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第1話 裸一貫の異世界人 上

第1話 裸一貫の異世界人

 

 諭吉たちの下宿から歩いて二〇分、王立イースティルム学院は町の北側にある。町の名前もイースティルムのため、「学院」と呼ぶのが一般的になっている。


 石造りの校舎は天井までの高さが人の数倍もあり、宗教的なタペストリーが吊されている。元々この土地にあった修道院を改修したものらしく、建てられてから三百年以上経っているという。


 学院が設立されたのはおよそ五十年前。当時の国王が、国中から広く人材を求めるため、官僚の選抜試験制度、通称『高等官吏試験』を定めた。身分に関わりなく受けられる、と国中から受験希望者が殺到した。中には自分の名前すら書けない者まで集まっていた。


 混乱を防ぐため、受験資格が定められた。学院を設立し、卒業した者のみが受験資格を得る。

 言わば資格試験のための予備校である。入学の資格はたった二つ、十五歳から二十五歳までの年齢制限と、ホレスカール王国の民であることだけだ。


 入学試験にはイースティルム学院だけでも万に近い人間が集まるが、合格者は数十分の一程度。うち二割が女子である。

 学年は一年から六年まで。諭吉とトムは四年生である。トムとは違い、諭吉は飛び級で四年生から始めることになった。詳しい理由は知らされていないが、編入試験とコネの結果であることは察しが付いている。


「ユキチ、起きてよ」

 隣のトムに肩を揺さぶられて、諭吉は目を開けた。


「もう終わったのか」

「まだ授業中だよ」声を潜めながら咎めるような声音で言う。


 どうやらいつの間にか眠っていたようだ。まぶたをこすりながら顔を上げる。


 教室には板書の音と、やはり司教のような制服を着た教師の声だけが響いていた。告解室のような石畳の狭い教室には、細長い机が並べられ、生徒たちが束ねた紙に書き込んでいる。一定のリズムを繰り返すチョークの音を聞きながら諭吉はあくびをした。


 今は神学の授業なのだが、神書解釈による政治的意義だの、神学者の名前とその代表的な論文だのと、小難しい単語が延々と並べ立てられる。


 何より教師の説明はただ言いたい事を延々と並べ立てているだけで、さっぱり興味も湧かない。現代日本の高校にいた諭吉からすれば、授業というより下手な独演会のようなものだ。退屈極まりない。


 そもそも聞いているかどうかなど、どうでも良いのだろう。諭吉の席は窓際の前から二番目にある。居眠りしていたのは気づいていたはずだか、注意されたことはこれまで一度もない。


 それでもトムを含め、諭吉以外の生徒たちは一言一句聞き逃すまいと真剣な面持ちで耳を傾けている。生徒の熱意は、日本より上かも知れない。

 彼らにしてみれば、将来の出世のためという明確な目標がある。時間が惜しいのだろう。


 入学試験という狭き門を通り抜けたとしても安泰ではない。むしろそこからが本当のスタートである。

 優秀な役人を育てるため、法律や経営学、語学や神学など数多の学科を履修する。学科を取得すれば単位が与えられる。


 単位数により進級が決まる。卒業までには、二百を超える単位を取得しなくてはならない。

 当然、授業は過酷である。付いていけない者は容赦なく切り捨てられる。毎年入学者の半数近くが進級もできずに退学していく。


 入学するのに身分はいらないが、金はいる。入学料や授業料は掛からないし、制服や教科書、一部の教材は支給されるが、それで賄いきれるものではない。滞在中の家賃に食費はもちろん、紙やインク代、教材費もかかる。


 クラスメートの中には家族や故郷の期待を一身に背負った者もいる。退学者の中には金銭的な理由で泣く泣く辞めざるを得なかった者もいるという。遊んでいる暇などない、と言わんばかりに日々勉強に勤しんでいる。トムだって夜遅くまで予習復習に勤しんでいる。


