ep 24
翡翠の丘に芽生えた想い
夜盗狼の襲撃があった翌朝、翡翠の丘の別荘は、昨夜の騒動が嘘のような静けさに包まれていた。庭師たちが手際よく庭の乱れを整え、護衛兵たちは昨夜の失態を取り戻すかのように、より一層厳重な警備体制を敷いている。
リリスは、朝食もそこそこに、ダダの姿を探した。彼は、別荘の裏手にある小さな森の入り口近くで、リリスから贈られた短剣「ノクティス」を手に、静かに立っていた。朝日を浴びてきらめく黒曜石の刃を、彼はじっと見つめている。戦闘のためではなく、まるでその重さや感触、そこに込められた想いを確かめるかのように。
「ダダ……」
リリスが遠慮がちに声をかけると、ダダはゆっくりと振り返った。その表情は穏やかで、昨夜の激しい戦いの影は感じられない。
「おはよう、リリス」
「ええ、おはよう……。昨夜は…その、ありがとう。本当に怖かったけれど、あなたがいてくれて…心強かったわ」
リリスは、頬を染めながらも、素直な気持ちを口にした。
「リリスが無事でよかった」ダダはそう言って、小さく微笑んだ。その言葉には、いつもながらの飾らない誠実さがあった。
「ノクティス……」リリスは、ダダが手にしている短剣に視線を落とした。「あなたの手によく馴染んでいるように見えるわ。まるで、ずっと昔から、あなたが使うためにそこにあったみたいに」
ダダは自分の手の中の短剣を見つめた。昨日、咄嗟に振るったこの刃は、確かにリリスを、そして自分自身をも守った。獣を狩るための石や木の枝とは違う、人を傷つけるため、命を奪うために研ぎ澄まされた金属の感触。それは彼にとってまだ異質なものだったが、同時に、リリスの強い想いが込められたこの短剣には、不思議な温かさも感じていた。
「うん。リリスがこれをくれたから、昨日は助かった。……ありがとう」
彼は、少し照れたようにそう言った。
二人の間に、心地よい沈黙が流れる。
やがて、リリスが意を決したように口を開いた。
「わたくし……今まで、あなたを困らせてばかりだったわね。本当の危険というものを、まるで分かっていなかった。自分の好奇心を満たすためだけに、あなたを危険な目に遭わせて……。本当に、ごめんなさい、ダダ」
彼女は深く頭を下げた。その声は震え、心からの反省と後悔が滲んでいた。オーガとの戦い、そして昨夜の夜盗狼との一件は、彼女に「遊び」と「現実」の境界線を、そして命の重みを痛いほどに教えたのだ。
ダダは、そんなリリスの姿に少し驚いたように目を見開いたが、やがて優しく言った。
「リリスが、もう危ないことをしないと分かってくれれば、それでいい。僕は、リリスを守るのが仕事だから」
その言葉は、彼がリリスの謝罪を受け入れたことを示していた。
リリスは顔を上げ、涙の滲む瞳でダダを見つめた。
「ええ……約束するわ。もう、あなたを困らせるような我儘は言わない。あなたの指示に、ちゃんと従う」
その誓いは、彼女がこれまでの自分と決別し、新たな一歩を踏み出そうとしている証だった。
その日以来、翡翠の丘での日々は、真に穏やかなものとなった。
リリスは、ダダを連れ回して危険な場所へ行こうとすることはなくなった。代わりに、彼女は別荘の広大な庭園や、手入れされた安全な森の小道をダダと共に散策し、彼に花の名前を教えたり、アストレア家に伝わる古い物語を語って聞かせたりした。
ダダもまた、リリスに自分が知っている木の実の採り方や、小動物の足跡の見分け方を教えた。貴族令嬢と辺境育ちの少年。育った環境も価値観も全く違う二人だったが、共に過ごす時間の中で、言葉にはならない温かい感情が、ゆっくりと、しかし確実に育まれていくのを感じていた。
侍女のエララは、そんなリリスの明らかな変化を、驚きと安堵の入り混じった表情で見守っていた。以前の刺々しさや、刹那的な興奮を求める危うさが影を潜め、代わりに年齢相応の少女らしい優しさや、誰かを思いやる心の深さが、リリスの言動に現れ始めていたからだ。
(あの子が、あんな風に穏やかに笑うのを見るのは、いつ以来かしら……)
エララの目元にも、微かな笑みが浮かんでいた。
ダダは、リリスが時折見せる寂しげな表情の理由や、彼女が抱える複雑な家庭環境まではまだ知らない。リリスもまた、ダダの持つ規格外の力や、その過去についてはほとんど何も知らなかった。
それでも、翡翠の丘の優しい日差しと、そよぐ風の中で、二人の間には確かな信頼と、友情以上の何かが芽吹き始めていた。ダダの腰で静かに揺れる「ノクティス」の星影の輝きが、そのかけがえのない時間を祝福しているかのようだった。




