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もったいない  小さな家族

作者: MAHITO

 

 沙織はスーパーのパートから戻ると、夕食の支度に取りかかった。

 古い鉄製の鍋に落し蓋をする。

 ガス台にかけて、馬鈴薯が柔らかくなるまでしばらく煮込む。

 胸のうちは母の生前の記憶にさいなまれていた。

 そんなときに限って、残業がなかったようで夫は早々と家でくつろいでいる。夕食ができるまで麦酒を飲むのは待って、と夫には念を押してある。

 三人が揃ったときには、息子の悠斗とで、食卓について夕食は始めなければいけない。


 それなのに、いつも夫だけが、夕食の前に食卓とは別の居間のテーブルで店を広げる。一家団欒を求める沙織にとっては、良人のフライングは家族にとってのゆゆしき問題なのだ。

 沙織の言葉などどこ吹く風で、この日も、夫は冷蔵庫から麦酒の缶を取り出した。居間で缶を開ける音がした。

 夫の次に、小学校六年になる息子の悠斗が炊事場にやってきた。雄太はひょろりと細い。

「この鍋、見たことある」

 とガス台のうえにある、鉄製の鍋を指さした。

「……。悠斗、覚えていてくれたんだ」

 沙織の胸はツンと少し痛んだ。

「これ、死んだお婆ちゃんの家にあった鍋だ。ぼくが小さいとき、お婆ちゃんの家で、この鍋ですき焼きを作ってくれたのを覚えているよ」

 お婆ちゃんとは先日、老人施設で息を引き取った沙織の実母のことだ。

 鉄製の鍋は母が長年使っていたもので、沙織にとっては幼いころからの思い出と重なるものだ。

 母が住んでいたアパートから遺品整理で持ち帰ってきた。

 語りつくせないほどの鍋との思い出があり、悠斗にも話して聞かせたいが、今は胸がつまるような苦しさがあり、口にできない。

 悠斗には居間で夕食を待つようにいった。 

 沙織は幼いころに父が病死して、母と子ひとりの母子家庭で育った。小さな会社の事務員をし母は沙織との生活を支えくれた。

 口癖は

「早く沙織が嫁にいかんかな」

 という言葉だった。

 三十歳を迎えて、地元の会社に勤めていた今の夫と結婚した。知人の紹介だった。

 しばらくして一人息子の悠斗が生まれ、子育てに専念した。

 そして現在、悠斗に手がかからなくなってから、地元スーパーのレジ打ちのパートで働くようになった。

 誰しも思うことだろうが、良い出来事が重なるのなら、忙しくとも負担に感じない。毎日生きがいを感じられる。

 いっぽうで、悪い出来事が続くと、人は重荷に押しつぶされそうになり、苦しみのトゲに刺され続ける。

 沙織が嫁いだ後、母は独りで暮らしていた。

 最初のころは、母の住まいに幼い悠斗と押しかけたりして楽しい日々を送っていた。それが、悪いことに六十代後半になると、母は認知症にかかった。

 そんな母を一人アパートに置いておくことが不安でならなかった。夫にたびたび自分たちのマンションで一緒に住ませたいと願い出た。

 だが、夫との話し合いはいつも平行線であった。

 今のマンションでは家族三人でいっぱいだ。母と一緒に住むのならもう一部屋あるマンションを借りなければならない。

 そうなると家賃が高くなり、家計の問題が出てくる。

 沙織は口には出さなかったが、夫の不甲斐なさを感じていた。

 夫の会社は地元というだけで、特段、取り柄のある会社ではなかった。

 同族会社であり、通常に採用された夫が上のほうに行くこともなく、そのうえ給料も安かった。

 夫はそんな会社の中でも仕事ができるほうではなかった。地元だから噂も聞こえてくる。

 社内ではパッとしないようだ。夫はいつまでも安月給をもらっていた。

 今の暮らしむきでさえ、沙織のスーパーでのレジ打ちのパートが大切な収入源であった。

 話はつかないまま母の病状のほうは進んでいった。

 沙織はできる限り、母のもとに出向くようにしていたが、一日中いっしょにいられるわけではなかった。

 沙織の目の届かないところで、母は徘徊するようになっていった。

 こんな母をひとりで住まわせていいわけがない。沙織は母への心配をごまかしながら、毎日、トゲに刺されるような思いで暮らしていた。

 そんな沙織の危惧していたことが現実となった。

