1話
鼻を突く酸味のある濁った空気。
家屋の壁面はボロボロに崩れているものも多い。
そこらを見渡せば、路面にゴザを敷いて寝ている者もいる。
ここは貧民街。庶民の中でも特に貧しい身分の者が住まう地域。
その中を二人の女が歩いていた。
一人の女は、いつから洗っていないのか染み汚れた服を着た中年女性。
その女の少し後ろを歩くのは、服装こそ地味だがどこか気品のある若い女。
中年女性がとある家の門をくぐった。若い女もそれに続く。
その時、若い女の頭の中に声が響いた。
《こんな妹を持って恥ずかしいのよ!》
若い女は胸がきゅっと締め付けられ苦しくなった。
しかし、それを振り払うように首を振った。中年女性へ声をかける。
「――そのお子様ですか?」
狭苦しい部屋の奥。息遣い荒く苦しそうに顔を歪める10歳くらいの男の子がベッドに寝ていた。
「はい。マリア様……。このような汚い所までいらしていただけるなんて……」
中年女性――母親は畏まるようにして頭を下げた。
マリアと呼ばれた女性は軽く首を振って口角を上げた。目を細めて微笑んだ。
「当たり前のことです。お気になさらないで」
「……ありがとうございます」
申し訳無さそうに頷く母親は、マリアをベッドに案内した。
男の子の顔は真っ赤だ。はぁはぁと苦しそうにしている。
「辛かったね。もう大丈夫だよ」
マリアは語りかけるように優しく言った。しかし声は届いていないのだろう。げほげほと咳が返ってくる。
マリアは細い手を伸ばした。男の子の額にかざす。
するとその手から柔らかい光がほわりと広がった。男の子の体を包み込んでいった。
苦しそうな息遣いが和らいでいく。苦痛に満ちていた表情がみるみるうちに穏やかなものに変わっていった。
母親は崩れ落ちるようにして息子の手を握った。
「ああ! なんて安らかな顔でしょう! またこんな姿をみれるなんて!」
「栄養も足りていないようですね。少しですがパンを持ってきました。よろしければ食べさせてあげてください」
少し、と言う割に手さげ袋には一杯のパンが入っていた。しかもクルミやレーズンの入った栄養価の高いものばかりだ。
「マリア様!」
差し出された袋を受け取った母親はがくりと床に膝を着いた。そして隠すことなく涙を流す。
「なんと、なんとお礼を言ったら良いか……!」
「お礼など必要ありません。皆さんで食べてください」
マリアはにこりと微笑んで母の肩に手をかけた。優しく促して、立ち上がらせる。
しかし母親の顔は陰鬱な影が落ちたままだ。
「本当にありがとうございます。……でも、貴族であられるマリア様がこんな場所に足を運んでいて大丈夫でしょうか……。皆も心配しております」
母親の顔には申し訳無さが浮かんでいる。
しかしマリアは微笑んで首を振って答えた。
「ご心配なさらず。むしろ来るのが遅れてしまい申し訳ありませんでした。……苦しかったよね」
そう言って今しがた治した男の子の髪にマリアは触れた。
慈しむような優しい目を向けて、その髪を優しく撫でてあげた――。
*
オルサリス公爵家には治癒能力を持った者が生まれる。
『癒し手』と称される者だ。
どのような病気でも、どのようなケガでも治せると言われるその才覚は、ワーグナ王国において大変に重宝されていた。
マリアはその才覚を持って生まれた。
そしてまた、姉のラスティアもその才能を持って生まれた。
姉ラスティアは金色の美しい髪に青い瞳。すらっとした長身の女性であった。
見るからに賢そうな顔つきそのままに頭脳明晰でもあり、貴族らしくきらきらとした魅力を持ち合わせていた。
惜しむらくはその美貌と才能故に、少々驕ったところがある。
対して妹のマリアは、姉のラスティアと同様の髪色と瞳。だが姉とは違いどこか落ち着いていて、素朴かつ柔らかな雰囲気を持ち合わせていた。
服装も姉のような艶やかなものより、できる限り質素なものを好むところもあった。
一見して公爵家の人間とは思えない服装だった。
言い換えれば、マリアは貴族としての威厳がまるで無いとも言えた。
容姿は似ていても対を成すような性格と見た目の姉妹。
それは当然のように『癒し手』の才能に対しての価値観も違うものとなった。
姉ラスティアは主に王族や貴族などの上流階級の人間に対してその力を使った。
対して妹のマリアと言えば、もちろん貴族や王族を診ることもあったが、医者を呼ぶことすら出来ない貧困層の庶民を癒やすことが日課となっている。
「病気や怪我に身分など関係ありません」
それがマリアの信条であった。
しかしマリアがどのように考えていようとも、公爵家の娘であることに変わりはない。
地位や誇りを何よりも大事にする貴族にとっては、マリアのその行為は貴族と庶民を同列のように扱っているように周りには見えてしまい、疎ましく感じる者も多かった。
実際、その筆頭が姉ラスティアであった。
必然マリアに対する態度は厳しいものになった。
年齢を重ねるごとに姉からの非難めいた言葉は増え、何かに付けてマリアをいびるようになった。
そして常にマリアをこの言葉で責め立てる。
『こんな妹を持って恥ずかしい!』
つい先日、貧民街の病人を治療した後もそうだった。
「マリア。また庶民を治療しに行っていたの? あなたには貴族としての誇りはないのかしら? 病気や怪我は誰にでもあるのよ。陛下や殿下でさえも。身分が高い者を優先して治すのが私達の務めではないかしら」
「わたしは……病気や怪我に貴族や庶民という分けは必要ないと思っております……」
「ふん。あなた。陰でなんて呼ばれているのか知っているの? 貴族の誇りもない恥さらし。名家の面汚し! 庶民の人気取り!