 それに引き換え自分は日本にいたときから不真面目極まりなかった。授業は抜け出すわ、十八歳未満立ち入り禁止の店に出入りするわと、遊びたい放題だった。


 名前の由来になった教育者が知ったら、助走付けて殴りかかってくるかも知れない。

 もうちょい真面目に授業受けておけば良かったな、と諭吉は少しだけ後悔した。


 といっても、今から真面目に授業を受けるつもりはさらさらなかった。官僚になるつもりはない。諭吉自身、今の身分はかりそめのものだと思っている。機会があれば、元の世界に帰るつもりだし、帰りたかった。家族もいる。


 何も考えずに永住を決められるほど、あちらの世界に残してきたものは軽くない。諭吉を召還した宮廷魔術師は既にこの世になく、帰る方法は王宮の誰も知らない。あとはもう自力で探し出すしかない。あいつに掛けられた『呪い(・・)』さえなければ、今も元に戻る方法を探していただろう。忌々しい限りだ。


 とはいえ、学院にいるのも悪い事ばかりではない。

 一つは図書館の存在だ。王立の学院だけあって、この国でも有数の蔵書量を誇っている。書籍が貴重なこの世界では、図書館の存在自体が稀なのだ。


 学生であれば、貴重かつ希少な蔵書を閲覧することができる。暇を見つけては図書館に通って、元の世界に戻るヒントはないものかと目を通している。徒然考えているとまた眠気が襲ってきた。こちらの世界では『夢魔の誘惑』というらしい。


 努力するクラスメートのジャマをしないよう、諭吉は教科書を盾に顔を机に埋め、睡魔に身を委ねた。


 放課後になった。部活などという面倒なものはないので、授業が終われば生徒は居残って勉強するか、家に戻って生活費を稼ぐためのアルバイトに勤しむ。


 イースティルムの町では学生のアルバイトを奨励しており、比較的簡単に雇ってもらえる。諭吉とトムも例外ではない。下宿の一階が古着屋になっており、交代で店番をしている。古着の需要は高い。新品の服は高価なため、布を買って自作するしかない。廉価な既製品はないのだ。


 狭い店舗だが、そこそこ繁盛している。老若男女を問わず、ハンガーに掛けられた上着を手に取りながら、サイズが合うかどうか確かめている。


 以前は客から買い取った古着を適当なカゴに突っ込んでいるだけだった。そこから客が適当に引っ張り出して、サイズの合うのを見つけて買っていく。


 その非効率さに見かねた諭吉が店長兼下宿のおかみに言って店内を日本にいた古着屋のように改装したのだ。

 古着には全て値札を付ける。近隣の森から拾ってきた枝を削って簡単なハンガーを作り、服を引っかけてサイズごとに並べる。


 破れているものや汚れているものは洗濯や縫い直す。これだけで一月後に売上げは倍増した。今では屈指の繁盛店である。よその古着屋も遅ればせながらと、似たような営業方法を採っている。


 値札をチェックしながら客が持って来た古着を精算する。

「えーと、合計で一二〇ネイなります。お釣り、八〇ネイです」


 この国の通貨はネイと呼ばれている。諭吉の感覚では一ネイで一〇円ほどになるだろう。現代の通貨とは比較にならないほど安っぽい銅貨を受け取りながら愛想笑いを作る。スマイル大事。


 袋に詰めると、客は満足げな顔で出て行った。

「すごいよね、ユキチは」

 客足が途絶えると、トムが話しかけてきた。


「何が?」

「あんな難しい計算を一瞬でこなしちゃうなんてさ」

「慣れの問題だよ」


 この国では暗算も希少なスキルだ。今、学院で習っている数学も日本では中学生レベルだ。それなら諭吉の学力でも付いていける。


「それにこのお店もすっかり繁盛するようになったし。僕が来た頃なんて一日十人も来ればいい方だったのに」

「仕方ないだろ」

 店じまいして下宿ごとこの店を売りに出す、とおかみが言い出さなければ口出しなどしなかった。


「勉強だってそうじゃないか。いっつも居眠りばかりなのに、試験の時はいい点とるんだからさ。数学と東方語なんて学年トップだったし」

「要領の問題だよ」


 数学は日本での学習成果だし、東方語は『言語理解』のスキルのたまものだ。馴染みの薄い外国語もこのスキルがあれば、国語の試験より簡単だ。日本に戻る時もこのスキルだけは持って帰れたら、と密かに願っている。


