十話:王太子妃、姜春嵐
わたくしは姜春嵐。王太子妃として生まれ、国の次代を担う悧癸さまの妃に選ばれた誇りがあります。
常に公明正大に振舞うよう心掛け、二心なく国に仕える。国王として立つ悧癸さまの隣に寄り添い、そして支えることを己に誓ったわたくしには、当然の心がけでございました。
ですが今日、わたくしは悧癸さまにも言えない密談のため、人目を避ける装いで王宮の一室におります。
「お待たせいたしました、王太子妃」
「ご多忙中にも関わらず、このような場を設けてくださったこと感謝いたします。越西師」
真っ白な髪を背に流しただけの浮世離れした立ち姿。
仙人と呼ばれる深淵な知恵を持つにふさわしい掴みどころのなさに思えるのですが、伯蓮は雑な人だと言います。
あえて悪く言うのは、きっと親しさの表れなのでしょうね。
「王太子妃には申し訳ないが、私は世俗から離れて久しい身。無礼があった場合は許していただきたい」
「いいえ。どうか思うままにご意見を聞かせてください。ここには今、わたくしたちのみでございます」
あぁ、本当なら婚姻中の身でありながら、独身男性と余人を排した逢瀬を計るなど許されることではございません。
ですが、わたくしはこの国のため、悧癸さまのため、ひいては友人である伯蓮のためにどうしても知っておかなければならないのです。
可能な限り、内密に。
「早速ではございますが、越西師の真意をお聞きしたいのです。先日、伯蓮に巫女の力をわたくしたちに使うようおっしゃったのは何故でしょう?」
「名目上は、生体に力を流す練習。錬金術で作った生薬を、より効果的に効かせるために必要な技能だと、施娘には説明しました。………………が、あなたから見て別の意図があると思えるほど、顕著な違いがあったのですね?」
「やはり、あれは………………巫女の浄化能力による、わたくしたちの変化の観察だったのですね?」
当たっていてほしかったような、外れてほしかったような。
いいえ、こんな現実逃避をしても仕方ありません。
認めましょう。浄化されるべき悪影響が、身近にあったことを。
「悧癸さまは、妖婦の呪いの影響下にありました」
「でしょうな」
「…………越西師は、いつから見当がついていたのでしょうか?」
比較的顔を合わせる機会の多かったわたくしが明らかにおかしいと思ったのは、あの宴の日でした。
正直、それまでは己の成しえなかった救国を成した巫女への、過度な感謝と理想化だと思っていたのです。
伯蓮を直接知る前は、………………平民が贅沢を覚えて悧癸さまにわがままを言っているものだとばかり。
伯蓮の素直で明るく、城では清貧と言われるほど高望みをしない姿を知った今は、本人には決して言えない勘違いでした。
過去、そのような恥ずべき思い込みをしてしまったわたくしだからこそ、この件は伯蓮を傷つけることがないよう動かなければ。
「宴で顔を合わせた時に。それまで施娘と揃って会うことがなかったため、気づくのが遅れてしまいました」
「あの時、伯蓮の付き添いを放棄して、どちらへ?」
「方士統括の長官に話を通して、何処まで報告すべきかを検討しました。組織ってのはこういう時即応できなくて困るんですが、その分動き出したら手広く対処できる」
早くも越西師の口調が乱れてきました。
伯蓮が言うように少々取り繕い方が雑な気がします。
「伯蓮の浄化の力を受けて、悧癸さまは正気付いておりました」
「そう、私もそれを詳しく聞きたかったんですよ。施娘は無自覚なんで、説明させてもすっきりしてたみたいとしか」
確かに、伯蓮から聞いてはあの変化はわからないかもしれません。
「まるで、目の前が晴れたようなお顔をなさっていました。そして、普段なら伯蓮が困るまで居座っていたのですが、あの時は自らほど良い頃合いを見計らって退出いたしました」
そうあれこそ悧癸さまです。
上に立つからこそ他人を尊重することに心を砕き、必要な時には強く切り込むように意見を貫く。
決して伯蓮を困らせていることにも気づかないような、そんな方ではなかったはずなのに。
「その正気付いた状態は、まだ続いてますか?」
「えぇ、補佐を担う者たちにも話を聞いております。それまでは伯蓮と会う理由を無理にお作りになって、一日の予定を狂わせることが多かったのに、浄化されてからは真面目な悧癸さまに戻られたと」
「異変には気づいているのに周囲が疑わない………………。それだけ自然な………………? 周囲の認識を………………? 王太子は駄目で王太子妃が平気な訳は………………」
「あの、越西師?」
催促などはしたないとはわかっていますが、わたくしにも教えてくださいませ。
悧癸さまと伯蓮を蝕む呪いは、いったいどういうものなのでしょう?
