第5話 襤褸を着てても心は錦
第5話 襤褸を着てても心は錦
その場にいた者がほぼ同時に振り返った。声を掛けたのはやはり修道女のような制服を着た、学院の生徒だった。
背中まで届くアッシュブロンドの髪を首の後ろでまとめ、形の良い眉にライトグリーンの瞳。リリーに似ているが、彼女より頭半分ほど背が高い。
「ケイト六年生か」
ドナルドが迷惑そうな顔でつぶやいた。
あれが、と諭吉はやってきた少女をまじまじと見つめる。ケイトといえば噂の才女だ。
学園始まって以来の優秀な成績を収め、入学して二年半で六年生にまで進級した。女性初の特待生にも選ばれている。このままいけば、『高等官吏試験』にも合格して女性初の官僚になるのではないか、とささやれている。
「君には関係ない話だ」
「本当ですか」とケイトの視線はドナルドの肩越しにリリーを見つめる。
「わざわざ学校を抜け出して、私の妹と何を?」
「これはリリー一年生への指導だ。いかに君が優秀な生徒といえど、話は別だ。口を挟まないでもらおうか」
「二限目の試験、もう始まっていますよ。ドナルド先生が監督を勤められるはずでは? ジェフ先生が探しておられましたよ」
痛いところを突かれた、と言いたげにドナルドが顔をしかめる。『現代西方語・一』は一年生なら必ずといっていいほど受ける試験だ。前述のように一年生の数は多いため、試験も二回行われる。
「すぐ戻る」不承不承という口調で言った。「それまで待機しているように生徒たちに伝え」
「話は聞かせていただきました」
ドナルドの言い訳をさえぎってケイトが穏やかに続ける。
「妹……リリーが先生の指示を破って教室を抜け出したそうですね。だとしたら、前例から考えたら軽い叱責か、後日の反省文程度のはず。明らかに罰が重すぎではありませんか」
「それを決めるのは私だ。君に指図される謂われは」
「十日ほど前、三年生の男子生徒が先生の授業をサボって抜け出しましたよね。その時は、確か反省文三枚で済ませたはず。普段、学生にあまり興味を持たれていない先生が、今日に限って随分熱心ですね」
「それとこれとは話が」
「それとも、もしや私の妹に特別なご興味でも?」
「無礼な!」
ドナルドが激昂しながら拳を振り上げる。リリーが悲鳴を上げた。
ケイトは避けなかった。顔色一つ変えていない。
ドナルドは不意に我に返ったようだった。寸前で拳を止め、弁解するように顔を左右に振った。
「ち、違う。今のは」
「でしたら条理に合わない処罰は控えられた方が宜しいかと。御名に傷が付きますよ」
ぐうの音も出ないとはこの事だろう。ドナルドは完全に言い負かされた形で逃げるように学院に戻っていった。
「お姉ちゃん」
ドナルドの姿が見えなくなった途端、たまりかねたようにリリーがケイトに抱きついた。
「大丈夫? ケガはない」
「あなたこそ、あの小心者の変態ゲス野郎に変な事されなかった」
「う、うん。平気」
「いざというときには潰してやりなさい。もいでもいいわ」
何を、とは聞き返せないらしくリリーが顔を赤くする。
「口が悪いっすね。先輩」
含み笑いしながら諭吉は言った。先程までの優等生振りが嘘のようだ。
「あなたは?」
「ああ、どうも。四年の諭吉といいます」
「え、ユキチ?」
ケイトは目をぱちくりさせる。
「もしかして、あなたがあの編入生?」
「あの、かどうかはわかりませんが編入してきたのは確かです」
入学試験は年に一回。諭吉が学院に来た時には半年前に終わっていた。本来ならば半年待たなくてはならないのだが、特別に編入試験を受けられることになったのは、例の執事が裏で手を回したからである。
「えーと、珍しい名前ね。ああ、ごめんなさい」
「いえ、お気になさらず」
異世界どころか、日本でも同じ名前の人間は一人しか知らない。
「あなたも妹を庇ってくれてありがとう。私は六年生のケイトよ。よろしくね」
「よ、よろしくお願いします。あの、四年のトムです」
がちがちに緊張しながらのトムと握手をする。
「こちらこそ、助けていただいてありがとうございました」
ケイトが来なければ、色々面倒な事態になっていただろう。
「謝らなくてもいいわ」
ケイトは苦笑する。
