三十五話:爛れた妄念
燃え上がる漆黒の炎が、確かな熱で頬を打った。
私はこの熱さを知っている。漆黒の炎から逃れようと走って逃げて、それでも燃える黒い炎に塗り潰されて倒れた最期を、知っているはずだった。
漆黒の炎を纏って現れた妖婦の蘇二娘は、焼け焦げた姿でも確かに歩いている。
焼けても生きてるのは仙術なの?
「…………生きて、いた? 生きて、いられるものなの…………?」
「施娘、死体は? 死体の確認は!?」
「甄夫人、それが…………見つからなかったの」
甄夫人に迫られ、私は当時の記憶を掘り起こす。
炎に呑まれた蘇二娘は、燃え尽きたと思った。けれど、私たちは燃え尽きる姿を見ることなく、その場を後にしなくちゃいけなかった。
当時妖婦の手に堕ちていた昂覇王が、正気を失って暴れた余波で、建物自体が倒壊を始めていたから。
「でも、燃えて死ななかったとしても、あのまま倒壊に巻き込まれて、無事なはずはない。あの時の拠点は地下だった。山が形を変えるほどの土砂が流れ込んでたはず」
信じられない思いを口にすると、蘇二娘は火を吹きながら楽しげに言った。
「私はね、心臓だけは別に保管していたの。だから体が壊れても死なない。消えない炎に燃やされようと、山ほどの土砂に潰されようと、壊れたらまた直せばいい」
そういう仙術だと、蘇二娘は自慢げだ。
反対に蘇三娘は苛立ちの滲む声で言った。
「私が見つけた時にはもう、漆黒の炎は姉さんを燃やすことに固定してしまっていた」
蘇三娘は結界に囚われたまま、今なお燃え続ける蘇二娘を見つめて悔しがる。
きっと、私たちが瓦礫の中から蘇二娘を見つけ出す前に、蘇三娘が見つけて逃げたんだ。
「ごめんなさい、姉さん。結局私は役立たず。こうしてあんな小娘に捕まって…………」
「いいえ。いいのよ、可愛い妹。あなたが無事なら私はそれで」
囚われた蘇三娘がしおらしく俯くと、蘇二娘は化け物染みた姿で優しく近づく。
「あなたは今回、私のことを気に病んで無茶しそうだったんですもの。これくらいなら全然大丈夫よ。…………ほら」
蘇二娘は漆黒の炎の腕を上に向ける。すると黒い炎は光の柱と化した結界を焼く。
邪悪を許さないはずの光が、黒く穢されるように弱まった。
「離れていなさい」
蘇二娘の警告と同時に、朽ちるように結界が壊れる。
茫然と見る私の側で、甄夫人が息を呑んだ。
「そうよ、漆黒の炎は神を焼く消せない炎。神の力で張った結界も焼いてしまうんだわ」
「えぇ、これは神をも食む炎。だから天も人間に押しつけて知らぬふり」
女神の力も凌駕することを誇示するように、蘇二娘は答えた。
「すごい力でしょう? こうして操るまでにずいぶんとかかってしまった」
炎に殺されずに操れるなら、確かに神を侵すすごい力だと言える。
「けれど酷い力。そうでしょう?」
蘇二娘は溜め息のように炎を吐いた。
それは生きながら焼かれる苦痛を伴う力。死なないということは、その分苦痛ばかりが長引くことに他ならない。
ただの人間では、耐えられない力のはず。
「どうして、生きていられるの? それも、仙術で?」
「呪いに私の全てを託したから、痛みも感じはしないのよ」
