ep 21
オーガの咆哮、覚悟の刃
オーガの巨体が地響きを立てて倒れ伏すと、森は一瞬、水を打ったような静寂に包まれた。
リリスは、目の前で起こったことの全てを理解するのに数秒を要した。そして、はっと我に返ると、血の気のない顔でダダのもとへ駆け寄った。
「ダダッ! ダダ、しっかりして!」
ダダは地面に片膝をつき、リリスから受け取った剣を杖代わりにしながら、荒い息を繰り返していた。彼の左腕は力なく垂れ下がり、獣皮の服にはオーガの返り血と、そして彼自身の血が滲んでいる。
「リリス……怪我は、ない?」
顔を上げたダダの額には脂汗が浮かび、その声は掠れていたが、それでも真っ先にリリスの身を案じた。
「ええ、わたくしは平気よ! それよりダダ、あなたの腕が! 血が……!」
リリスの声は恐怖と心配で震えていた。ダダの左肩は赤黒く腫れ上がり、明らかに重傷だった。
「へへっ……ま、まぁ、何とか……だいじょうぶ。イテテ……」
ダダはいつものように笑おうとしたが、痛みに顔をしかめ、額を押さえた。その強がる姿が、リリスの胸を締め付ける。
「ご、ごめんなさい! わ、私のせいよね……わたくしが、あなたを危険な目に……!」
リリスの大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ落ちた。後悔と自己嫌悪で、言葉が続かない。自分の浅はかな行動が、彼をここまで傷つけてしまったのだ。
「リリスが……無事なら、それで、いいよ……」
ダダは途切れ途切れにそう言うと、ふっと意識を失いかけ、リリスの腕の中に倒れ込むように体を預けた。
「ダダ! しっかりして、ダダ!」
リリスは必死で彼を支え、叫んだ。
幸い、森の入り口で待機していた侍女のエララが、オーガの断末魔の咆哮と、その後の不気味な静寂に異変を感じ、数人の護衛(馬車の護衛としてアストレア家が用意していた者たち)と共に駆けつけてきた。彼らはオーガの亡骸と負傷したダダ、そして泣きじゃくるリリスを見て絶句したが、すぐに状況を理解し、ダダを慎重に馬車へと運び込んだ。
その夜、一行は街道沿いの比較的安全な場所に野営した。
馬車の中で、リリスはエララの手を借りながら、献身的にダダの治療にあたった。エララは薬草の知識があり、応急処置は手慣れたものだったが、リリスは震える手で、エララの指示通りにダダの傷口を清め、薬草を塗り、丁寧に包帯を巻いていく。
眠るダダの顔は、まだ幼さが残っている。しかし、その小さな体に刻まれた傷跡や、鍛えられた筋肉は、彼がどれだけ過酷な状況を生き抜いてきたかを物語っていた。リリスは、彼の寝顔を見つめながら、これまでの彼の言葉や行動を思い出していた。
自分を本気で叱ってくれたこと。危険から身を挺して守ってくれたこと。そして、見返りを求めない純粋な優しさ。
(この子は……わたくしが今まで出会った誰とも違う……)
自分の未熟さ、我儘さが恥ずかしく、そして彼に対する申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。同時に、これほどまでに誰かのために必死になれる彼の姿に、リリスは今まで感じたことのない温かい感情が芽生えるのを感じていた。それは、好奇心や執着とは明らかに違う、もっと純粋で、切実な「好意」だった。
翌朝。
「ん……」
ダダが身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。
「ダダ!気がついたのね!」
彼の枕元でうたた寝をしていたリリスが、彼の声に飛び起きた。
「リリス……? ああ、僕、寝ちゃってたのか……。体、だいぶ楽になったみたいだ」
ダダはゆっくりと体を起こそうとした。左腕はまだ痛むものの、昨日までの激痛は嘘のように引いている。彼の驚異的な回復力が、今回もその力を発揮していた。
「だめよ、まだ無理しちゃ! あなたは大怪我をしているのよ!」
リリスは慌ててダダを制し、彼の額に手を当てて熱を確かめる。その手つきは、以前の彼女からは想像もできないほど優しかった。
「へへっ、ありがとう、リリス」
ダダは彼女の気遣いが嬉しいのか、素直に笑った。そして、ごく自然に、呼び捨てで彼女の名を呼んだ。
「!」
リリスは、ダダが自分を「リリス」と呼んだことに気づき、顔を赤らめた。しかし、それは決して不快なものではなく、むしろ胸の奥がくすぐったくなるような、温かい響きだった。
(リリス、って……)
彼女は俯き、自分の頬が熱くなるのを感じた。
ダダの傷はまだ完全には癒えていない。しかし、この森での一件は、リリスの心に大きな変化をもたらし、二人の関係にも新たな絆を育み始めていた。旅はまだ、始まったばかりだ。




