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(16)夫は新婚生活がやや不満らしい−4

「まあ、あの引きこもりの旦那さまがあれほど俊敏な動きで私の前から逃げ出すなんて! 毎朝の公園内の散歩に毎晩の寝台上の運動、身体を動かすことに慣れさせた甲斐がありましたわね」

「お嬢さま、意外とのんきでいらっしゃいますね」

「それな」

「だって、旦那さまが逃げ込むことのできる場所なんて限られていますもの」


 私は脱兎のごとく逃げ出した夫を見送ると、ふふんと腰に手を当てつつ胸を張ってみせた。私の気持ちを疑われたことは心外だが、確かに名前を呼ぶことを避けていたことは事実だ。そこを悟らせないくらい、もっとぐずぐずに甘やかして身も心も私にメロメロにさせるべきだったというのに。今回の夫婦喧嘩はそこまで持ち込めなかった私の落ち度である。


「こんなもの、離婚の危機にもなりはしませんわ」

「まじか~」

「まじですわ。同じ轍は踏みません。次からは逃げ出したいと思えないくらいに大切にしてみせます」


 そもそも嫁入りしてきたのは私だというのに、夫が逃げ出す必要がどこにあるというのか。私のことが疎ましくて離婚したいのなら、私を叩き出せばすむ。今の経済状況なら、私の持参金を返すことだってできなくはない。


 それなのに夫があんな行動をとったということは、本当に言葉通り私のためを思って離婚を言い出したのだろう。つまり、私が離婚を拒めば夫は私から離れられない。卑怯とでもなんとでも言うがいい。使える手は何でも使う。それが私のやり方だ。


「お嬢さま、旦那さまと離婚する気はございませんか?」

「あるはずがないわ。旦那さまは私のものよ」


 理屈っぽくて陰気、どうしようもなく不器用で、貴族なんて向いていない夫が愛おしいのだ。お金を手に入れたからと言って、彼は変わらなかった。最初は、女くらい好きに囲めばいいと思っていたはずなのに、今は私だけを見ていてほしい。


 どうしようもなく自己評価の低い、心根の優しい夫。傷つくくらいなら何も言わずにじっと我慢することを選ぶはずの夫が見せた意外な一面には驚かされるばかりだ。


「それにしても、旦那さまがあんな風に気持ちを言葉にされるとは思いもしませんでしたわ。まるで、自白剤でも盛られたかのように正直なお気持ちを聞かせていただきましたわね」

「あ~、それな~」

「火竜さま、私の目を見てお話してくださいませ。先日の温泉での一件といい、何か隠し事をされてはいませんかしら?」

「ごめんて」

「お嬢さま、大変申し訳ございません。わたくしも火竜さまに協力しておりました」

「火竜さまに協力を求められては、断ることなんてできないでしょう? それで、一体どうしてこんなことになったのか教えてもらえるのよね?」

「もちろんでございます」


 侍女と火竜さまの説明によると、やはり先日の温泉の会話は空間をいじって、夫に聞こえるように細工してあったらしい。私の率直な気持ちを聞かせることで、他者に横槍を入れられないくらい夫とラブラブにすることが目的だったのだとか。


 まあ、つまりは彼らなりのゴk()b()リー卿対策だったのだろう。きちんと全部音声が届いていたのならば、夫が変な誤解をするはずがないのだが、残念ながら私の声は途切れ途切れで夫に聞こえていたようだ。完全に裏目に出ている。


 それを反省した上で、本日は火竜さまの術を夫と私にかけることでお互いの感情を表に出しやすくしていたらしい。なるほど、普段なら部屋の中で静かに落ち込んでいるはずの夫が私に向かって感情を爆発させた理由がよくわかった。私の心の奥底に押し込めていたはずのものをうっかり引っ張り出してしまった理由も。……やはり今回のやり方も逆効果だったのではないだろうか。


 旦那さまが流した涙で、火竜さまの魔術はすっかり解呪されてしまっている。木彫りの人形から、元の姿に戻った火竜さまは困ったように身体を小さく震わせていた。清らかな涙で魔術を解くことができるなんて、私の夫は夢の国のプリンセスに違いない。やはり、うちの夫は世界一可愛い生き物だと確信した。



