2話
マリアの都合――――心の準備というものは、まったく考慮されずにあっという間に結婚式の日程は決まった。
そうなるであろうことはある程度覚悟していたし、もちろん感情を表に出すことは無い。
それでも浮いた気持ちにはなれないマリア。
それはダルナスと直接的な面識はなくとも彼の『噂』くらいは聞いたことがあったからだ。
ロマネス領の騎士団長ダルナス――――。
騎士としての強さはワーグナ王国全土に名を知らしめる程の人物。
しかしその戦いぶりは容赦がなく、非情かつ残忍だとマリアの耳には届いていた。
ダルナスには二つ名があった。
『ロマネスの悪魔』
悪魔――。
その響きだけでも、ダルナスがどのような人物であるかが容易に想像ができた。
マリアは怖くなった。
これからの人生をその悪魔と添い遂げなければならないのだから。不安を持たないほうが不自然とすら言える。
しかしダルナスとの結婚は決まっている。それを変えることはできない。
だから次第にマリアの心境は変わっていった。諦めに近い考えを持ち始めていた。
ロマネスといえば隣国と争いの耐えない土地。そのような生臭い領地で戦ってきた歴戦の騎士。常に戦いの傍に身を置く男。
悪魔にでもならなければ、生きてこれなかったのだろう。
だから仕方のないことだと自らを納得させた。
ダルナスの事を理解し、受け入れねばならないのだと。
それにこの結婚には意味がある。
姉ラスティアは王族親衛騎士団の団長ワルター公爵と結婚。
それは王族とオルサリス家の繋がりを強める。
そしてロマネス領は海産物から鉱物まで資源の豊富な土地だ。
その領主ダルナスとマリアが結婚すればオルサリス家にも経済的な恩恵が望める。
だから父はダルナスという結婚相手に非常な喜色をみせていた。
つまりラスティアとマリアの結婚によって、オルサリス家は権威的にも経済的にも発展していくのだ。
マリアは自分の役割を理解している。政略結婚を受け入れている。
この結婚に自由など無いという事を。
ダルナスの子を産む為だけに嫁ぐのだという事を。
そして――――愛情を求めるなどもっての他だという事もだ。
ダルナスが自分を愛してくれることなど、あるはずがない。
それはわかっている。わかってはいる。
だがそれでも一つだけ願いが叶うなら――。
苦しんでいる庶民に対しての『癒し』。
特別な力を持って生まれた事に対しての責任だと思っている。
せめてそれだけは許しもらえないものかと、マリアは願っていた。
*
マリアの密かな思いは誰にも理解されることなく、結婚式の段取りは滞りなく進んだ。
ダルナス側としてもあくまで儀式的、家柄的にマリアを娶りたいだけなのだからそれも当たり前のことだった。
儀式は儀式らしく済めばそれで良い。
マリアはその境遇に諦めとも納得とも言えない思いを抱きながら、結婚式を迎えた。
結婚式当日。
教会の一室でマリアは待っていた。
生涯添い遂げなければならない相手とこのような形で初めて会う。
貴族同士の結婚ではよくある話だ。
ダルナスに対して失礼のないよう、ウェディングドレスはとても豪奢なものが用意されていた。宝石類もいやらしく無いくらいに大きく美しいものを身に着けている。
今のマリアならば、王族だとしても目を疑うほどの美しい女性と評するであろう。
しかしそのきらびやかな姿に反し、結婚を受け入れてはいてもやはり気持ちは晴れないマリア。
(これではいけない。笑顔でお会いしなければ)
そう自分を鼓舞しながら待っていた。
すると扉がゆっくりと開いた。
そこには銀色の髪に青い瞳をした長身の男が立っていた。
褐色の肌に逞しく肉づいた体。
通った鼻筋がキリッとした顔をより精悍に見せている。
(この人がロマネスの悪魔――)
確かに。
整った顔立ちだが、瞳の奥にどこか強い光を帯びている。刺すような鋭さがあった。
ぱっと見て歴戦の騎士であることをマリアは悟った。
そのダルナスの視線とマリアの視線が交錯した。
マリアはびくりとする。体に緊張が走る。
その緊張を隠すように、努めて笑顔を作って微笑んでみせた。
ただしそれは、とてもぎこちないものになってしまったのだが――。
そんなマリアを見たダルナスは目を見開いたまま立ち止まっていた。
硬直し、睨むでもなくマリアを凝視していた。
するとその目の中にあった鋭い眼光が次第に消え失せていった。
かと思うと、ダルナスの顔が一気にほころんだ。
「あ、ああ! マリア!!」
「……えっ!?」
ダルナスが満面の笑顔で名を呼んだ。
その顔には、先程までの厳しい表情はどこにもなかった。瞳には穏やかな喜びが溢れている。
マリアは戸惑いながら答える。
