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第1話  キスできるような距離で


 ずぶ濡れだった。髪も制服も肩からかけたカバンも、革靴もついでにパンツの中まで、冷たく重かった。どうしようもなく震えているのはそのせいであり、吹きつける初冬の風のせいだったが、それだけではなかった。喉を震わせながら絞り出す息は荒い。鼓動は高く、速く、止まらなかった。いや、止まったら死ぬか。


 ああ、そうだ――本当に、心臓止まるかと思った。そう思うと吐き気がして、僕は横たわったまま大きくむせた。背中に、砂の柔らかい感触がした。背骨の所に小石が当たって痛い。空はボロぞうきんの色をした雲に覆われていた。


 眼鏡は奇跡的に鼻の上に乗っかっていた。水滴まみれのレンズを指で拭き、かけ直す。首だけ上げて辺りを見回す。僕が横たわっているのは、小石混じりの茶色い砂で覆われた河川敷だった。足元から一メートルほど先には青黒い川が、波音も立てずに流れていた。十数メートル向こうには、こちらと同じような川原が続いている。その向こうにはコンクリートに覆われた土手。目を上げれば、すぐ近くに橋が見えた。両側に欄干のついた、人と自転車しか通れない小さな橋。ここから見上げれば、高さは七、八メートル。

 あそこから落ちた。いや、落とされた、か。半分は。


 そのとき、誰かが僕の顔をのぞきこむ。お互いの息がかかりそうな距離で。

僕はとっさに頭を引こうとして、したたかに後頭部を打った。

 見知らぬ男。正確には、突き落とされる直前に見た顔。僕と同い年くらい、十三か十四か。短く刈り込んだ髪は不健康なヒヨコみたいな薄い黄色だった、本人は金髪のつもりかも知れないが。その髪は僕と同じように濡れている。左耳には耳たぶに一つ、耳の上の部分に二つ、輪の形をした小さな銀色のピアスがついていた。


 金髪の男は眉間にシワを寄せ、唇を妙にすぼめた。チンピラの演技をするお笑い芸人のような表情で言う。

「死ぬ気かテメェ」


 僕の頬に力が入り、眉の辺りの筋肉が動く。男の目を見て言う。

「殺す気か君は」


 男は何も言わなかった。

僕らはそのままの表情で見つめ合った。男の鼻先で水滴になっていた水が揺れ、膨らみ、僕の頬に滴る。僕は顔をしかめて指で拭った。


 あのとき、欄干に登ったのは僕。そのままじっと下を見ていたのは僕。落としたのはこいつ。急に押されてバランスを崩し、変な声を上げながら後ろを振り向いたのは僕。そのとき見えたのはこいつ。

 それから僕は川の底。といっても、足が底についたのは覚えている。プールより浅い代物だった。そこから一応助けてくれたのは、こいつ。


 そんなことを考えていたとき、男は不意に笑顔になった。自然な笑いではない、顔全体に力を込めて作ったような笑顔。不自然な満面の笑み。嘲笑するような。

「死ぬ気だったんだろテメェ? したらよ、オレが殺したってよくね?」


 僕の顔にさらに力がこもる。さっきの相手と似たような表情をしている、そう思った。

「知るか。だいたい、決めつけるな。あれは――」

 わずかに目をそらしてしまった。

「――死ぬフリだ」


 男は、鼻から生温かい息を吹き出した。声を立てて笑う。今度は不自然じゃない、顔全体での笑顔。ツバが目の辺りに飛んできて、僕は思いきり顔をしかめた。

「ンじゃアレだわ、オレがやったのも殺すフリだ。あんなとっから落ちて死ぬワケねーって」


 男は顔を引いた。僕も体を起こす。

 橋を見上げて男は言う。男は僕の着ているような学ランではなく、ブレザーの制服を着ていた。もちろんそれは重たげに濡れている。

小学生(ショーボー)ンとき、オレもあっこからダイブしたことあンだわ。度胸試しつってよ、兄貴に言われて。や、夏だったけどよ」


 意識して、僕は強く息を吐き出した。

「僕だってあれで死ぬとは思ってない」

 これは嘘だ。もしかしたら死ぬかな。そうだといいかな――それぐらいは思った。

 そう考えたことを悟られたくなくて、小馬鹿にするような顔で首を横に振った。

「ま、死ぬかと思ったけどね。落ちてる、っていうか落とされてる最中には」


 男は僕を指差して笑った。軽く身を乗り出してくる。

「だよな、やっぱだよなー! や、オレもさ、度胸試しっつってもさ、兄貴がやれっつったのはアレ、手すりンとこ上がれってだけだったんだわ。ンで実際上がったら後ろから兄貴がドーン!」

 両手で素早く押すしぐさ。その後、後ろを向いて羽ばたくように手を動かす動作。バランスを失い、落ちていく動作。顔を引きつらせ、目と口を思い切り開いて。

「ちょ、ウソッ、ちょッあッ、あッあ、あぁぁあぁにきひぃぃ~! ……ドボーン。ってな具合でよ。怖かったァ~」


 確かに、思い出しただけでも背筋に冷たいものが走る。予期せぬタイミングでバランスを失い、ゆっくりと重心が傾く感覚。その傾斜を感じて足に力を込めるが、足場から返ってくる力のあまりにわずかなこと。と思う間に、ギリギリで耐えていたつま先が欄干の上を滑り、寒気が電流のような速さで背筋を駆ける。後は風を切る感触。あたかも無重力、男子の体における中心的器官が――直接的に言おう、金玉が――浮かぶ感覚。それが消えてどこかにいってしまったような、これ以上ない心もとなさ。気がつけば、鼻先に水面。塩臭いにおいをかいだ気がして。全身に巨大な張り手を食らった感覚。氷のように冷たく重油並みに重いものの中でもがく。不意に僕の手を取る誰か――金髪の男。


 その金髪の男が今、笑いながら頭をかいた。小さく水しぶきが散る。

「っつーかアレ、キモいのはよ。キンタマが空中浮かんでさ、なくなっちまうみてぇな感じしねぇ?」

 僕は思わず、息をついて笑った。それから、思い出したように体が震えた。

ただ、今度は怖さのせいだけではなかった。

「あのさ。ありがとう……って言うのもおかしいんだけどね。とりあえず体拭きたいんだけどさ、君んち近いかな。僕んとこまでは三十分ぐらいかかる」

 おう、と快い返事をして男は立ち上がる。

 続いて立ち上がった僕の肩を、男は片腕を回して抱き寄せた。

「っつーか、よ。オマエ、マジで死ぬんだったらよ。……できりゃあ、オレに殺させてくんね?」

 男は少し力のこもった顔で笑っていた。笑っていたが、目はわずかに伏せていた。


 僕らの顔はキスできるような距離にあったので、僕はなんとなく顔をそむけた。



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