「それに、成績ならお前の方が上だろ」

 神学や歴史は最低点に近い。諭吉が編入できたのも、その他の科目で最高点をたたき出したからだ。トムは得意科目もない代わりに苦手科目もない。合計点はトムの方が上である。


「もしかして、ユキチってどこかの貴族だったりするの? アシハラとかシシンとかの王族だったりとか」

 トムは指折り数えながら東方の国々の名前を挙げた。どちらも東方語が公用語の国である。当然行った事はないのだが、諭吉のようにモンゴロイド系の顔立ちをした人々が住んでいるという。ホレスカール王国にも貿易や留学で東方出身者が訪れている。諭吉自身、東方の出ということになっている。


「こんな貴族いねえよ」

 諭吉の両親は、ともに教師である。どちらも諭吉と同名の教育者が設立した大学の出身であり、名前の由来になっている。


「ねえ、ユキチ。相談があるんだけど」

「金以外なら聞くぞ」

 執事からもらった生活費も余裕はない。散財すればあっという間に路頭に迷うだろう。


「僕、実はおどされているんだ。その、五年の先輩に……」

「なんだと?」

 諭吉は自然と声が尖った。


 聞けば、五年の不良どもに試験の問題を盗んでくるように命令されたのだという。学院では毎月のように試験が行われる。試験の成績が悪ければ、追試を受けなくてはならない。追試が重なれば、強制的に退学させられる。問題用紙は職員室に保管されているのだが、不良どもは隙を見て合鍵を作っていたらしい。


「教師には言ったのか?」

 トムはかぶりを振った。小動物のように縮こまった姿は、怖くて言えない、と雄弁に物語っている。


「だったら俺から話そうか」

「ダメなんだ」

 トムは暗い顔で俯いた。


「その、アダム先輩は僕と同じ町の出身なんだけど、その、お父さんが大地主で、ウチの父さんもそこで働いてて」

 諭吉は舌打ちした。要するに、父親の権力と立場を利用して、トムを利用しようとしているのだ。


 当然だが、問題用紙を盗み見るのは重大な校則違反である。発覚すれば一発で退学だ。

 アダム先輩とやらの顔は知らないが、何を考えているかは想像が付く。もし見つかった時は、トムをトカゲの尻尾切りに使うつもりなのだ。断れないのもお見通しの上で。


「匿名で密告、ってのもダメなのか? 手紙で書いて先生の机に置いておくとか」

「計画を打ち明けたのは僕だけ、って言っていたから。僕が漏らしたってバレちゃうよ」

「ふむ」


 諭吉はカウンターの上に頬杖を突いた。卑劣なバカが成績伸ばそうと、見つかって退学になろうと知った事ではないが、同居人を巻き添えにされてはたまらない。折半している家賃を一人で払わなくてはならなくなる。


「盗み出すのはいつだ?」

「今夜だって。その、今日は見回りの守衛さんが予定があって少ないらしいから、その隙に塀を乗り越えて職員室に忍び込めって」


 学院自体が宗教的にも歴史的にも貴重な建造物である。そのため、学院内には守衛が置かれている。槍を持って鎖帷子を来た兵士が、夜間にも学院内を巡回している。


「そいつらとはどこで落ち合う?」

「学院の北側にある林の方だよ」

 ひとしきり考えた後、諭吉はトムの方を向いた。


「よしわかった」諭吉はうなずいた。

「とりあえずお前は言われた通り、問題を盗み出すんだ」

「ええっ!?」

 トムは突き飛ばされたように仰け反った。


「心配するな、俺も付いて行ってやる」

 トムが何か言いかけたが、それをふさぐかのように肩に手を置く。


「とりあえずお前は、盗み出すことに全力を注げ」

「でも、それじゃあ」

「表沙汰にならないし、しないしさせない。そのアダムだかイブだかって先輩にも不正はさせない。まあ、任せておけ」

 諭吉はトムの目を見ながら不敵に笑った。


次回は本日の午後五時に更新します。

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