうダメかと思った……」
「オレ……もう歩けないダゴ……」
その後、一行は互いを励まし合いながら、最後の力を振り絞って歩き続けた。そして、その日の夕刻、ついに目的地のデュフランの街の門へとたどり着いたのだった。
「本当に、本当にありがとうございました……!」街の入り口で、ワカバは改めて三人に深々と頭を下げた。「あなたたちがいなければ、私たちは今頃……。このご恩は、決して忘れません」
「どういたしまして」リューネは、疲労の中にも誇らしげな笑顔で答えた。「私たちガーディアンは、困っている人を助けるのが仕事ですから。無事に送り届けられて、本当に良かったです」
こうして、リューネたち「戦乙女・ローズ」の、困難を極めた初めての本格的な護衛任務は、強敵との遭遇という危機を乗り越え、無事に完了したのだった。この経験は、彼女たちをガーディアンとして、また一回り大きく成長させたに違いない。




