ep 19
声なき視線
囁きの森を抜けた後も、リリスのダダに対する執着は続いた。しかし、その形は以前の直接的な挑発とは異なり、もっと粘着質で、試すようなものへと変化していた。彼女はダダの反応を窺うように、わざと小さな無茶をしたり、彼の知識や経験では測りかねるような貴族特有の我儘を言ったりした。それは、あの平手打ちの衝撃と、その後のダダの変わらぬ保護に対する、彼女なりの混乱した感情表現なのかもしれなかった。
(この子は、どこまでわたくしに付き合ってくれるのかしら? 本当に、わたくしを見捨てないのかしら?)
そんな歪んだ好奇心が、彼女を新たな「遊び」へと駆り立てた。
旅が数日進んだある日の午後、一行は街道沿いに広がる、やや深そうな森のそばを通りかかった。
「ねえ、ダダ」リリスが不意に馬を止めた。「この森、エララが言うには、昔、珍しい『月光茸』という光るキノコが採れた場所だそうですわ。わたくし、一度でいいから見てみたいの。少しだけ、森の入り口の辺りを探してきてもよろしくて?」
彼女はダダの返事を待たず、侍女のエララが諌める声も無視して、馬を降りると森の中へ数歩足を踏み入れた。その表情には(どうせあなたがついてくるのでしょう?)という確信めいたものがあった。
ダダは小さくため息をついた。また始まった、と内心で思う。
「リリスさん、あまり奥には入らないでください。道から外れるのは危険です。月光茸は夜にしか光りませんし、昼間見つけるのは難しいですよ」
彼の声には諦観と、それでもなお任務を遂行しようとする実直さが混じっていた。彼はリリスの後を追い、周囲への警戒を怠らない。
リリスは、ダダの言葉に耳を貸すふりをして、わざと木の陰に隠れたり、急に走り出したりして、ダダを困らせようと試みた。彼女は、ダダが慌てたり、あるいは再び自分を叱ったりするのを期待していたのかもしれない。それが、今の彼女にとって唯一、ダダの感情を揺さぶり、彼との「繋がり」を実感できる方法だったからだ。
「あら、この辺りかしら?」
リリスが、ひときわ大きな木の根元に近づき、何かを探すふりをして屈み込んだ、その時だった。
グォルルルルルルッ!!
地の底から響くような、重く低い咆哮が森の空気を震わせた。それと同時に、近くの茂みが激しく揺れ、巨大な影がぬっと姿を現す。
それは、オーガだった。
身の丈はダダの三倍はあろうかという巨体。緑がかった褐色の肌は岩のように硬そうで、手には節くれだった巨大な棍棒が握られている。醜悪な顔には二本の大きな牙が突き出し、血走った一つ目が、侵入者であるリリスとダダを獰猛な光で捉えていた。
「ひっ……!」
リリスの顔から血の気が引いた。ナイトハウルとは比較にならない、圧倒的な巨体と威圧感。本能が、これは「遊び」では済まない、本物の「死」の危険だと告げていた。体の震えが止まらず、声も出ない。
オーガは、より小さく、動きの鈍いリリスを最初の獲物と定めたのか、地響きを立てながら彼女に向かって歩を進めた。巨大な棍棒が振り上げられる。
(死ぬ……!)
リリスの脳裏にその言葉が浮かび、全身が金縛りにあったように動けなくなった。万事休す。
「ダダーーーッ!!」
恐怖の頂点で、彼女は最後の力を振り絞るように、彼の名を叫んだ。
その声に応じるかのように、一陣の風が走った。
オーガがリリスに棍棒を振り下ろそうとしたまさにその瞬間、オーガの巨体の背後から、小さな影が弾丸のように飛び出した!
ダダだった。彼はオーガの背中に向かって高く跳躍すると、全体重を乗せた強烈な飛び蹴りを、オーガの無防備な後頭部目掛けて叩き込んだ!
ゴッッ!!!
鈍い衝撃音と共に、オーガの巨体が前のめりによろめき、振り上げていた棍棒が地面に大きな音を立てて落ちる。オーガは苦悶の唸り声を上げ、ゆっくりと振り返ろうとした。
「ダダ……!」
リリスは、恐怖から解放された安堵と、目の前で繰り広げられた信じられない光景に、震える足でダダのもとへ駆け寄った。彼の小さな背中が、今は何よりも大きく、頼もしく見えた。
ダダは、よろめくオーガとリリスの間に割って入るように立ち、オーガを真っ直ぐに睨み据えた。その小さな体からは、オーガの巨体にさえ怯まない、烈火のような闘志が立ち昇っている。
「お前の相手は、僕だ!」
凛とした声が、森に響き渡った。