「は、はい……? なんでしょうか……ダルナス様?」
「……あ、会えて嬉しい! ああ! ああ! なんと美しい! なんと可愛らしいのだ!」
「……え、ええ……?」
ダルナスは嬉しそうに近寄ってくる。マリアの手をその大きな手で優しく握り、片膝を突いた。
「今日、この日をどれだけ心待ちにしていたことか!」
そしてダルナスはマリアの背と足に逞しい腕を滑り込ませた。
お姫様のように軽く抱き上げた。
「ひゃっ!」
「ああ、なんて可愛いのだ。必ず君を幸せにする! ああ、幸せになろう!」
「えっ……あ、あのっ……」
「うむ? ……なんだ? あ、ああっ! すまない! いきなり抱き上げてしまって驚いているのだな!」
そう言いながらも子供のようにはしゃいでマリアを抱いたままくるくると回るダルナス。
終始屈託のない笑顔をマリアに向けてくる。
マリアはどう反応したら良いか分からず困惑していた。
それが顔に出ていたのだろう、察したダルナスは顔を覗き込んできた。
にこやかだった顔が急に悲しげな表情に変わった。
「……も、もしや……俺では嫌だったのか……?」
「い、いえ……そういうことでは決して……」
「……そ、そうか! ならばよかった! では結婚式を始めよう! さあ!」
胸をなでおろしたかのようにほっと息を吐いたダルナスはぱあっと笑顔を咲かせて喜んだ。
マリアはそのあまりに無邪気な姿に戸惑っていた。
しかし戸惑いながらもいつからか、ダルナスの嬉しそうな笑顔に安心している自分に気づいた。
自然、マリアの顔もほころんでいた。
*
結婚式を終えた二人は馬車に揺られながらダルナス邸に向かっていた。
その間もダルナスは終始マリアへの気遣いを忘れない。
「馬車の揺れで気分は悪くなっていないか?」「座り心地はどうだ?」「お腹は減っていないか?」「疲れてないか?」「休憩を取ろう」
緊張をほぐすかのように優しい声音で寄り添ってくれる。
しかしマリアは俯いて「大丈夫です」と小声で答えるだけだった。
それは決してダルナスが怖かったわけでも、ましてや嫌悪感からくるものでもなかった。
ダルナスに話しかける度に、結婚式で儀礼的に行われるはずだったはずのキスを思い出してしまうからだった。
それもそうだろう。誓いのキスといえば、軽く唇に触れるだけのキス。かと思っていたマリアだったがダルナスの行動は予想を大きく反していた。
甘く、優しく、それでいて情熱的なキスが幾度も降り注いだのだ。
しかも、
「ああ、なんと可愛いのだろう」
マリアの目を真っ直ぐに見つめては何度もキスをしてくる。
神父すらも誓いのキスはいつ終わるのだろうと待っていたほどだった。
あまりに何度も何度も抱擁されてはキスをされるので、
「……ダ、ダルナス様?」
キスの合間を縫ってマリアは問う。
しかし、
「うむ? どうした?」
ダルナスはうっとりとマリアを見つめる。
それがあまりに純粋な眼差しだった為に、マリアも言い淀んでしまう。
「あ、あの……いえ……」
そんなマリアの様子を察したダルナスは、はっと我に返った。
「す、すまん……やはり俺では嫌だった……のか?」
「そ、そういうことではないのです……! ですが、あの……恥ずかしいのです……」
「そ、そうであったか。す、すまない……。では、最後にもう一度だけ……!」
髪を撫で。頬を撫で。優しく手を握って。
そして惜しむようにキスをされた。
初対面にも関わらず心のこもったキスであることをマリアは感じていた。
――ロマネスの悪魔。
その噂が信じられないくらいにダルナスは優しかった。
それは結婚式からずっと変わらない。ダルナスの精悍な男らしさと優しさに包まれていた。
隣に座るダルナスとふと視線が合った。
真っ赤に染まる顔を見られることが恥ずかしくて、ぷいと顔を背けてしまう。
マリアはもう恥ずかしくて仕方がないのだった。
*
ダルナス邸に着いたマリアは更に驚きを隠せなかった。
騎士が屋敷の入り口の両脇に並んでいた。剣を掲げて出迎えている。
それだけではない。その後方には屋敷の扉まで使用人と思しき者たちがずらりと並んでいた。
その光景をみたダルナスが顔に手を当て深い溜め息を吐いた。
「はぁ、あいつら……」
「あ、あれは一体……?」
見事なまでに整然と並んでいることにマリアは目を見張った。
ダルナスは言った。
「きっと我々を驚かすために密かに計画していたのだろう」
そしてそれは当たっていた。
「ダルナス様! マリア様! ご到着ーーっ!」
ダルナスとマリアが門の前に着くと、先頭にいた騎士が嬉しそうに号令を掛けた。
それに合わせて、
「「旦那様! 奥様! この度はおめでとうございます!」」
ザンッ!
