ep 16
好奇心という名の火種
契約が成立したとはいえ、ダダの表情は晴れなかった。リリス・フォン・アストレアという少女の、底が見えない好奇心と、何かを期待するような眼差しに、彼は漠然とした不安を感じていた。
ダイヤは、アストレア公爵家からの莫大な(であろう)契約金と今後のコネクションに頭がいっぱいで、リリスの侍女である初老の女性――エララと名乗った――と、出発の日程や必要な手配について熱心に打ち合わせている。イレーザがその傍らで冷静に記録を取っていた。
「ダダ」リリスが、楽しげにダダへ歩み寄った。「旅の準備はよろしくて? わたくし、あの窮屈な馬車よりも、馬に乗ってあなたのすぐそばで『冒険』を間近で見たいのだけれど、あなたは馬に乗れるのかしら?」
彼女は、美しい乗馬服に身を包んだ自分の姿を想像しているかのように、軽やかにステップを踏んだ。
ダダは首を横に振った。「馬、ですか? 乗ったことはありません。それに、僕が走った方がずっと速いです」
「あら、ますます面白いわ!」リリスは嬉しそうに手を叩いた。「では、あなたはわたくしの馬と並んで走ってくださる? 風を切って走るあなたを間近で見られるなんて、素敵だわ!」
エララがその言葉を聞き、眉間の皺を一層深くしたが、リリスは気にも留めない。
出発の朝。アルトゥンの城門は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。
リリスは、しなやかな葦毛の愛馬に跨り、上質な革の乗馬服に身を包んでいた。その姿は絵になるほど美しいが、瞳は悪戯を企む子供のように爛々と輝いている。少し離れて、アストレア家の紋章が入った豪華な馬車が控えており、その中には心配で胃が痛みそうな顔をしたエララと、最低限の荷物が積まれていた。
ダイヤは、満面の笑みでリリスに恭しく頭を下げ、ダダにはそっと耳打ちした。
「いいかい、ダダ! とにかくリリスお嬢様のご機嫌を損ねるんじゃないよ! あの子は金の卵を産む鶏なんだからね! 分かってるんだろうね!」
念を押すような強い口調だった。
ダダは、いつもの獣皮の服のまま、リリスの馬の隣に静かに立っていた。彼の周りだけ、空気が違うように見える。
「では、参りましょうか!」リリスが高らかに宣言し、馬に軽く拍車をかけた。ダダも音もなくそれに続く。
街を出てしばらく、街道は穏やかだった。リリスは時折ダダに話しかけ、周囲の景色やモンスターの噂話などを楽しそうに語るが、その目は常に森の奥や道の先を窺い、何かを探しているかのようだった。
やがて、道が二手に分かれる場所に出た。
「ねえ、ダダ」リリスが馬を寄せ、地図を広げて見せる。「この先の分かれ道、右に行くと近道だけれど、少し寂れた『囁きの森』を通るんですって。左は安全な街道。どちらが良いと思う? わたくし、少しでも早く翡翠の丘に着きたいのだけれど、森の空気も美味しそうだわ。それに、近道ですもの」
彼女は、さも当然のように右の道を示唆した。
ダダは、リリスの指さす森の方角へ注意深く意識を向けた。風が運んでくる微かな匂い、木々のざわめき、生き物の気配。
「右の森は……獣の匂いが少しだけします。小さいものが多いみたいです。でも、悪い感じはしません。左の街道は、たくさんの人の匂いがします。どちらの道も、翡翠の丘には続いています」
彼は感じたままを淡々と告げた。
リリスは、その素っ気ない返答に少し頬を膨らませた。
「そう。でも、森の方が近道なのでしょう? それに、もし万が一、悪い獣が潜んでいたら、あなたが退治してくださるのでしょうし。ね? わたくしの護衛ですもの。そのための『クレッセントワルツ』のガーディアンなのでしょう?」
彼女の声は甘やかだが、有無を言わせぬ響きがあった。
ダダはリリスの顔をじっと見つめた。彼女の瞳の奥に、純粋な好奇心とは異なる、もっと危うい光がきらめいているのを感じる。
「リリスさん。僕は、誰も襲ってこないモンスターや、ただそこに生きているだけの獣を、わざわざ殺したくありません。それは、ただのいじめと同じだから」
彼の声は静かだったが、その言葉には確固たる拒絶が込められていた。
リリスの眉がぴくりと上がり、彼女の表情から愛らしさが消えた。代わりに、貴族令嬢らしい、人を試すような冷ややかな笑みが浮かぶ。
「まあ、面白いことをおっしゃるのね、ダダ。でも、それがわたくしの『望み』だとしたら? あなたは依頼主であるわたくしの望みを叶えるのが、ガーディアンとしてのお仕事ではないのかしら? それとも、できないとでも言うのかしら? あのデュフランでの武勇伝も、所詮は作り話だった、とか?」
挑発するような言葉だった。
ダダは黙ってリリスを見返した。彼の小さな胸の中で、ダイヤの言葉と、自身の信念がせめぎ合う。助けを求める人を助けるのは、母との約束。しかし、この少女は本当に助けを求めているのだろうか?
「……分かりました」しばらくの沈黙の後、ダダは小さく頷いた。「森へ行きましょう。でも、約束してください。僕が危ないと判断するまでは、リリスさんも勝手なことをしないと。そして、僕も、本当に危ない時以外は、戦いません」
「ふふ、交渉成立ね」リリスは満足そうに微笑むと、馬の頭を囁きの森へと向けた。「どんな『危険』が待っているのかしら。楽しみだわ」
その背中からは、退屈な日常を抜け出し、刺激的な「遊び」を見つけた子供のような、無邪気な残酷さが漂っていた。ダダは静かに息を吐き、その後に続いた。彼の最初のガーディアンとしての「試練」は、モンスターではなく、この早熟な貴族令嬢の歪んだ好奇心なのかもしれなかった。