「クゥ?」
鳴き声に足元を見れば、真っ白な被毛に覆われた獣が、音もなく現われておりました。
白い長毛に、なんの獣か判然としない姿。空色の瞳と聞き覚えのある鳴き声。
「あなたは、伯蓮の言う空くんですか?」
「クキュ」
「まぁ………………。本当になんの獣かわからない姿ですね。けれどあえて言うなら、猫?」
「もっとヤバいもんですよ」
私が空くんと見つめ合っていると、越西師はうんざりした顔で空くんを評しました。
伯蓮は何かわからないと言っておりましたが、どうやらこの仙人さまは、すでに正体を突き止めているご様子。
伯蓮の側に妖がいるのは心配でしたが、越西師が見逃しているのならわたくしがとやかく言うべきではないのでしょう。
「越西師、どうかわたくしにお教えいただけないでしょうか? わたくしなら、悧癸さまにも伯蓮にも近しい立場です。二人の呪いの影響を正しく観察できると自負しております」
「それは、ご自分にも呪いがかかる覚悟を持って仰っておられますか?」
覚悟を問う越西師の赤い瞳が、わたくしの胸の内を抉り出すような強さで突きつけられました。
今までの緊張感のない様子からは想像もできないことです。
けれど、大人に試されるなど、生まれた時より公卿である父から課せられてきました。
この程度の威圧で引き下がるほど、わたくしはやわではありません。
「もちろんです。現状、わたくしも周囲に自身の異変を感じないか聞き取りました。少なくとも、わたくしには悧癸さまほど顕著な呪いの影響は出ておりません」
「はぁ………………。そこまでご自身でやっていたなら、こちらは協力を要請する側になるしかありませんね。いやぁ、年齢変わらないはずなのに、どうして施娘はあーも呑気なんだか」
ぼやく越西師に、わたくしは思わず笑ってしまいました。
あの気負いのなさは、伯蓮の美点だと思っております。
どうしようと言いながらも、結局はやるべきことを前に竦むような性格はしておりません。危機感が足りないと感じることもありますが、自らが決めた道を曲げるような臆病者でもないとわたくしは知っております。
「伯蓮は呪われた身を悲観せず、今もなお巫女として必要とあらば戦うことを決めております。その強さに救われた一人として、いずれ国を代表する者として、応えなければならいと考えております。………………本来の悧癸さまも、同じ思いだったはずなのです」
越西師は考え込むように口を閉じると、赤い瞳で空くんを見ました。
「施娘の意思を尊重してくださるそのお心遣いは、本人にも届いているでしょう。ずいぶん、王太子妃を慕っている様子です」
「えぇ、わたくしも今では救国の巫女としてではなく、友人を助けたいという思いもあります」
「………………では、先に言っておきましょう。呪いについてお話しできることはありません」
「理由も窺えないのでしょうか?」
「予想どおりでしょうね。ことが巫女、王太子と公にするには仰々しい者たちを中心に起こっている。検証もままならない中、憶測で物も言えない。ことを知る者は極力少ないほうがいいため、緘口令が敷かれているんですよ」
呪いについて方士たちが調べているという割に、どんな呪いなのかが全く聞こえてこない時点で、それは予想しておりました。
ですが越西師の含みを深読みすれば、悧癸さまの妃である王太子妃のわたくしにも言えない何かがあるようです。
「わたくしなりに、悧癸さまのご様子からどのような呪いか、考えました。………………聞くところによると、呪った妖婦は心に影響を与える術を得意としていたとか? もし、その力を無理矢理に伯蓮に付与する呪いであったなら」
「やはりあなたは聡い。でしたら、次は一つ忠告をいたしましょう」
今さらわたくしに忠告?
悧癸さまはすでに国内外に世継ぎとして指名されておりますから、よほどのことがなければ廃嫡されることはありません。
呪いの影響下にあると言っても、大きな問題の起こっていない今、廃嫡するほうが混乱を招きます。もちろん、わたくしが間違いのないよう目を光らせておりますから今後もありえません。
他の懸念と言えば、伯蓮を巫女として古都勢力が擁したいと言っているのは知っておりますが、呪いを受けたと知って一度は手を引いた腰抜けです。呪いが解けていないことを盾にいくらでも古都勢力の要請は無視できます。
それに呪いも伯蓮の浄化能力で緩和できることがわかっています。
悧癸さまには定期的に巫女の力に触れていただければいいはず。
そんなわたくしの楽観を見透かしたように、越西師は告げました。
「相手は、誇り高い龍さえ服従させた妖婦です。その呪いの影響を受けているとなると、人間では太刀打ちできない。………………無理に呪いの影響に抗えば、最悪心が壊れて廃人になる可能性もあるんです」
「廃、人………………?」
あまりのことにわたくしはそれ以上何も言えなくなってしまいました。
浄化能力による呪いの緩和はどの程度、呪いに抗うことになるのでしょう?
下手に浄化しては、呪いが強まるなどということもあるのでしょうか?
「というように、不確定が多すぎて、最悪を考えればきりがない。ですから、不安を煽らないように、口止めされてるんですよ」
肩を竦めて見せる越西師は、まるで冗談を言った後のような気軽さです。
ですが、可能性が存在し続けるという事実が、わたくしを竦ませました。
「すでに検証は行われています。今は可能性を一つずつ潰して、確証を得なければならない。そのためには時間も必要です。あの二人の側にいられるあなたの報告は、きっと私たちの助けとなるでしょう」
そうわたくしを慰める越西師が、言っていないことがあることは、社交で培った勘でわかります。
何か、本当はわたくしが焦ってしまうような恐ろしい事実がある。
けれどそれを言ってもわたくしには何もできない。
だからわたくしにもできることがあるのだとわざわざ言葉にして聞かせているのでしょう。
「………………えぇ、微力ながら、ご協力いたします」
そしてこう答えるしか、わたくしにはできることもないのです。
悧癸さまが廃人になってしまうなど、考えたくもない。
共に良い国を作ろうと約束したのです。その約束を二人で守るためにお互いを手本に磨き続けてきたのです。
伯蓮に言われて、初めてこの気持ちが、義務感ではなく愛なのだと知ったのです。
今の変わってしまった悧癸さまには伝えられません。伝えても、意味などないありませんもの。
ですから、わたくしは一日も早く本来の悧癸さまに戻ってくださる時を、願わずにはいられませんでした。
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