あなたのやっていることはね。オルサリスの名を貶めているの! そんな事も自覚できないなんて本当に情けない! こんな妹を持った私の身にもなって欲しいわ!」
「――――っ」
「都合が悪くなると直ぐ黙るその癖! 癪に障るのよ! はっきり言っておくわ。あなたのせいで私までそう呼ばれているみたいなのよ! 本当に恥ずかしいったらないわ!」
「……も、申し訳ありません……」
「――ふんっ。謝ればいいってものじゃないわ。いいこと? 私の人生を狂わせたら許さないから。それだけは覚えておきなさい!」
姉ラスティアは王族親衛騎士団の団長ワルター公爵と婚約が決まっていた。
王族の親衛騎士団長に任命される程に王族との繋がりも強く、ラスティア同様に貴族意識が高い人物でもあった。
そのワルターもマリアのことは疎ましいらしい。
「結婚式までには君の妹の庶民びいきを何とかしてくれ」「身なりが恥ずかしい」「名門オルサリスの人間とは思えない」
そうラスティアに小言を漏らすこともしばしばであった。
それがラスティアのマリアに対する感情をより高ぶらせていた。
ラスティアはこれからの結婚生活――――オルサリス公爵家と王族との繋がりも強まっていく可能性を考えると、貴族としての意識が低く庶民ばかり治療するマリアを一層疎ましく感じるようになった。
しかもそのように感じていたのは姉ラスティアだけではない。
二人の両親も同じ思いを持っていた。
ラスティアとワルターの婚約話が進むにつれて、マリアのことを明確に邪魔に感じ始めた両親はついにマリアの縁談も真剣に考え始めた。
しかもどこかの辺境地にでも嫁がせてしまおうとした。
つまりは実の娘であるマリアを、オルサリス家から遠ざけようとしたのだ。
しかし相手はなかなか決まらなかった。
マリアの身なりが一見して地味であること、そして何よりも庶民への治療行為を知るやいなや、尽く断りの返事がくる。
しかしオルサリス家はこれから王族とも親密になろうという段。疎ましいマリアであっても流石に相手が誰でも良いというわけにもいかなかった。
マリア自身、結婚相手がなかなか決まらない理由を十分に理解していた。
しかしマリアは、これからも困っている人がそこにあれば、身分など関係なく自らの力を使って治療を続けたいという気持ちだけは捨てる事が出来ないでいた。
「病気や怪我に身分など……」
それがマリアの信条だからだ。
しかしだからといって縁談がまとまらないのはマリアも辛かった。
ワーグナ王国の貴族からことごとく疎まれていることを実感してしまうのだ。
だから、
(私のような女と結婚しても良いと思ってくれる人なんているのかしら……)
今日も縁談がなくなった事を聞いたマリアは、ため息混じりにそう思わずにはいられなかった。
そんな折だった。
父が嬉しそうにしながら部屋にやってきた。そこで急な話が飛び込んできた。
「国境地域のロマネス侯爵家。ダルナス殿は知っているな」
「……は、はい。お名前だけは、ですが。確か一年ほど前に爵位を継がれたとか」
「父君が急逝されたからな。しかし、ロマネスの騎士団を率いて2年程前に王都に御前試合に来たことがあるが……お前も会っていなかったか? 」
「いえ、私はお会いしておりません……」
「そうか。あの時はラスティアしか連れていかなかったかもしれん。……まあそんなことはどうでも良い!
よろこべ! そのダルナス殿がお前との結婚に前向きな姿勢を見せてくれているぞ! 良かったじゃないか! さっそく準備を進めるぞ!」
「…………は、はい」
顔こそにこやかだが投げ捨てるように言う父に対し、マリアは肯定の返事をするしかなかった。
父はやっとのことで肩の荷が降りたとでもいわんばかりに顔をほころばせていた。
そしてマリアを上から下まで物色するように眺め、父は本音を漏らした。
「それにしてもだ……。なんだその庶民のような地味な服装は。恥ずかしいと思わんのか? お前もやっと嫁ぎ先が見つかったんだ。これからは身なりには気を使え。貴族らしく」
恥ずかしい。などと思ったことは一度もなかったマリアだが、結婚するともなればやはり気にしないわけにはいかないのかもしれない。
ダルナスもきっと――――姉のようなきらびやかな服装を好むのであろうから。