騎士は一斉に剣を胸の前で掲げた。
使用人もわざと大きく足音を立て、腰を折って頭を下げた。
立ち並ぶ人の垣根の間をマリアとダルナスは並んで歩くことになってしまった。
「お前ら……こんな出迎えいらないから働いてくれよ……」
それに対して、騎士の一人がにまりと笑顔を向けて答えた。
「だって団長。こうでもしないとマリア様をちゃんとご紹介してくださらないでしょう?」
「グラード。そりゃお前らがいつも変なことするからだろうが……」
「俺たちだってマリア様を心待ちにしてたんですよ! なあ、そうだろ!」
グラードと呼ばれた騎士が周りに問いかけるように言うと、そうだ!そうだ!と一斉に肯定の意を表す声が返ってきた。
困り顔のダルナスに、わっと笑いが飛んだ。
マリアはまたしても困惑した。
オルサリス家ではありえない光景だったからだ。
オルサリス家は貴族らしく格式張った風土が出来上がっている。
そのような世界でこれまでの人生を過ごしてきたマリア。
使用人や兵が主人の前でこんなにも大っぴらに笑う姿をいまだかつて見たことがない。
使用人や兵というものは主人に仕え、ただ死にゆくものだと教えられてきた。
庶民の上に立つ優秀な血を引いた者が貴族階級であり、貴族と庶民では人間的価値が違うと信じている高慢な者も多かった。
実際マリアの周りにはそのような貴族ばかりだった。
しかしここダルナス侯爵の屋敷ではまるでその常識が通用しない。
寧ろダルナス自身がこのようなざっくばらんな雰囲気を楽しんでいるようだった。
「あ、あの……ダルナス様。ここではいつもこのような雰囲気なのでしょうか?」
ダルナスは頭をガシガシと掻いて、少し気まずそうにしている。
「う、うむ……。いきなり威厳がないところを見せてしまった。恥ずかしいな。幻滅してしまったか?」
「そんなことはありませんが……。驚いてしまいまして……」
「そうだろうな。マリアにはちゃんと礼節を持って接するよう皆には言っておくから安心してくれ」
苦笑してダルナスは再び銀髪をがしがしと掻いた。
しかしマリアは寧ろ安心していた。
このような雰囲気の中で過ごせるのだとしたら――――それはとても素敵なことではないかと。
「いえ――私も皆様の仲間に入れて頂きたいと、心から思いました」
「……おお! そう言ってくれるか! さすが我が妻だ!」
ダルナスは非常な喜色を浮かべた。
それを聞いていた騎士や使用人達からは「わあっ!」と喜ぶ声が届く。
ダルナスはマリアの腰に手を回し、抱き寄せる。
「皆! 我が愛しの妻マリアだ。これからよろしく頼むぞ! 男どもは羨ましがるがいい!」
「団長! のろけは勘弁してくださいよ!」
「ははは! どうだグラード! 俺の妻は可愛いだろう! 可愛いだろう!?」
「はいはい。まったく……。昔から団長はマリア様の事となると人が変わるからなぁ……」
グラードはぼやくように言うと、やれやれと手を広げて呆れ顔をした。
その後ろでは、微笑ましくダルナスとマリアを見ていた使用人が一斉に声を合わせた。
「「奥様。これからよろしくお願いいたします!」」
奥様。マリア様――。
二人の結婚を祝福する声が、いつまでも届いてくるのだった。