蘇二娘は、焼け落ちたはずの目で私を見つめる。違う。私にかけた『狂愛の呪い』を、惜しむように見てるんだ。
きっと蘇二娘も助かるとは思ってなかった。だから命がけの呪いを残して、自分の全てを注いだ。
「苦痛と共に、力の全ても注いでしまったの。だからこの炎があっても仙術が使えない」
「そのせいで、姉さんは生きていても心臓さえ取り戻せない」
蘇二娘は炎で苦しまないのは呪いのお蔭だけれど、呪いにしてしまった仙女としての力がないと、このまま永遠に燃え続けるしかない。
「だから、返してもらうわ。今日はそのために来たのよ」
「ど、どうやって?」
呪った本人なら解呪ができるの? 蘇二娘を復活させるわけにはいかないけど、解呪方法がわかるなら聞き出さないと。
私の考えを見透かしたように、炎の中で蘇二娘は嗤う。
「簡単なことよ。私がその心臓を食らうだけ。そしてあなたの心臓の代わりに、この炎をあげる。ね、簡単でしょう?」
冗談のように言ってるけど、蘇二娘は何処までも本気だとわかる。
炎は神も焼く。消すより移し替えるほうが楽だと、蘇三娘が言っていたらしい。
なら、復讐も兼ねて私へ移す。そのために蘇二娘は姿を現したようだ。
「焼け苦しみ生きるか、失意と安楽で死ぬか、好きなほうを選ぶといいわ」
「あぁ、可哀想な姉さん。この時をどれほど待ったか」
「…………可哀想?」
蘇三娘の言葉に、甄夫人が怒りに震える声で聞き返した。
「可哀想なんてあなたたちが言っていい言葉じゃないわ! どれだけ殺したと思ってるの! 自業自得よ!」
「黙れ!」
蘇二娘が甄夫人に炎を放つ。甄夫人は床に身を投げ出して避けた。
「兄の無念のために戦う私たちを侮辱することは許さない!」
「兄を失った悲しみの上に、さらに姉さんまでこんな目に遭わせた人間め!」
その言葉には、兄弟思いの人間らしい感情がある。でも、共感なんてできない。
「なんて自分勝手なのかしら。身内に甘いだけじゃない。こんな人たちに…………!」
甄夫人は目に涙を浮かべて、床から妖婦たちを睨んだ。
そのとおりだ。怒ったから、怨んだからって他人を巻き込んでいいわけがない。
「小娘どもが…………あら、大変」
蘇三娘が首を巡らせた先で、動けない王太子と献籍の袖が黒い炎で燃えていた。
「そんな、駄目! その炎は!」
「施娘、待ちなさい! あなたまで燃えるわよ!?」
「クー!」
甄夫人が私に抱きつくようにして止めると、空くんが横を走りすぎる。大きく飛んで爪を振ると、目に見えない刃が燃えた部分だけを切り飛ばした。
けれど漆黒の炎で札もなくなり、『狂愛の呪い』にかかった二人が動き出す。
「この獣は何かしら? まぁ、いいわ。邪魔よ」
「空くん!」
蘇三娘が空くんに向けた炎に、私は浄化の力を放った。
両腕を突き出して、力を盾にする。邪悪な炎は聖なる力で防げるからこそ、妖婦討伐に向かう私に託されたものだから。
私の出す光に跳ね返されるように、漆黒の炎は阻まれた。
「うぅ…………」
けど、こんな出力は久しぶり。集中しなきゃいけないのに、感覚が思い出せない。
「やはり、巫女には対処ができたのね」
「処刑で試そうと思っていたのよねぇ」
「そんなことのために…………!?」
離宮の長官を巻き込んで、苦しめたというの?