「あの先生があなたたちに絡んできたのは、私のせいでもあるから。あの先生、私を嫌っているのよ」
ケイトが一年の時、『現代西方語・一』の授業でドナルドの間違いを指摘した。親切のつもりだったのだが、ドナルドは恥をかかされたと思ったらしく、一方的に敵意を募らせているのだという。
それだけではあるまい、と諭吉は勘づいた。女性で、特待生で、この国初の女性官僚候補。閉鎖的でプライドが高くて了見の狭い男なら毛嫌いするだろう。しかしケイト本人に非の打ち所がない。そこでせめてもの憂さを晴らすために、妹のリリーを標的に定めた。
「ケツの穴の小さな奴ですね」
「まったくよ」
二人同時に笑い出す。トムとリリーが困った顔でそれを見ていた。
ひとしきり笑った後、諭吉は気になっていたことを訊いてみた。
「そういえば、あの先生が言っていた準貴族がどうとかってのは何なんですか?」
「ユキチ君は校則読んでないの? ほら、第四条の」
「ああ、あれですか」
当然のことながら学院にも校則がある。諭吉も入学の時に一通り目を通している。第四条は「学院の生徒としての立場を自覚し、相応しい振る舞いを日々実践すること」だった。要するにどこの学校にもある心がけだと判断し、読み流していた。
「学院の生徒は在学中、貴族に準ずる立場ということになっているの」
もし『高等官吏試験』に合格すれば、王宮に官吏として仕えることになる。要するに貴族社会の仲間入り、だ。そのため在学中から貴族として相応しい振る舞いや予備知識を身につける必要がある。その自覚を植え付けるために、と先々代の王様が決めたという。
要するに貴族の仮免許か、と諭吉なりに判断する。
「一応、ドナルド先生も貴族の出身なのよ。たしか準男爵」
「一番下でしたっけ」
「『高等官吏試験』に合格すればその時点で男爵位を授かることになるの。要するに自分より上に行かれるのが気に入らないのよ。やだ、大変。ますますお尻の穴が窄まっちゃう。痔のお薬でも進呈した方がいいかな。もう手遅れだったりして」
あまりの毒舌に諭吉もドン引きする。
それにケイトは気づいた風もなく、諭吉の作った参考書を手に取る。目をみはった。
「……これを本当にユキチ君が作ったの?」
「がんばりました。それとトムも」
「すごいわね。私も一年生の時にあったらな」
満更お世辞ではないようだ。
「お姉ちゃんには必要ないじゃない」
リリーが子供っぽいしぐさで首を振る。
「試験だっていつもあんまり勉強していないのに、いっつも満点取っちゃうじゃない」
「いつもじゃないわ。あと勉強もしているわよ。短時間に集中しているだけ」
「先輩はいつもどれくらい?」諭吉が訊いた。
「学院の授業のほかには、家に帰って予習と復習くらいかな。家事もあるし」
ケイトとリリーの両親はイースティルムで雑貨屋を経営していたが、三年前に他界した。
ケイトは両親の残した店を売り払い、アパートで妹と二人暮らしをしているという。
裁縫のアルバイトもしている上に食事の用意に掃除洗濯もあるため、あまり勉強の時間は取れないのだという。
頭のいい人は違うな、と諭吉は感心する。時間が取れないからこそ短い時間でいかに効率よく勉強するかを独学で学んだのだろう。
「ねえ、ユキチ君。この予想問題と参考書、売ってくれないかしら。一部ずつ全部」
「それは構いませんが、全部一年生向けですよ」
今更ケイトに必要だとは思えない。
「私じゃなくって、リリーにね。これがあればもう一歩先に進める」
「お姉ちゃん、私は」
「頑張っている妹を応援して何が悪いのかしら。それとも、リリーはお姉ちゃんのこと嫌い?」
感極まったようにリリーが姉に抱きついた。
「しかし、どうしようかな。この予想問題」
ドナルドのあの様子では、諭吉から何も買わないように手を回しているだろう。ここまで余るとは予想外だ。口コミで広がる前に押さえられたのが痛かった。
参考書の方はまだ何とかなるが、予想問題は今日中に売らないと意味がない。
「だったら私から一年生に声掛けてあげようか」
ケイトからの意外な申し出に諭吉もおどろいた。
「こう見えても顔は広いから。お昼休みにはきっと長蛇の列よ」
「でもあのドナルド先生が何と言うか」