 ある日の早朝、警察から電話がかかってきた。

 近所の道路沿いの側溝に、母が半身をつっこむように倒れていたのを近所の人が見つけてくれた、と。

 命に別状はなかったが、片脚を複雑骨折し、それ以来、母は歩くこともできなくなった。

 認知症と寝たきりで介護度が増した。皮肉なことに、そのおかげで安価な老人介護施設への入居が可能となった。

 そして……。母は施設に入ってしばらくすると風邪をこじらせ、そのままこの世を去った。

 母の死後の沙織の思いは、母にもっとしてあげられた。

 あれもこれもしてあげられた、そんな後悔の念だった。

 沙織の目の前で馬鈴薯を煮込んでいる鍋がグツグツと音を立てている。

 無性に夫への怒りがこみあげてきた。

 鍋が沸騰する。

 ここにきて、夫が冷蔵庫を開ける音がした。二本目の麦酒缶を持ち出した。

 沙織の感情も沸点をこえた。抑えがきかなくなり、どうしようもなかった。

 炊事場の収納庫をスリッパを履いた足で蹴飛ばした。

 その収納庫を睨んだまま沙織は大声で怒鳴った。普段、感情を抑えている沙織が、これまで生きてきて初めて出した声だった。

「この甲斐性なし! あんたの給料が安くなかったら、お母さんも死なずにすんだ!」

 いってはならない言葉だった。

 悠斗も聞いている。

 夫は冷蔵庫の前で固まると、沙織のほうを見た。

 しばらくは何も言葉が出なかった。

 ようやく口を開いて出た言葉は少しどもっていた。

「な……、なにいった。沙織……」

 童顔の夫の顔がみるみる真っ赤になった。

 麦酒を飲んだせいではない。興奮で血圧が高くなっているのかもしれない。

 沙織は俯いたままだ。怒りは収まっていない。

 夫のほうを見ると何をしだすかわからない。

「お、おれがお母さんを早死にさせただと!」

 黙ったままでいる沙織に夫のほうも怒りを抑えられなくなった。 

 これまで手をあげたことがなかった夫が、今にも殴りかかろうとしていた。

 沙織のほうも怒りで肩を怒らせたままだ。

 二人は固まったまま動かない。

 一触即発の状態が続いた。

 次の一言をどちらかが発したら夫が手を出す。沙織にはそれがわかった。

 結婚以来一度もなかったことだ。

 そこにいきなり、それまで居間でテレビを観ていた悠斗が二人の間に割り込んできた。

「なに二人で大声出しているの!」

 子どもまでを巻き込んでしまう。

 我に返った沙織は悲鳴をあげたかった。

 でも、ここまでの怒りの感情を抑えきれない。

 ところが……

 ボン――!

 誰もが驚いた。沙織はもちろん。夫も悠斗も。

 二人の間に割って入ったのは悠斗だけではなかった。

 ガス台のうえでフツフツと煮立っていた古鍋がいきなり大きな音をあげた。

 落とし蓋が天井にぶつからんばかりに高く跳ねあがり、鍋の煮汁も沙織と夫に降りかからんばかりに噴き荒れた。

「あぁっ! お婆ちゃんの鍋が!」

 悠斗が驚きの声をあげた。

 沙織も同じように声に出したかったが、こらえて口を閉じた。

 次に濡れ雑巾で両頬をひっぱたたかれたように打ちのめされた。

 母の言葉が聞こえたのだ。

 ――沙織。喧嘩をおやめ! 

 わたしのためにお前たちの家庭を犠牲にすることなんぞないよ。

 気を遣ってくれただけで十分だよ。

 仲良くやっておくれ。

 それが一番大切なこと。

 もったいない。もったいない――。

 煮汁はガス台に散乱し、鍋のなかでは残り汁が沸々と音を立てている。

 もったいないというのは、母と子の貧乏な沙織の家でいつも使われていた言葉だった。

 隣にいる夫からも怒りは消えていったようだ。その首がうなだれていった。

 沙織は横目で夫の動きをつぶさに見てしまった。なんだか急におかしくなってふき出してしまいそうだった。

 不思議なことに、この意気地なしの夫に久々に親しみを覚えた。

 母のことが悲しくてしかたがない……。

 けど沙織は思った。

 わたしには、頼りなくとも夫がいて、気配りのある息子がいる。

 そう、わたしには家族があるのだ。

 

 (完)

 



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