三十六話:妖婦の罠
戦場から戻った昂覇王の怒りに、睨まれていない私も唾を飲んだ。
一声ごとに、空気が痛いほど張りつめる。目に見えない圧迫を確かに感じた。それはまるで、強大な存在に心までも抑え込まれたような重圧。
「許されると思うなよ…………?」
昂覇王の怒りと共に、辺りに雷鳴が響き、黒い雲が不穏に湧き出す。身に纏う暴風が、神さえ焼く漆黒の炎さえ切り飛ばして消していた。
その姿はまさに自然の驚異そのもの。
「我が伴侶の髪を奪った罪、謝したとて贖えぬ! 万死に値するぞ!」
昂覇王の激昂は、私のせいだったようだ。
遅れて来た蘇二娘が、昂覇王の逆鱗に触れる大変なことをしたのかと思ったのに。
ちょっと気の抜けた私とは対照的に、緊張ぎみだった蘇二娘が動く。
「そ、そんなことか! 驚かせるな!」
「死にぞこないが! 今息の根を止めてやる!」
罵り合った蘇二娘と昂覇王は、互いに炎と雷を操って火花を散らす。
漆黒の炎は雷に散らされ、暴風に吹き飛ばされ昂覇王には届かないものの、雷は確かに蘇二娘を貫いた。
けれど黒い炎は消えず、その中心にいる蘇二娘も死なずに立っている。
「何…………? その炎のせいか?」
「昂覇王、蘇二娘の心臓は別の所にあるらしいの!」
そう教える私の邪魔もせず、蘇二娘には余裕が見えた。
「殺せないわ。龍王であろうと私は殺せない。けれど、この炎は龍にも効くのよ!」
「ふん、ならば心臓を暴き出してやるまで!」
「その前にまた私が飼いならしてあげるわ!」
「ほざけ! 巫女、離れていろ!」
龍の巨体が広間を駆け巡り、蘇二娘と激戦を繰り広げる。
私は昂覇王に従って、ひたすら距離を取ろうと甄夫人と逃げた。
何も言わなくても、呪いのせいなのか王太子と献籍はついて来てくれる。
と思ったら、王太子が真剣な声で話しかけて来た。
「施娘、ここは危ない。この城から逃げよう。龍と妖婦の争いなど君が巻き込まれる謂れはないはずだ」
「でも、ここで妖婦止めないと国が大変なことになりますよ」
「国のことなど、施娘の身の安全には変えられない」
まともだと思ったけど、優先順位がおかしい。
王太子、春嵐から聞く限り優秀な人らしいのになぁ。申し訳ない。
「さぁ、二人きりの逃避行を!」
「ちょ…………!?」
王太子は私の手を掴んで、無理矢理連れて行こうとした。
その先で、丸腰の甄夫人が立ちはだかる。
「太子さま、申し上げます。あなたさまのお傍に妖婦の手の者がいるのです。そんな不埒者を放置していては、施娘と安楽には暮らせないでしょう。まずは施娘のためにも妖婦を打倒すべきです」
「なんと、そのような者が?」
え、王太子この期に及んで蘇三娘がそうだと気づいてない?
『蘇三娘に対しての警戒心を麻痺させられているのじゃ。長く側にいて刷り込まれた術はそう簡単には解けないのじゃ』
野邪の説明に、私は蘇二娘を振り返る。
「そう言えば、蘇三娘は? 何処に行ったの?」
昂覇王と戦ってるのは蘇二娘だけ。蘇三娘を野放しにしていては面倒なことになる。
それは昂覇王が教えてくれた。
突然献籍が動いて、床近くまで降りて来ていた昂覇王の足元を指す。
そこには、昂覇王の前足に向かって剣を振りかざす蘇三娘がいた。
「危ない!蘇三娘が!」
「キュキュー!」
空くんの声に反応して、昂覇王は前足を振る。
「きゃ…………!」
「妹に何をする!」
蘇二娘は死なないからか、自ら昂覇王の爪に当たりに行く形で蘇三娘の逃げる隙を作って助けた。
「あぁ、やっぱり私駄目よ。浅いわ、姉さん」
「刺されば問題ないのよ。可愛い妹」
言い合う妖婦の言葉で、昂覇王の足に剣が刺さっていることに気づく。
昂覇王が抜くより早く、気を取り直した蘇三娘が焼け焦げた手で印を結び、術を発動させた。
「操るのは難しくても、暴れさせるなら簡単だもの!」
「ぐぅ…………!?」
「昂覇王さま!?」
剣から呪いのような赤黒い模様が広がる。
昂覇王が体をくねらせ抗おうとしても、蘇二娘が漆黒の炎を鼻先に向けて邪魔をした。
「その怒り、増幅させてあげるわぁ!」
「暴れ回って自らの大切なものを壊してしまえ!」
「ぐぁああーー!」
苦しむように暴れ始める昂覇王は、柱に体をぶつけて折り、角を振って天井を突き崩す。
「このままじゃ、私たちも潰される!」
『逃げる暇はない! こっちに集まるのじゃ!』
がたがたと内部から音を出す野邪の声に、私たちは走った。
庇い合うように抱き合った瞬間、天井が崩れてくる。
大きな影に覆われて、激しい崩壊の音と揺れが体を襲った。
いつまでも続く揺れだけど、痛くないことに気づいて辺りを見回しても、何も見えないほど真っ暗だ。