「学外で売る分には、平気平気。ただ場所は変えた方がいいかもね。南門の方なら人通りも多いしいいんじゃないかな」
「ありがとうございます」
「いいのよ、これくらい。妹がお世話になったからね。このくらいはさせて」
ケイトは柔らかく微笑んだ。
「それより、あなたたちも自分の勉強、頑張りなさい。他人の世話をして自分が落ちたら何にもならないわよ」
上級生らしい忠告を与えるのも忘れなかった。
一年生の試験に続いて諭吉たち四年生の試験も無事終わった。
学院には試験休みはなく、次の日からまた授業が始まる。学生たちも当然と思っているようだ。授業が終わっても図書館に居残ったり、私塾に通ったりと忙しそうにしている。自主学習を怠れば、『高等官吏試験』に合格など夢のまた夢だと。
休めばその分周囲に置いてけぼりにされてしまう。もう少し、ゆとりがあってもいいのではないかと思うのだが、こればかりは諭吉にどうにか出来るものではない。それに試験に熱心であればあるほど、諭吉印の参考書は売れる。
あの後、諭吉の屋台に一年生がどっと押しかけてきた。ケイト先輩の口コミ効果だろう。用意していた参考書も予想問題も全て売り切れた。
評判も上々である。できれば第二弾も出したい。予想問題のストックはまだある。こうなると問題は数である。このまま需要が増えていけば、生産が追いつかなくなるだろう。手書きにも限界がある。無理をすればトムの手が壊れてしまう。
諭吉が対策として考えているのは、ガリ版印刷である。ロウ紙を専用のヤスリの上に載せ、鉄筆で文字をなぞることで版元となる原紙を作る。出来上がった原紙をインクを塗ったローラーに押し当てることで印刷する。
コピー機と違って電気もいらないし、紙とインクさえあれば数も刷れる。いつか折を見て製作に取りかかろうと思っている。
まずはロウ紙の代わりになるものがないか探してみよう。元の世界と同じ素材に頼らなくても異世界にある物質で代用が利くかも知れない。
そんなことを徒然と考えてながら教科書をカバンに突っ込んでいると、トムが血相を変えて教室に飛び込んできた。
「大変だよ!」
トムは息を切らせながら諭吉の手を引っ張る。
「早く来てよ、リリーさんが大変なんだ!」
学院では特定のクラスが存在しないため、校内の連絡事項は全て校舎前の掲示板を通じて行われる。
授業中止の知らせや、試験の成績上位者の発表、そして生徒への処分の通知など。
掲示板の前には人だかりが出来ていた。トムと一緒に人の合間を抜けて最前列に出る。
『先日の試験において不正行為が発覚したため、以下の者を退学処分にする』という簡潔な前置きとともに数名の学生の名前と学生番号(名字のない平民がほとんどのため、番号で区別している)が書き連ねてある。その中に一年生のリリーの名前も並んでいた。
「退学か。あーあ、バカな奴らだ」
「不正ってことはカンニングか。隣の奴の答案でも覗いたのか?」
「さすがにすぐばれるだろ。カンペじゃないか?」
生徒たちが口々に噂し合っている。どれも嘲笑や優越感、ライバルが減った事への安堵に満ちていた。
リリーの姿はすぐに見つかった。掲示板から少し離れた校舎の前でしゃがみ込みながら嗚咽を漏らしていた。
「ち、がう……わたし、カンニングなんて、して、ない……」
大粒の涙をこぼしながら無実を訴える。
トムが駆けつけるが、どうして慰めていいかわからないらしく、側であわてふためていてる。
「リリー!」
噂を聞きつけたのだろう。ケイトが人混みをかき分けながら駆け寄るとリリーを抱きすくめる。
「お姉ちゃん……わたし、やってない」
「ええ、わかっている」震える背中をさすりながら言い聞かせるように言う。
「わかっているから」
「まだそんなところにいたのかね」
冷ややかな声がした。振り返ると、ドナルド・デッカーが両手を後ろに組みながら悠然とした足取りで近付いてくるのが見えた。
「学院の名を汚した卑怯者に用はない。さっさと立ち去り給え」
「違います!」リリーが涙声で叫んだ。
「わたしはカンニングなんてしていません。何かの間違いです」
「カンニングした者はみなそう言うのだよ」
ドナルドが芝居かがった仕草で肩をすくめる。
「だが、証人もいる」
