7.地獄の業火で炒めてやる(1)
地獄とは、生前に罪を犯した死者が、その罪の重さに応じて責め苦を受ける場所だ。
そして獄卒とは、永きに渡ってその責め苦を与え続ける、地獄の番人。
とすれば、最も苛烈な責め苦を担う無間地獄にこそ、凄腕の獄卒が充てられるのは当然の道理で、獄卒試験を首席で突破した豪炎も、かつてはそこに配属されたものだった。
潰す。砕く。刺す。獣に食わせる。燃やす。
そこでの光景はまさに酸鼻の極みだ。一般に人間を下賤の存在としかみなしていない獄卒ですら、長期そこで働くと心を病むという。
そんな中、豪炎はかなりの期間、忠実に職務を果たしてきた。
同僚でも躊躇う責め苦を、眉ひとつ動かさずに行ってきた。
躊躇いを押し殺すほどの崇高な理念があったわけではない。躊躇う感情を持ち合わせなかっただけだ。
己が馬頭鬼であり、それが適性のある仕事だったから、こなしていただけ。
「――つまんない顔して働いてるねえ」
閻魔庁の長官が視察に来るなり口にしたのは、そんな一言だった。
かつては賽の河原で下積みし、無間地獄での獄卒を務め上げ、冥府の頂点のすぐ傍にまで上り詰めた男、宗。
やけに整った顔立ちの男をぼんやりと見返した翌日、豪炎は、主要地獄どころか小地獄の、それも「おんぼろ地獄」と蔑称される東第十六小地獄に転属されることとなった。
以降、宗の表現を借りるなら、つまらない顔で仕事をする代わりに、もっぱら、つまらない顔で茶を飲んでいる。
「おい、麗雪。茶を――」
淹れてくれ、と呼びかけて、豪炎は同僚の姿が見えないのに気付いた。
地獄の地下、獄卒たちの住居。
がらんとした居間では、膝を抱えた麗雪が茶を啜って空腹をごまかしているのが常だったのに、いない。
行き先に心当たりのあった豪炎は踵を返す。
刀林処までやって来ると、そこに広がる光景を見て、やはりと頷いた。
視線の先では、今日も同僚が情けない顔で、人間の娘に取り縋っているところだった。
「なあ、みのり。いや、みのり様、頼む。あとひとくちでよいのだ。そのカラアゲなる至高の食を、もうひとくちだけ……!」
「ならもっと食材を確保してって、何度も言ってるでしょうがこの大食い牛頭鬼!」
「うぅ……私の懐では、現世の食材を大量に買うことはできぬのだ……」
「なら食べるな! ばか麗雪!」
麗雪はもはや獄卒の威厳のかけらもなく、えぐえぐと涙目になりながら、娘の足元に縋りついている。
相手の娘もさるもの、かなりの美女であり、かつ鬼である麗雪のことを、なんの躊躇いもなく振り払っているのだから驚きだ。
出会って三日もしないうちに、気弱でポンコツな麗雪の本性も見抜いてしまったらしい。
いつの間にか呼び方も「麗雪さん」から呼び捨てに代わっているし、みのりの方も本性を偽らなくなっている。
相手にもそれを認めさせているあたり、ふたりの間でははっきりと主従関係が形成されているようだった。
(……そんなにうまいものだろうか、現世飯とは)
無感動な瞳で眼前のやり取りを見つめながら、豪炎は小さく首を傾げる。
実はこの時点で、彼がみのりたちの作る料理を口にしたことはなかった。
食べたらすわ懐柔してやる、とでも言わんばかりの娘の目つきが面倒だったのと、あとは単純に、麗雪ががっつきすぎて、自分の元まで料理が回ってこないためである。
(腹が膨れれば、それでよくはないか)
やたら必死に娘に頼み込んでいる麗雪を見て、そんなことを思う。
元より食への興味が低い彼は、現世飯どころか、その辺の魔獣を適当に狩って食らっている有様だった。
魔獣の肉には毒があるため、大雑把な舌しか持たない地獄の住人ですら嫌がるが、豪炎はそれが少々不思議だ。
噛むと舌がびりりと痺れる、あの感触はなかなか心地よいのにと。
