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エッセイっぽいもの【検索除外中も含む】

あの日の体験【3・11】

作者: サトム

 まず初めに。

 これは家族や友人を亡くしたわけでもなく、津波で自宅が流されたわけでもなく、今現在も避難生活を余儀なくされているわけでもなく、震災後半月で自宅に戻ることができた程度に被災した私の体験記です。


 これを書くにあたり、大変苦悩しました。

 私のような被災者とも呼べないたいした被害も受けていない人間が、東日本大震災当日を語っていいのだろうかと。

 衝撃的な体験などもないし、感動的な出来事もない。建物の被害と家具、家電の損害はありましたが、はっきり言えばその程度でしかない。

 公開するかどうかは置いておいて、一度書いてみようと思いパソコンにむかったら怖くて手の震えが止まらない。

 それでも物書きをしている人間として書き残しておこうと思ったのです。


 以上を含め、震災後9年経って今だから言える感想などを入れているため、完全シリアスなお話ではありません。

 それを踏まえた上で、許せる方のみお進みください。








*******************************


 当時のことはよく覚えている。

 その日は上の子は小学校、私と夜勤明けの夫と下の子が自宅にいた。その時は仙台のマンションに住んでいたが、地デジ対応のアンテナ工事が終わって四日前に薄型テレビが設置された直後だった。

 突如ダイニングにあったテレビから緊急地震速報の警戒音が鳴る。

 夫はダイニングのテーブルに、私と息子はリビングのソファにいたが、先に反応したのは夫だった。


「地震来るぞ!」


 いつになく緊迫した声に、とにかく息子を抱えて何を思ったのか私はテレビにしがみついた。

 多分買ったばかりの薄型テレビを倒したくなかったのだろう。多少揺れるだろうが、じっとしていればやり過ごせるとその時は思っていたのだと思う。

 速報から十秒ほど経ってから、徐々に揺れ始めた。いつものように細かい縦揺れの後に強い横揺れが来ると思っていたら、突然縦に激しく建物が揺れた。

 下から突き上げるような激しい揺れは縦なのか横なのかすでに判らないくらいで、しかも時間が長い。


 マンションは耐震で九階に住んでいたのだが、頭の中でこのまま建物が崩れて死ぬかもしれないと考えられる程度には長く揺れていた。

 夫は一番家具の多かったダイニングでこちらも薄型テレビを支えて踏ん張っているのが見ていたが、ダイニングテーブルは飛び跳ね、椅子は転がり、腕の中の息子は「もう終わって~!!」と泣き叫んでいた。


 あとから知ったが、同じマンションの下層階の友人は強い揺れが立て続けに三回あったと言っていた。上層階にいた私たちは途中で揺れが収まることもなく、とにかくずっと揺れていたように思う。

 揺れている途中から電気が消え、建物は軋み、食器の割れる音が響く。

 時間的にどのくらいかかったのかは判らないが建物が倒壊することなくいったん揺れは収まったので、とにかく避難だとコートと出かけるときに持ち歩くバッグを持ち、一言もしゃべらなくなった息子を旦那に預けて廊下に出た。

 避難訓練で緊急地震速報が来たらまずは退路を確保してテーブルなどの下に隠れると習った気がするが、まったく出来なかったなと振り返って思う。


 マンションの玄関ドアはかなり頑丈で、もし建物が歪めば開かなくなることはわかっていたけれど、幸いすんなりとドアは開いて廊下に出た。

 周りの部屋からも子供を抱いた奥さんや旦那さんたちが出てきていて、とにかく下に降りようと非常階段にむかい、防火扉が閉まっていたので開けて階段を下りていく。


 実をいうとこのころから役所に避難するまでの記憶は曖昧だ。

 どんな音がしていたかとか、ほとんど覚えていない。どちらかというと視覚情報のみが記憶に残っている。非常階段のおどり場の壁が崩れていたり、エントランスホールでは大人の頭よりも大きいコンクリートの壁の塊がゴロゴロ落ちていた。

 マンション前の広場に住民の皆さんと集まっていたのだが、時折悲鳴を上げたくなるくらいの余震が続き、空からは大きな雪が降ってきていた。


 まずはとにかく小学校に子供を迎えに行かなければならない。同じ小学校に通っているお母さんたちで集まったのだが、タイミングの悪いことにちょうどその時間は幼稚園バスのお迎えの時間と重なっていた。すでに幼稚園は出ている時間なので、もしからしたらそのまま送ってきてくれるかもしれない。けれど来ないかもしれない。いつ来るかも判らないとパニックになっているお母さんもいた。

