第20話 袂に縋る 中
遅れてごめんなさい。続きが完成したので投下します。
第20話 袂に縋る 中
「引率なら間に合ってますよ、ドナルド先生」
諭吉は素早くケイトの前に立つと、指を鳴らす構えを取る。頭の中で警戒警報が鳴り響いている。教師時代からは比べものにならないほど、ドナルドの顔は荒みきっていた。髪はかきむしったように乱れ、肌は病人のように色艶を失い、高慢な自信に満ちていた瞳は泥水のように濁っていた。
「それとも、ご自分が学院を辞めたのもお忘れで?」
「減らず口もそこまでだ」
低く、唸るように言った。
「俺は貴様に全てを奪われた。あの茶番のせいで!」
学院を去ったドナルドのウワサは諭吉の耳にも入っていた。決闘騒ぎはすでに貴族社会に広まり、嘲笑の的となったドナルドは実家からも縁を切られ、財産も取り上げられ、身ぐるみ剥がされて追い出されたという。
「もしかして、復讐ですか? 止めましょうよ。流行りませんって。第一、決闘の結果を蒸し返すなんて男らしくない。それこそご自身の名誉に関わりますよ……っと!」
諭吉は指を鳴らした。『裾直し』で服を限界まで縮めて拘束するつもりだった。何も起こらなかった。
狼狽する諭吉にドナルドの嘲笑が浴びせられる。
「ムダよ、ユキチ君」
ケイトが石を投げつける。子供の拳ほどもある石がドナルドの体をすり抜け、草むらに沈んだ。
「『幻影』よ」
目の前のドナルドは幻で、本体は別の場所にいるようだ。魔法で自分の姿を見せて、声だけを飛ばしているのだろう。諭吉の『早着替え』を警戒しているのは明らかだった。
「貴様のスキルを知って、のこのこ目の前に現れると思うか?」
「要するに、ビビって隠れているってことだよな」
口に手を当て、わざとらしく噴き出してみせる。
「金玉付いているのかよ、腰抜け」
「その手は食わん」
挑発にもかかわらず、ドナルドの感情が乱れた様子はなかった。
「怒らせて私の隙を作ろうとしているのだろう? この前はそれにやられたが、今度はそうはいかん」
「で、何の用? 言っておくけど金なら貸さないけど」
「貴様の言った通りだ」
幻影のドナルドの口が大きく開いた。
「復讐だよ」
その途端、頭上から熱風が吹き下ろされる。夏の日差しよりも強い熱に肌が焼けるのを感じる。反射的に顔を腕で覆いながら熱風の来た方向を見ると、草原の上に巨大な炎の塊が浮いていた。体長は概算で五メートルはあるだろう。トカゲのような姿をしたそれは、赤く燃える舌をちらちらと覗かせ、黒い強膜の中で金色の瞳を黄昏のように輝かせている。
「『火精蜥蜴』か」
「正解だ」
ドナルドが得意げに声を弾ませる。
諭吉はケイトを手で庇いながら後ずさる。額から幾筋もの汗が流れるのは、サラマンダーのせいばかりではなかった。
体の大きさは『裾直し』でどうとでもなる。だが、どんな服を着せようと、体を覆っている炎のせいですぐに燃え尽きてしまうだろう。一縷の望みを掛けて諭吉は、『クローゼット』の中にしまいこんでいたナイフをサラマンダーの口に『着せる』べく指を鳴らした。
一瞬で移動したナイフはサラマンダーの口をすり抜け、白い煙を吹き上げながら草むらに吸い込まれていった。
「残念だけど、サラマンダーは精霊だから。その、実体がないの」
ケイトが哀れむような口調で言った。
「みたいですね」
サラマンダーに視線を固定したまま応じた。『早着替え』を使っても、サラマンダーには服を着せる『体』そのものがないのだ。はっきり言ってサラマンダーは諭吉の……『早着替え』の天敵だった。
「一応聞いておきますけど、弱点ってご存じですか」
「水には弱いって話だけど」
服を濡らしてから着せる、という作戦を思いついたが、すぐに却下する。サラマンダーの火勢では、すぐに蒸発して黒焦げになるだろう。
「あとは術者を……ドナルドをどうにかすれば、消えるはず。精霊って本当は目に見えないくらい小さいの。それを術者の魔力でムリヤリ集めて固めているから」
魔力が消えれば、自然と雲散霧消する。
「やっぱり、それしかないですよね」
「させると思うか?」
幻影のドナルドが高々と腕を上げる。
