ep 22
翡翠の丘の誓い、星影の刃
オーガとの死闘から数日が過ぎた。ダダの驚異的な回復力は今回も健在で、リリスとエララの献身的な看護もあって、彼の左腕の骨折や全身の打撲は急速に癒えていった。完治にはまだ時間が必要だったが、日常生活や軽い動きには支障がないまでに回復していた。
一行は、目的地の「翡翠の丘」に建つアストレア公爵家の避暑用の別荘に無事到着した。そこは、森の喧騒とは打って変わって、手入れの行き届いた庭園と、白亜の壁が美しい瀟洒な建物が佇む、静かで優雅な場所だった。
ダダの治療がほぼ終わり、彼が別荘の庭を散策できるようになったある晴れた日の午後。リリスは、決意を秘めたような、しかし少し緊張した面持ちでダダの部屋を訪れた。その手には、紫色の絹の布で丁寧に包まれた細長い何かを捧げ持っていた。
「ダダ、少しお時間よろしいかしら?」
「うん、大丈夫だよ、リリス」
ダダは窓辺に座り、庭でさえずる小鳥の声を静かに聞いていた。彼女が自分を「リリス」と呼ぶことにも、彼が彼女を呼び捨てにすることにも、二人ともすっかり慣れていた。
リリスは彼の隣に静かに歩み寄り、絹の包みをそっと彼の前に差し出した。
「これ……あなたに受け取っていただきたいものがあるの」
ダダは不思議そうにそれを受け取り、リリスの促すような視線に、ゆっくりと包みを開いた。中から現れたのは、一振りの息をのむほど美しい短剣だった。
鞘は夜空を思わせる深い藍色の革で包まれ、星々を模した小さな宝石が散りばめられている。柄は黒檀と銀の細工が施され、握り心地も計算され尽くしているようだった。そっと鞘から抜き放つと、現れた刀身はまるで磨き上げられた黒曜石のようで、吸い込まれるような闇の色をしていながら、その刃先は星の光を反射して鋭く、青白い燐光を放っている。一目で、ただの装飾品ではない、実戦で鍛え上げられた業物だと分かった。
「これは……?」ダダは、その短剣が放つただならぬ気配に、思わず息をのんだ。
「名は『ノクティス』。アストレア家に古くから伝わる、対魔の力を秘めた守り刀の一つですわ」リリスは真剣な、そして少し震える声で言った。「夜の闇を切り裂き、持ち主を星の輝きで導く、と言い伝えられていますの」
それは、アストレア公爵家の人間でも、限られた者しか手にすることを許されない、まさに家宝と呼ぶべき品だった。
「わたくしがこれを持っているよりも、今のあなたにこそ、この『ノクティス』はふさわしいと思ったの。あなたがこれを振るうことはないのかもしれないけれど……それでも、アストレア家の守りが、あなたの傍らにあることの証として。そして、わたくしの……心からの感謝と、償いの気持ちとして、どうかこれを受け取ってくださいませんか?」
彼女の瞳は潤み、その声には切実な想いが込められていた。家宝を他人に渡すということの重みを、彼女自身が一番理解している。しかし、それでも彼女は、ダダにこれを渡したかったのだ。
ダダは、リリスの言葉と、彼女の差し出す短剣の持つ重みに、しばらく言葉を失っていた。彼には貴族の家宝の価値など分からない。しかし、この短剣がリリスにとってどれほど大切なものか、そして、それを自分に渡そうとする彼女の想いの深さは、痛いほど伝わってきた。
「僕は……ただ、リリスが無事ならそれでいいと、本当に思ってる」
ダダは自分の手を見つめながら、ぽつりと言った。
「存じていますわ」リリスは優しく、しかし力強く頷いた。「だからこそ、受け取ってほしいの。これは、わたくしの我儘。でも、あなたがこれを持ってくれることが、わたくしにとっての『お守り』にもなるの。これ以上、あなたに危険な思いをさせないための、わたくし自身の戒めでもあるのよ」
彼女はそう言うと、ダダの手を取り、その手に「ノクティス」の柄をそっと握らせた。
ダダは、リリスの小さな手の温かさと、彼女の切実な想い、そして手の中にある短剣の確かな重みを感じた。これは、ただの武器ではない。リリスの心そのものだ。
「……分かったよ、リリス」
やがて、ダダは顔を上げ、彼女に力強く、そして優しく微笑みかけた。「ありがとう。この『ノクティス』、大事にする。これは、リリスがくれた、僕の初めての……大切な『約束』の剣だ」
彼はその短剣を、まるで誓いを立てるかのように、しっかりと握りしめた。
その瞬間、リリスの顔に、心からの安堵と、太陽のような眩しい喜びの笑みが花のように咲いた。
「ええ! きっと、『ノクティス』は、星々があなたを守ってくれるわ!」
翡翠の丘の穏やかな日差しの中で、二人の間には、これまでの出来事を乗り越えた確かな絆が、そして言葉にはならない温かい感情が、静かに、しかし強く育まれていくのだった。ダダが手にした星影の刃「ノクティス」は、これから始まる彼の新たな冒険と、リリスとの深い繋がりを象徴するかのように、静謐な輝きを放っていた。