 我が家はたまたま夫がいたので、夫と小学生のお子さんだけを持つお母さんたち数人でマンションに住む子供たちを集団下校させてもらえないかという考えが出た。

 メモに親の名前と子供の名前、住所、電話番号、メモを持った人に子供を預けてくださいと書いてもらって、途中道が通れなくなっている可能性も考えて夫はバイクで、他の方は徒歩で小学校にむかっていった。


 その間にも雪は降ったり止んだり、余震が来たり、気が付けば夕闇が迫っていた。

 マンションの各階の人数を確かめつつ自宅に貴重品を取りに戻ったり、小学生組は無事に帰ってきたり、ひと段落ついたところで夫がバイクで仕事に行ったり、車で避難所の小学校に向かおうとしたが、当日はまだつながっていたメールで体育館がいっぱいだという情報がママ友から入ってきていた。


 そこから数人のママ友たちと一緒に役所の駐車場に入り、時折揺れる車内で一晩を過ごす。

 車の中はサスペンションが効いていて多少の揺れなら眠った子供が起きることもなく、クラッカーと水をもらって車でラジオを聴きながら、時折エンジンをかけて車を温めながら夜空を見上げた。

 周囲は役所の自家発電と大きな駐車場の非常用ライトのみがついていて、いつの間にか晴れた群青の夜空には無数の星が光っていたのをよく覚えている。


 翌朝、配られたのはクラッカーだけで、ここにいてもこれ以上の支援はもらえないだろうと判断した私は、実家の山形に帰ることにした。

 本当は自宅に戻りたかったのだが、見た目がすごい損傷を受けていて、倒壊の危険に怖くて入ることができなかったのだ。


 仙台から山形に行くにはいくつかルートがあるが、そのうちの一つは一般道から一度高速に乗る道だったのですぐに諦めた。

 一晩明けたことで携帯電話がつながらなくなり、無事を知らせていた実家も夫も頼れない。いちかばちか一般道だけで行ける道を行ってみようかと思っていたら、ラジオから朗報が舞い込んできた。

 それは山形から自衛隊が到着したというものだった。


 私が行こうと思っていた道を通ってきたらしい。私は一緒に来ていたママ友たちに実家に帰る旨を告げて車を走らせた。たいていの信号機は止まっていたが、大きな交差点はまだ動いていた。ただ信号など関係なく走らせている人もいたので、とにかくゆっくり、どこで道が途切れているかも判らないので、とにかく慎重に車を走らせる。

 子供達には聞かせたくなかったのだが、とにかく情報を得たくてラジオはつけっぱなしにし、なんとか峠を超えて山形に入った。


 実家はオール電化だったためガスが止まっていてもお湯が使えた。山形は三日ほどで停電が回復したので、当面の心配は食料だった。原発のニュースを見ながら、最悪北に逃げないと、とも考えていた。


 数日たってから夫からSOSがあり、米と塩と実家の梅干を持って夫の職場に届けにいった。炊飯ジャーはあるが米がない。食べ物もなかったらしい。

 そのころには東北道が一部開通していて、へこんだり、段差があったり、カラーコーンで区切っただけの一車線が完全崩落している道を恐る恐る通って往復した。いや、ネクスコさんの仕事は本当に素晴らしい。そのころにはガソリン不足で一般道は大渋滞が起こっていたので、一部でも開通しないと物資も人も他所から持ってくることができなかったに違いない。

 日本は災害に強い国だと改めて思ったよ。


 それから一度自宅に戻り、まるでぐちゃぐちゃのおもちゃ箱の中のような自宅から子供たちの服や夫の着替えや自宅に置きっぱなしにしていた保存食を取ってきた。いつ倒壊するか判らないような有様だったので、かなりびくびくしながら入ったのを覚えている。


 ここらあたりで一週間くらいか。

 原発も予断を許さないがさらに避難するような状況ではなくなっていたし、食べ物はないがみんな無事だった。ガソリンもトイレットペーパーもなくなったが、生きていればどうにでもなるし、私はかなり避難生活に恵まれていた方だろう。








 三月末にはガスも復旧した。復旧するときに自宅にいないと後回しにされるという情報が夫から回ってきて、私の住んでいたマンションは本当に最後の方の復旧になったが、なんとか間に合って帰ってきた。


 一軒一軒器具の点検や漏れがないかを確認してくださったのは大阪ガスの方だ。本当に遠くからたくさんの人が支援に駆けつけてくださったのだと涙が出た。私と子供たちは何度もお礼を言い、その方は何か不安なことがあればすぐに連絡してくださいとにこやかに笑って言ってくださった。休みもなく働いていらっしゃってご家族だって遠くで心配なさっておられるだろうに、本当に感謝しかない。