「行け、サラマンダー! その小僧を焼き殺せ」
「村まで走って!」
ケイトを突き飛ばすと、諭吉は村とは反対側、山の方へと逃げ出した。
草原を全速力で走る。サラマンダーが追ってきているのは、振り返るまでもなかった。首の後ろや後頭部が、焦げるように熱い。
捕まっては最後と、背筋を震わせながら両腕を振り、足で地を蹴る。それでも熱が上がってきている。皮膚のむきだしの部分が熱さから痛みに変わってきていた。また距離が縮まっているのだ、と気づいて息を切らせながら両手両足を懸命に動かす。
ただ闇雲に逃げているわけではなかった。諭吉には勝算があった。測量に入る前、村人から聞いていた。村の南側、草原を突っ切った山の中に大きな池がある、と。地下水が湧き出しており、将来的には農業用水として使う予定だという。
サラマンダーとはいえすぐに蒸発しきれる量ではないだろう。うまく池に放り込めれば、水蒸気が発生して逃げ切れるかもしれない。ドナルドの目をくらませればそれでいい。
ドナルドは近くにいる、と諭吉は確信していた。サラマンダーは先程から正確に諭吉を追ってきている。逃げる途中何度か進路を変えたが、すぐに方向転換して真後ろに付いてきていた。少なくとも数キロメートルも離れた位置から操っているとは考えにくい。
何よりサラマンダーとも違う、足音が追いかけて来ている。足音を殺しながら諭吉の斜め後ろを走っている。振り返って確認したいところだが、足を止めればサラマンダーの餌食だ。喉が渇いた。修道士のような格好はやはり走りづらい。蒸し暑い。
あれか、と諭吉は小高い丘にある二股の木を見ながら顔をほころばせる。村人の話では、あの木を越えたところが池だという。すでに呼吸も乱れ、熱と疲労で全身汗みずくだが、ラストスパートとばかりに無呼吸で丘を駆け上がる。
二股の木の横を駆け抜け、丘のてっぺんを飛び越え、眼下に広がる光景に諭吉の心臓が止まった。
水をたたえているはずの池は枯れ、泥となった底を覗かせていた。
「水が、ない?」
足を止めかけた諭吉の背後に強烈な熱風が吹き付けた。やばい、と麻痺しかけていた危機感が甦る。半ば吹き飛ばされるような形で坂を転がり、水のなくなった池に飛び込んだ。
べとり、と気味の悪い感触とともに制服が濡れる。泥まみれで横たわる諭吉の上から哄笑が降り注いだ。顔を上げると、サラマンダーの隣でドナルドが浮かんでいた。
「残念だったなぁ! お前の浅知恵などとっくにお見通しだ」
「なるほど。事前に調査済みってわけですか」
泥を払いながら立ち上がる。諭吉たちの前に現れる前に、サラマンダーの熱で池の水を干上がらせたのだと悟った。
「ずいぶん用意周到じゃないですか。先生らしくもない。また誰かさんに吹き込まれましたか?」
「貴様が知る必要はない」
「そればらしたも同然なんですが。いいんですか? 怒られませんか?」
「減らず口をいくら叩こうとこの状況は変えられまい」
泥は思いのほか深く、立っているだけなのに諭吉の足首まで沈んでいる。これでは速く走れそうにない。逃げるのも難しい。
「いかに弱者があがこうと最後に勝つのは力のある者、より強い者が勝つのだ」
「授業料にしては高すぎやしませんか」
どうせ代金は諭吉自身の命、というところだろう。
「それだけの価値がある授業だからな」
ドナルドが得意げに言った。
「どうせならもっと有意義な授業にしていただきたいんですけどね。体罰と下らない格言なんて老害そのものじゃないですか。ついでに言うならあなたの授業は前例ばっかりで退屈で死にそうでしたよ。だから、ご実家からも見限られるんじゃないですか?」
ドナルドの顔が赤くなった。挑発とわかっていても、生まれ持ったプライドの高さと気の短さは、簡単に変えられないようだ。
元教師の口汚い罵りを受け流しながら諭吉は後ろ手で『クローゼット』から目的のものを引っ張り出す。紙で作ったボールの中でさらさらと砂のような音がする。
「サラマンダー! その愚か者の腕を焼き尽くせ!」
