ep 17
囁きの森の試練
リリスの言葉通り、一行は「囁きの森」へと足を踏み入れた。昼なお暗い森は、古木が鬱蒼と茂り、湿った土と苔の匂いが立ち込めている。時折、遠くで獣の鳴き声や、不気味な羽音が聞こえ、リリスの瞳は期待にきらめいていた。馬車は森の入り口でエララと共に待機させ、リリスは愛馬に乗り、ダダはそのすぐそばを歩いている。
「素晴らしいわ、この雰囲気!」リリスは楽しそうに辺りを見回す。「何か出てきてもおかしくない、スリリングな感じがするわね!」
ダダは無言だった。彼の五感は最大限に研ぎ澄まされ、周囲のあらゆる気配を探っている。リリスの軽薄な興奮とは裏腹に、彼の心は重かった。この森に漂う気配は、決して歓迎すべきものではない。
しばらく進むと、道の脇の茂みがガサガサと揺れ、鋭い牙を剥き出しにした黒い影が数体、唸り声を上げながら姿を現した。森に棲む肉食獣、ナイトハウルだ。三匹の群れで、明らかに獲物を探している目つきをしている。
「ダダ、あれを見て!」リリスの声が弾んだ。「絶好の腕試しじゃないかしら!」
「リリスさん、下がってください!」ダダはリリスの馬の前に立ち、低い声で制した。「刺激しなければ、やり過ごせるかもしれません」
ナイトハウルの群れはまだ距離があり、こちらを警戒しているものの、すぐには襲いかかってくる気配はなかった。
しかし、リリスはダダの警告を無視した。彼女は腰の細身の剣を抜き放つと、その切っ先をナイトハウルに向け、挑発的に叫んだ。
「さあ、かかってらっしゃい、可愛い獣さんたち! わたくしを楽しませてちょうだい!」
それだけでは飽き足らず、手近な石を拾うと、ナイトハウルのリーダー格の足元に投げつけた。
「グルルルァァァァッ!!」
挑発は成功しすぎた。石が当たったことに怒り狂ったリーダーが咆哮を上げると、三匹のナイトハウルが一斉にリリス目掛けて突進してきた!
「きゃっ!?」さすがのリリスも、剥き出しの殺意を前にして一瞬顔を引きつらせた。
「だから言ったのに!」
ダダはリリスを庇うように前に躍り出ると、大きく息を吸い込んだ。
「グオオオオオオンンン!!!!」
ドラゴンの威嚇が森に轟く! ナイトハウルたちは、その圧倒的な声の力に一瞬動きを止め、怯えたように後ずさった。
ダダはその隙を見逃さない。彼は地面を蹴ると、一番手前のナイトハウルに稲妻のような速さで接近し、その脇腹に強烈な蹴りを叩き込んだ!
「キャンッ!」
ナイトハウルは悲鳴を上げて横っ飛びに吹き飛ばされ、木の幹に激突してぐったりと動かなくなる。
残る二匹は、仲間のやられ様とドラゴンの咆哮の恐怖に完全に戦意を喪失し、蜘蛛の子を散らすように森の奥へと逃げ出した。あっという間の出来事だった。
ダダは、戦闘が終わったことを確認し、深く息を吐いた。彼は倒れたナイトハウルに近づき、まだ息があるのを確認すると、それ以上手出しはしなかった。
「まあ、見事だわ、ダダ!」リリスは興奮冷めやらぬ様子で馬から飛び降り、ダダに駆け寄った。「でも、どうして逃がしてしまったの? あの二匹も、ちゃんと息の根を止めておくべきではなくて? また誰かを襲うかもしれないじゃない」
彼女の言葉には、まるで獲物を逃した狩人のような不満が滲んでいた。
その瞬間だった。
パァンッ!
乾いた音が森に響いた。
リリスは、何が起こったのか理解できず、叩かれた左頬に手を当てて呆然とダダを見つめた。
ダダが、彼女を、平手で打ったのだ。
彼の顔には、今までリリスが見たことのない、冷たい怒りと、深い悲しみが浮かんでいた。
「……依頼主は、ガーディアンの指示に従ってください」
ダダの声は、低く、静かで、しかし有無を言わせぬ厳しさがあった。
「あなたは、今、死ぬところでした。僕がいたから助かった。でも、それは『遊び』じゃない。ナイトハウルも、僕も、あなたも、みんな生きているんです。あなたの退屈を満たすために、誰かが傷ついたり、死んだりするのは、絶対におかしい」
彼は、真っ直ぐにリリスの目を見据えて言った。
「僕の仕事は、あなたを安全に翡翠の丘へお連れすることです。そのために、危険を避ける指示もします。それが守れないのなら、僕はあなたを護衛できません。約束を、破るのですか?」
リリスは、生まれて初めて経験するような衝撃と、ダダの瞳の奥にある揺るがない力に言葉を失い、ただ叩かれた頬を押さえて立ち尽くすしかなかった。森の中には、重い沈黙だけが漂っていた。