 自宅に戻れば後片付けの開始である。そのころには倒壊の危険はないという判断が出ていたので、安心して入ることができたのだが。

 キッチンは笑えるくらいぐちゃぐちゃになっていた。ガステーブルはガス台から落ちていたし(ガスを通す前にこれだけは戻した)、冷蔵庫は傾いて向かいの食器棚に引っかかっていた。食器棚の扉は閉まっていたのに床には割れた食器が散乱し、炊飯ジャーはキッチンの端から反対の端まで飛んでいた。


 ダイニングはなぜかテーブルの上にテレビが横にして置かれていて(おそらく夫が置いてくれた)、まぁ足の踏み場もない状態だったが、なぜかリビングのテレビだけは無事だった。キャスター付きのパソコンラックをテレビ棚にしていたので、揺れが吸収され、度重なる強い余震でも倒れなかったのだろう。


 天井に吊り下げていたシーリングが割れていたのを不思議がっていたら、天井にぶつかったんだろうと夫が教えてくれた。蛍光灯は割れていなかったが傘の部分はべきべきだったので、このために傘は付いているんだね~と子供たちと感心しきりだった(あとでこっそり旦那が間違いを正してくれたが)。


 寝室にしていた和室は地震対策に低い衣装ダンスを購入していたのだが、上部が外れてふすまに角が突き刺さっていた。これが夜だったらと思うとぞっとする。ちなみに、一番背の高い家具であった本棚は壁に専用の器具で固定されていたので倒れることはなかった。こっちは倒れたら旦那が大変なことになっていたに違いない。


 それから四月七日の強い余震が来た。

 時間は深夜にさしかかろうかというころ。私はパソコンを開いてダイニングに座っていて、夫と子供たちは和室で眠っていた。


 再び携帯から鳴り響く警戒音。慌てて子供たちのところに駆けつけると、真ん中に寝ていた下の子を抱き上げて上の子の上に覆いかぶさった。

 揺れの方向が違ったのか、今度も薄型テレビは無事。再び停電したが、つけっぱなしだったパソコンのおかげで光があり、すぐにライトを用意して家族の無事を確かめてから夫は出勤。


 ちなみに抱きかかえたせいで下の子は起きてしまったが、上の子はぐっすり眠ったままだった。子供の睡眠の深さって凄いね。

 翌朝起きてからまたシェイクされた部屋を見て驚いていたけど。


 ちなみにこの時は揺れる方向が違ったのか、冷蔵庫が跳ねて、冷蔵庫の上部にあったプラグにぶつかって根元から曲がっていた。いや、金属部分が見事なほど九十度に曲がっていた。もう笑うしかなくて、子供たちにも見せて写メ取ったよ。


 そして今度は食器棚が倒れていた。実家からもらった食器が全滅である。戻そうと思ったら食器棚の底に食器の破片が入り込んでいて、床が傷だらけ。どれだけ踊ったんだよ!と突っ込みつつ一人で何とか片づけましたけどね。


 もちろんガス台は落下し、炊飯ジャーは再び吹っ飛び、側面が一部へこんでた。

 ちなみにその炊飯ジャーはいまだに現役で使ってます。本当、日本製品は優秀だな。


 冷蔵庫は壊れたかどうかの判断がつかなかったので、メーカーに問い合わせたら、とにかく見てみようと修理に来てくれることになった。なんでそうなったかというと、私とオペレーターさんの会話。


「あのー、昨日の地震で冷蔵庫のプラグが曲がっちゃったんですが、直りますか?」

『は? プラグが、ですか? 曲がったのは根元でしょうか?』

「根元っていえば根元ですね」

『コードが切れたということですか?』

「いえ、そうじゃなくてプラグの出っ張った金属部分ありますよね。あれが根元から直角に曲がっちゃって」

『え? 直角に、ですか? 曲がったんじゃなくて?』

「そうですね。綺麗に曲がってます。コンセントが壊れていないのが不思議なくらい完璧に」

『……わかりました。とりあえずプラグの交換という形で修理にお伺いします。ただ修理箇所によっては、お時間をいただくかもしれません』

「助かります。よろしくお願いします」


 メーカーは三菱さんだったんですが、一日二日で来てくれました。また停電していたのですが、迅速に対応してくださって本当に助かりました。

 ちなみに修理に来てくださった方が、曲がったプラグを見てちょっと驚いてましたけどね。プラグを替えて、コンセントに入れて、二度も跳ねた冷蔵庫を一通り確認してくださったので、とてもありがたかったです。ちなみにその冷蔵庫もいまだに使っています。本当に日本の家電は長持ちするね。








 印象深い出来事だけを覚えているせいか、かなり抜けがあることに気づきました。こんなことならもっと記憶が鮮明のうちに書いておくんだったと思いましたが、今だからこそ書き残すことができたのではなかとも思っています。


亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。


感想欄は開けておきますが返信はいたしません。書くだけで疲労困憊になりました。

申し訳ありません。

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