ep 18
声なき視線
パァン、という乾いた音は、囁きの森の不気味な静寂に吸い込まれたようだった。
リリス・フォン・アストレアは、生まれてこの方経験したことのない衝撃に、ただ呆然と立ち尽くしていた。叩かれた左頬がじんと熱い。目の前には、自分を見据えるダダの、今まで見たこともないほど冷たく、そして深い悲しみを湛えた瞳があった。
「……依頼主は、ガーディアンの指示に従ってください」
彼の静かな、しかし有無を言わせぬ言葉が、リリスの頭の中で何度も反響する。プライドの高い彼女にとって、それは屈辱以外の何物でもなかったはずだ。しかし、怒りよりも先に込み上げてきたのは、理解を超えた出来事に対する混乱と、ダダの瞳の奥にある揺るがない力への、説明のつかない感情だった。
ダダはそれ以上何も言わず、倒れてまだ息のあるナイトハウルに背を向け、森の出口へと歩き出した。
「行きますよ、リリスさん。ここも、もう安全ではありません」
その声には、先程の厳しさは少し和らいでいたが、拒絶するような冷たさもなかった。ただ、事実を告げる淡々とした響き。
リリスは、侍女のエララが待つ馬車に戻るまでの道のりを、ほとんど無言で過ごした。エララはリリスの赤い頬を見て何かを察したようだったが、賢明にも何も問いたださなかった。
旅は再開された。しかし、以前のようなリリスの軽薄な饒舌さは消え、馬車の中(あるいは馬上)の彼女は、ほとんどの時間を窓の外を眺めるか、一点を見つめて物思いに耽るかで過ごした。そして、その視線の先には、しばしば護衛として馬車の傍らを歩く、あるいは馬上で周囲を警戒するダダの姿があった。
彼女はダダを観察した。
日中は、まるで小動物のように周囲の気配に敏感で、木の葉の擦れる音、遠くの鳥の声、風向きの変化ひとつにも注意を払っていること。時折、誰も気づかないような小さな花や奇妙な形の石を見つけては、子供のように無邪気な表情を浮かべること。しかし、ひとたび「危険」の兆候を察知すれば、その雰囲気は一変し、全身から鋭い緊張感を放つこと。
夜、野営の準備をする際も、ダダは黙々と動いた。リリスやエララが休むための場所を確保し、手際よく焚き火をおこし、周囲に簡単な罠や警戒線を張る。その手際の良さは、とても十歳の子供のものとは思えなかった。そして、リリスたちが眠りについた後も、彼は交代で見張りをするエララとは別に、ほとんど眠らずに周囲を警戒し続けているようだった。月の光の下、静かに座り、森の闇を見つめる彼の小さな背中を、リリスは馬車の窓の隙間から何度も盗み見た。
(この子は、一体何者なの……?)
リリスの心は疑問で満たされていた。叩かれた頬の熱はとうに引いたが、胸の奥のざわめきは消えない。兄アルフォンスの、計算され尽くした優越感に満ちた「優秀さ」とは全く違う。ダダのそれは、もっと荒々しく、もっと根源的で、そして不可解なほどに純粋だった。
彼女を叩いた時のあの冷たい怒り。しかし、その後の彼の行動には、リリスを個人的に憎んでいるような素振りは一切ない。彼はただ、自身の定めた「護衛の任務」と「生き物に対する礼儀」を、淡々と、しかし頑なに守り続けているだけのように見えた。
ある日、一行が小川で休息を取っていた時のことだ。リリスが水筒の水を飲み干してしまい、エララが替えの水を汲みに行こうとした。
「僕が行きます」
ダダが静かに立ち上がり、空の水筒を受け取ると、慣れた様子で上流へと歩いていく。しばらくして戻ってきた彼の手には、水で満たされた水筒があった。
「この辺りの水は綺麗ですが、念のため、少しだけ清浄のハーブを入れておきました。これならお腹を壊すこともないでしょう」
そう言って水筒をリリスに差し出す彼の表情は、いつもと変わらず穏やかだった。
リリスは無言でそれを受け取り、一口飲んだ。ほんのりとハーブの香りがする水は、確かにただの水よりも美味しく感じられた。
(わたくしを叩いたくせに……)
しかし、その行為は、彼女が知るどんな貴族の丁重なもてなしよりも、なぜか心に沁みた。それは、彼が「リリス・フォン・アストレア」という貴族令嬢に対してではなく、単に「喉が渇いているであろう一人の人間」に対して、ごく自然に行った行為のように思えたからだ。
ダダへの直接的な挑発はなくなった。しかし、リリスの心の中では、彼への執着が形を変え、より深く、複雑なものへと変わり始めていた。
(もっと、この子を知りたい。この子の隣にいると、退屈しないどころか、心が騒ぐ。この不可解な感情は何なのかしら……)
リリスは、ダダの行動原理を理解しようと、そして彼の力を間近で感じようと、新たな方法を模索し始めていた。その視線は、獲物を見つけた獣のように、静かで、しかし熱を帯びていた。
そして、その歪んだ好奇心と執着が、次の騒動の火種となるのに、そう時間はかからなかった。