命令に応じてサラマンダーが大きな口を開けて火を吐いた。紅蓮の炎が濁流のように怒濤の勢いで押し寄せてくる。諭吉は横っ飛びで泥の上を滑りながら手の中にある白いボールを空に向かって投げつける。ボールはドナルドに届かず、サラマンダーの体を覆っている炎に飲み込まれる。諭吉は後ろを向いた。
瞬間、爆発のような白い光が閃いた。幻影のドナルドが悲鳴を上げた。諭吉はそれを合図に立ち上がり、泥の池から這い上がる。妨害はなかった。坂を上がりながら振り返るとドナルドは宙で体を丸め、目を押さえながらもがいている。
「理科の実験はお気に召さなかったようで」
ボールの中に詰めていたのは粉末にしたマグネシウムである。マグネシウムは燃焼の際に、強い光を発する。古くは閃光粉としてカメラのフラッシュに使われていたくらいだ。
ドナルドが幻影を通じて音や光を拾っているのは明らかだ。ならば強い光を当てれば、幻影の向こうにいるドナルド本体にも通じるはず、と考えたのだがうまくいってくれた。
とはいえまだピンチを脱したわけではない。ドナルド本体を叩かない限り、状況に変わりはない。この近くにいるのは間違いない。ドナルド本体さえ見つければ、『早着替え』の出番である。マネキン人形のように、いかようにも着せ替えられる。
まずは一度身を隠して、と考えながら池の縁に手を掛けた時だった。頭上に黒い影が差したのを感じた。ドナルドやサラマンダーではない。幻影のドナルドは池の上でもがいているし、サラマンダーは主人の命令待ちである。ならば誰が、と反射的に顔を上げた。息が詰まった。
二股の大木が根元近くで切り倒され、音を立てて諭吉目がけて倒れてきていた。
「なんだと?」
声を上げながら諭吉は坂を蹴り、その場から離れた。手を離したために諭吉の体は再び池の底へと滑り落ちていく。遅れて二股の木が諭吉の横をすり抜け、転落する。泥を波のように跳ね上げた。
振り出しに戻ってしまった。諭吉は首を伸ばし、切り口を見た。のこぎりや斧ではなく、何か鋭利なもので一刀両断にされているようだ。比較的細身ではあるが、樹木をぶった切るなど人間の腕力をこえている。一体誰が、と考えているところに絶望的な声が聞こえた。
「……よくもやってくれたな」
振り返ると、ドナルドの幻影がすさまじい形相でサラマンダーの上に立っていた。
「もしかして、今は国語の授業でしたっけ? 失礼しました。どうやら時間割を間違えたみたいで」
「黙れ!」
空気を震わせる轟音が、諭吉の言葉をかき消す。サラマンダーから放たれた咆哮が爆風となって池の泥を吹き飛ばした。土煙の舞い散る中、第二発が飛んできた。またも泥の中を滑るように飛び退く。爆発が、諭吉からはるかに離れた場所を吹き飛ばした。熱せられた土と泥が諭吉の上に落ちてくる。
ドナルドの方を見上げると、また目を押さえていた。
まだ視力が回復していないのだろう。サラマンダーは、手当たり次第に池の中を攻撃し続けている。下手な鉄砲数打ちゃ当たる、に切り替えたようだ。
「こりゃ参ったな」
完全に怒らせてしまったようだ。先程と同じ手は通用しないだろう。救援は期待出来ない。むしろ来てもらっては困る。犠牲者が増えるだけだ。
いずれは、視力も回復する。諭吉を吹き飛ばすのも時間の問題だ。
「仕方ないな」
こうなれば奥の手を出すしかない。これを使えば、まず間違いなく窮地は切り抜けられる。しかしこれを使うのはリスクがある。もし奥の手を誰かに見られたら、諭吉は学院にはいられなくなる。
そう考えた時、諭吉は自分で考えていた以上に学院での生活に愛着を持っていたことに気づいた。
いつまでも続けられるはずはないとは知っていたが、出来ることなら、こんな形で終わらせたくはなかった。
それでも、命には代えられなかった。この場を切り抜けられなかったら、人生が終わる。まだ死ぬつもりはない。
覚悟を決めて諭吉が右腕を掲げた時、後ろからこつん、と固いものが当たるのを感じた。
何だ、と振り返って諭吉は目を見開いた。
乾ききった池の縁の上で、リリーが小石を投げようとしていた手を止め、晴れやかな笑みを浮かべた。
次回は1週間後、の予定ですが遅れるかもしれません。
先に謝っておきます、ゴメンなさい。