私が嫌悪に顔を歪めたことに気づくと、蘇三娘は得意満面で揺さぶりをかけて来た。
「何処からが私の策だったと思う? ふふ、娘の病からよぉ!」
「なんてことを! 自分で病ませておいて、薬を盗ませたの!?」
甄夫人の怒りさえ心地よさげに蘇三娘は笑う。
「盗みを働いた、盗みのお蔭で娘が助かった、けれど盗みを巫女に知られれば罰を受ける。そうなれば救えた娘ごと凋落する。そう囁き続けて、追い詰めたら、あははは! 簡単に聖なる巫女を殺して口封じしようとするんだものぉ! とんだ奉職精神よねぇ?」
「姦計を敷いたあなたが、長官を嗤わないで!」
集中して言い返せない私の代わりに、甄夫人が蘇三娘に怒りを向ける。
けれど蘇三娘は気を良くしてさらに自らの悪徳を誇った。
「来ない手紙をいつまでも待つあなたたちの姿も、とっても笑えたわぁ」
「手紙? まさか春嵐からの!?」
声を上げると聖なる力の盾が揺らぐ。
私は慌てて漆黒の炎を防ぐことに集中した。
「送る手紙を抜いて、送られてきた手紙を隠して。馬鹿みたいな友達ごっこの内容は、姉さんとずいぶん笑わせてもらったのよぉ。もちろん、いらないごみは豚の餌」
「くぅ…………」
感情に流されて盾が揺らぐ。私は悔しさを噛み殺すように歯を食い縛った。
「…………これは? 貴様、施娘に何をしている?」
動けるようになった王太子が、私に炎を放つ蘇二娘へ剣を向ける。
操られて仲間になってると思ったけど、そうでもないの? 剣を向ける王太子に、蘇二娘は興味がなさそうだった。
「愛に狂った愚か者が、私に剣を向けるだなんて」
「やめて! 誰か止めて!」
蘇二娘が炎を操る気配に叫ぶと、献籍が動く。剣技で炎を斬り飛ばして王太子を助けるけど、刃は瞬く間に溶けてしまった。
「ち、呪いの大本のほうが強いのねぇ」
「ふ、二人ともこっちへ来て! 早く…………!」
どうやら私は『狂愛の呪い』で言うこと聞かせられるらしい。けど、王太子の制御になんて集中力を割いてる余裕はない。
「あぁ、施娘! 君から呼んでくれるなんて!」
「献籍、太子さま止めて!」
命令した途端、献籍は王太子を羽交い締めにする。普段の真面目な献籍なら、王太子にこんな暴挙はしなかっただろう。
「それで、そんなお荷物抱えてどうするのぉ?」
「いつまでもつか、実験と行きましょうか」
妖婦たちは楽しげに言った。
私が二人を見捨てられないとわかっていてここまで連れて来たんだと思う。
炎を抑えても、回り込んでくる熱風と火の粉が私の体力を減らしていく。耐えるのも時間の余裕がない。
『一時凌ぎでも柱を盾にするのじゃ』
野邪の助言に従って、私たちは浄化の力を盾に後退する。
「あら、かくれんぼ? でも逃げ場はないのよ」
「丸見えねぇ。それで何処へ行くつもりかしら?」
「そうだわ。巫女の心臓を差し出すなら、他の者は助けてあげても良くってよ?」
「そうね、見捨てるべきよぉ。どうせすぎた力を制御もできてない無能だものねぇ」
「お黙りなさい! どうせ虚言じゃない!」
甄夫人が嘲笑う妖婦たちに怒鳴る。
その声を聞きながら、私が迷ってしまった。私が犠牲になれば、甄夫人たちを助けられるかもしれないと。
「どうしたのかしら? 力が翳っているわね」
「施娘、騙されないで! どうせ私たちを生かす気はないわ!」
『今は耐えるのが肝要なのじゃ』
「ククー!」
励ましの中、空くんが警告するように鳴く。肩越しに見ると、髪の端に引火していた。
「ほらほら! 巫女が燃え始めたわぁ!」
蘇三娘が歓喜の声を上げ、迷ってる暇がないことを確信する。
「…………空くん、切って! さっき袖を切ったみたいに、お願い!」
「クキュ!? ク、クー!」
空くんは怯んだように鳴いて、牙を剥くと跳び上がる。
熱風の中に私の髪が舞った。どうやら、離宮に移ってから伸びた分だけ切られたみたいだ。
切られた髪が燃え尽きた瞬間、足元から建物が大きく揺れる。
広間にある大扉が力任せに開き、一体の威容を誇る龍が現われた。
柱の間をうねるように飛ぶと、身に纏った激しい風で、漆黒の炎を散らす。
そして、怒りに燃える金色の瞳で、妖婦たちを睨み下ろした。
「貴様、何をした! 何をしたのかわかっておろうな!」
昂覇王の怒号が、広間を揺らすように響いた。
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