ドナルドが意味ありげに振り向いた先には、黒髪の少女が身を縮こまらせていた。諭吉には見覚えがあった。リリーと同じ一年生だ。名前は知らないが、彼女も『現代西方語・一』を受講していたはずだ。
「ステラ一年生が証言したよ。リリー一年生と共謀して、テストにカンニングペーパーを持ち込んだと」
「嘘です! そんなことしていません!」
「だが、こうして証拠も出て来た」
ドナルドがポケットから取り出したのは、小さく折りたたんだ紙だ。広げると、『現代西方語・二』の試験範囲の要点が手書きでまとめられている。そちらもドナルドの担当である。
「これは君の字だね、リリー一年生」
リリーがはっと気づいたようにステラの方を振り向くと、彼女は人だかりの後ろに身を隠してしまった。
「待ってステラ!」
追いかけようとするリリーの前にドナルドが立ちはだかる。
「見苦しいぞ、リリー一年生。今更何を言うつもりだ。口を滑らせた事への恨み言かね」
「誤解です、先生。これは、ステラに頼まれて書いたもので、こんな風に使うなんて」
「私とて信じたくはない。だが、証拠も出た以上、処分は厳正に下さねばならない。これは教師としての職務なのだよ」
諭吉は全てを理解した。リリーは、はめられたのだ。ステラによって罠に陥れられた。黒幕は目の前の教師だ。でなければ、さも残念そうな台詞を口にしながら愉快そうに口の端を緩めるものか。
先日、諭吉とケイトにやり込められた復讐を歪な形で果たした。いや果たそうとしている。
「本当に、そうお思いですか?」
憤然たる気持ちを隠そうともせず、ケイトが言った。端で見ている諭吉ですら怖気を振るうほどだった。今のケイトは噴火前の火山に等しい。
「もちろんだよ、ケイト六年生。君の妹御がこのような事になって大変、残念に思っている。だが、君とて幸いだったのではないかな」
「何が、ですか?」
「はっきり言えば、君とリリー一年生では能力が違いすぎる。才能の差という奴だろう。このまま学院に残っていたとしても卒業どころか、進級すらできまい。出来の悪い妹の世話をせずとよくなったのだ。これで君も学業に打ち込めるというものじゃないか」
「ふざけっ……!」
ケイトが激昂しながら手を振り上げた。ドナルドは自身に振り下ろされる拳を目線で追いながら笑みを零す。
これがドナルドの狙いだ。リリーをダシにしてケイトを挑発する。優等生のケイトといえど、教師に暴力を振るえばタタではすまない。よくて停学、最悪退学だ。
教師の頬を打ち抜こうとする拳を、横から伸びてきた手が引ったくるように受け止める。
「まあ、待って下さい」
そんなマネをさせるつもりは、諭吉には微塵もなかった。間一髪間に合ったようだ。諭吉の掌を除けば。女の人にしてはいい拳を打つ。
「離して! 私はコイツを……」
「ケイト先輩も落ち着いて」
つかんだ手ごと後ろに引き倒す。ケイトはその場に尻餅をつく。乱暴になってしまったが、こうでもしなければ、再び殴りかかりそうな気配だった。
「何だね、ユキチ四年生。君の出る幕はない。引っ込んでいたまえ」
「まあ、そうなんですけどね」
ここに至っては、部外者の諭吉が抗議したところで裁定は覆らないだろう。リリーは退学になる。諭吉にできることなどたかが知れている。
「ところで、ドナルド先生。校則の第四条をご存じですか?」
尋ねながら諭吉は左手を制服のポケットに突っ込んだ。
「当たり前だ。今更何を……」
諭吉が左手をポケットから引き抜くと、白い手袋が嵌まっていた。『早着替え』で『クローゼット』から取り出したものだ。全身だけでなく、一部分だけ脱着も可能である。
「でしたら、こういうのもありですよね!」
手袋を右手で引き抜くと両手に抱え、野球のピッチャーのように大きく振りかぶって投げつけた。
乾いた音を立てて、手袋はドナルドの靴に当たった。
「え……?」
ケイトの息を呑む音が聞こえた。
「決闘は貴族の嗜みですよね」
諭吉はにやり、と笑うとドナルドに、短剣代わりのペンを向ける。
「ドナルド・ベッカー。貴殿に決闘を申し込む」
毅然として言った。できるといったらこれくらいだろう。
「俺が勝ったら、リリーさんの退学を取り消してもらう」
少年漫画みたいな展開になってしまった。
次回辺りから無双っぽくなってくる、かな?