 ***



「お嬢さま、これからどうなさるおつもりでしょうか」

「それな~」

「旦那さまの行き先などたかがしれております。まずは、転移陣を起動させれば戻るのは自宅の屋敷です。そこから先ですが、旦那さまが頼れる相手などご実家と親友以外にありません。離婚を言い出したのですから、ご実家に隠れるということはないでしょう。そうであれば、行き先はただひとつ。そう、ゴk()b()リー卿の屋敷です」


 だが、私とゴk()b()リー卿の仲を疑っておきながらその男の屋敷に逃げ込むとはどういうことなのだろうか。いや、あの素直でまっすぐ過ぎる夫のことである。逃げ込んだのではなく、直談判に行った可能性も捨てきれない。


 ――僕よりも、ゴドフリーの方がベスを幸せにできると思うんだ。ベスのことを大事にしてあげてね――


 夫が綺麗な瞳でゴk()b()リー卿を見つめる姿が脳裏をよぎり、ゴk()b()リー卿に扇を叩きつけたくなった。ああ、なんてこと。夫の親友は、私ではなく夫こそを狙っているというのに。このままではいけない。ほろほろと涙を流す夫が、ゴk()b()リー卿に押し倒された後では遅いのだ。ゴk()b()リー卿め、夫に手を出したらその下半身を使い物にできなくしてやる!


「お嬢さま、旦那さまのお名前はもちろんご存じですよね?」

「ええ、もちろんよ。この名前を他のひとが使うことができないように、お金の力で黙らせたいくらいに大切な名前だもの。忘れるはずがないわ」


 かつて、日本では将軍綱吉の娘の名前が鶴姫であったことから、他のひとが名前に「鶴」の文字を使うことを禁じたそうだ。日本史を習った当時は無茶苦茶だと思った記憶があるが、今ならそう言いたくなる気持ちも理解できる。夫の名前は、誰にも渡したくない。


「そのお気持ちを素直にお伝えくださいませ」

「旦那さまに執着したくないのよ」

「もう既に十分執着していらっしゃいます」

「これ以上、好きになりたくないの。いつか、誰かと旦那さまを取りあいたくないのよ」

「おかしなお嬢さまですこと。最初の頃の勢いはどうなさったのです。自分のお眼鏡にかなわなければ、愛人も妾も蹴落としてやると鼻息を荒くしていらっしゃったではありませんか。わたくしはずっとお嬢さまと旦那さまのおそばにおりましたが、お嬢さまのまっすぐさは、旦那さまのお心にきっと届いているはずですよ」


 侍女の言葉に思わず赤面してしまった。ずっと気が付かないようにしてきた事実をようやく受け入れられたのは、火竜さまの術のお陰だろうか。


 それとも、可愛い夫が笑ってくれるなら、自分のトラウマくらい乗り越えてみせるという気概が生まれたのかもしれない。火竜さまの術は、人騒がせなトラブルばかりを引き起こすわけではないようだ。


「……なるほど。つまり、既に旦那さまの身体から堕としているわけなので、並の人間では旦那さまを満足させることはできないから安心するようにと。そういうことね!」

「全然違いますが結論はまあ似たようなものです。旦那さまを受け止めることができるのは、お嬢さまだけ。ご安心を」


 どうしてだろう。子どもの頃から、彼女にこうやって励まされると不思議なほどどうにかなるような気がするのだ。私も案外単純にできている。


「そうと決まれば、カチコミですわ!」

「お嬢さま、良い機会です。せっかくですから、いっそゴk()b()リー卿の息の根を止めてやりましょう。大丈夫です。火竜さまに協力していただければ、証拠ひとつ残すことなく、完全犯罪が可能ですわ」

「めっちゃええやん」

「私が言うのもなんだけれど、あなたも結構ゴk()b()リー卿が嫌いよね?」

「お嬢さまの御心を煩わせる男は、害虫以下ですので」

「激えも~」


 そうして旦那さまを取り戻すべく、ゴk()b()リー卿の屋敷に乗り込むことになった。

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