手に触れる温もりで、他の人も生きてることだけがわかる。
「もしかして、生き埋めになったの?」
『うむ、少々待つのじゃ』
頭上から響く野邪の声と共に、またごとごとと音がする。
瓦礫が崩れ、横滑りするような音が聞こえたかと思うと、視界が開け、暴れる昂覇王が見えた。
もはやそこに城はなく、崩れた広間の瓦礫が折り重なっている。
『なんとか無事なのじゃ』
「ありがとう、野邪…………。その姿はどうしたの?」
お礼を言う甄夫人の声に野邪を見ると、お椀を伏せたような薄く丸い形になっていた。
どうやら、そのお椀の中に私たちを納めて守ってくれたらしい。
『これは越西が仕込んだ守るための形態なのじゃ。ただ自力で戻れないから動けなくなるのが弱点なのじゃ』
「こんな薄さでこの量の瓦礫を耐えたの? いったいどれくらい硬いのかしら? 熱には強いの?」
甄夫人が興味を示して野邪に質問を投げかける。
私は昂覇王が心配で、鮮やかに赤くなった姿を見直す。
いつもは全てを見通すような目が、今は獣のように荒々しい。
黒いほど深く赤い鱗は、怒りに燃えるように色を変えていて見るからに尋常ではなかった。
そんな昂覇王に、瓦礫をものともせず現れた龍たちが、止めようと寄って行く。
「我らが王よ! お気を確かに!」
呼びかけてもうるさそうに咆哮を上げるだけで、言葉を返さない。
龍が果敢にも止めようと掴みかかれば、乱暴に振り払った。自分も仲間の龍も傷つくことに無頓着だ。普段の昂覇王ならこんなことはしない。
その上、ただの龍数体では龍王を止められない。
「相変わらず頑固な個体ね。まだ抵抗しているわ」
「さっさと飛んで龍を仕留めればいいのにぃ」
勝手なことを言う声の元を探せば、蘇二娘と蘇三娘は瓦礫の上で高みの見物を決め込んでいた。
安定しない瓦礫が、暴れる震動で崩れ始めると、昂覇王から離れようと動く。
「待ちなさい! 昂覇王を元に戻して!」
「愚か者! それこそお前がやるべきことであろう、巫女!」
「正気を失ったあの龍に、そのまま踏み潰されれば面白いわぁ!」
「あぁ、そうね。伴侶なら死も共にすべきではなくて?」
「入れあげた娘を自らの手で殺したら、あの龍はどんな反応をするか!」
笑い合う妖婦たちは、悪意の塊、邪悪な存在にしか見えない。
他人はどうでもいいひとたちなんだ。だから『狂愛の呪い』なんてものも作って、そんな他人を不幸にするしかできない力を取り戻そうとする。
「…………許せない」
「お前が言うな! 愚かな巫女よ!」
「許さないのはこちらよぉ!」
私の言葉に激昂する妖婦たちに向かって、甄夫人は呆れたように言った。
「復讐が何も生まないって本当ね」
冷めた表情の甄夫人は瞬きした途端、心火を燃え立たせるような厳しい顔をする。
「こんな奴らに関わるだけ腹立たしい! やっておしまいなさい、野邪!」
甄夫人の合図に、気づかれないよう移動してた野邪が瓦礫の中から立ち上がった。
いや、動けない野邪を空くんが口で咥えて投げ上げたんだ。
途端に、蘇二娘と蘇三娘をお椀のような体で包み込む。
「ふん、こんなものこの炎で!」
「ね、姉さん、熱い!」
「ほら、野邪をどかしてみなさいよ。その呪われた炎で」
冷えた声で促す甄夫人の狙いに気づいて、妖婦たちは黙った。
「ねぇ、今どんな気持ちかしら? 二人揃って竈の中にいる気分?」
「な、なんてことを! すぐにこのおかしな土塊をどけなさい!」
「ごめんなさい、姉さん! また私が足を引っ張って!」
「奪われたのが自分だけなんて思い上がらないで」
甄夫人は一言告げると、怒り鎮めるために目を閉じた。
そして私の肩を掴む。
「施娘。龍王さまをお止めしなきゃ」
「うん!」
甄夫人に頷いて、昂覇王を見上げる。
私はこの龍に、かつて挑んだ。そして勝った。だからって恐怖がないとは言わない。
あの時と違って仲間も少ない。室内という場所の優位もない。
それでも、こんな昂覇王は止めなきゃいけない。
あの誇り高いひとは、こんな同族を傷つけて、自我を失ったような醜態を望むはずがない。
困ったように旋回する龍たちに手を振ると、気づいて降りてくれる。
「昂覇王を止めます! 手伝ってください!」
「巫女さま、お願いします! 飛ばない今なら理性が残ってらっしゃるはずです!」
「上からの雷撃が一番効くはずが、なさらないのです!」
どうやら昂覇王は、被害を少なくするために留まって術に抵抗しているらしい。
私は龍たちから昂覇王に向き直って決意と共に告げた。
「今、助けます!」
一日二回更新、全四十話予定
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