(腹に詰め込むだけの単純作業など、面倒なだけだ。刺激でもないと、毎日飯など食えん)
三度の食事だけを楽しみに生きている麗雪が聞いたなら、顎が外れるだろうことを、豪炎は淡々と考える。
と、視線の先で懊悩していた麗雪が、ぱっと顔を上げた。
「そうだ! 豪炎のやつなら、懐に余裕があるやもしれぬ。あやつ、かつては高給取りであったし、銭のろくな使い道も持たぬ無精者だもの」
その発言には、聞き捨てならない内容が混ざりだす。
お鉢がこちらに回ってきそうな雲行きに、豪炎は面倒くさそうに顔を顰めた。
***
みのりは、ひもじい、ということの辛さを知っている。
飢えがもたらす寒さも。
手足の力が抜けて、自分がとてもみじめな存在に思われて、心が砕けてしまいそうになる、あの感覚も。
同時に、いや、だからこそ、自分に――自分のためだけに差し出された、温かな食事というのが、どれほど眩しい存在に映るかは理解できるし、それを必死に求める人のことを、馬鹿にすることなど決してない。
「……だぁー、かぁー、らぁああああ……!」
とはいえ。
「あんったは大概食べすぎなのよ! 肉は一回あたり五キロまでって言ったでしょ!?」
「キロと言われてもわからぬもの。それに、堪えられざる美味だったのだもの」
よよよと泣き崩れながら、腕はしっかり更なる唐揚げを掴もうとする麗雪を、みのりは裂帛の気合いで引き離した。
「だめ! このお皿は保存用だってば! 麗雪、ステイ!」
刀林処裏の洞窟倉庫。
封じの札と自然の冷却効果で、時間と温度を制御した地獄の「冷蔵庫」でのことだ。
みのりたちは、今日調理した唐揚げのうち、わずかに残った――無理やり確保したともいう――ものを、庫内に保存しにきたところだった。
「それにしても、あれだけあった食材が、随分減ったねぇ……」
「完全な計算違いよ。さすがに気前よく与え過ぎたわ」
連れ立った繁がしみじみと庫内を見回せば、みのりは舌打ちせんばかりに答える。
人間一人分なら、ゆうに一年は過ごせるだろうほどあった食材が、この一週間で半分ほどに目減りしていた。
器具的にそうせざるを得ないので大量に調理するのだが、少しずつ食べようと思っていたら、いつも暴食牛頭鬼に食い荒らされるのだ。
亡者の皆さんは、「俺たちは食わなくてもやってけるからよぅ」と、気を遣って少量しか食べないというのに、麗雪一人でこれである。
全力で懐いてくる様子は、鬼という正体を抜きにしても愛らしいものがあるが、これでは四十九日まで食いつなぎ、かつ閻魔たちの胃を掴む料理を作れるか危うい。さすがに苛立ちも募ろうというものだった。
「だ、だがな、先も言うたように、勝算はあるのだ。豪炎にもこの美味を食わせ、金づるに仕立てればよい。やつがこれまで食ってきたのは、しょせん現世飯『風』のまがい物。本物を知れば、必ず陥落するはずだ。やつはかなりの額を貯め込んでいる。私は知っている」
「……あっさりと同僚を売ったわね」
展開自体はみのりも望むところなので、なんら異存はないが、しかしどうやってあの獄卒を懐柔したものか。
料理はことごとく麗雪に食べられてしまう、という物理的事情もさることながら、多少こちらに対して距離を置いている馬頭鬼にどう接触するか、みのりも頭を悩ませていたのである。
「そもそも、あの馬頭鬼――豪炎さんって言ったっけ、彼っていつもどこにいるの? 全然姿を見ないけど」
「やつは私以上に勤務態度がなっていないのでな。ここへの配属初日、従順に責め苦を待っている死者たちを見て『責め苦を与える必要すらなし』と割り切ったらしく、以降、獄卒の住居で日がな一日、茶を飲みながら寝転んでおる」
「……怠惰の極みね」
まったくこのおんぼろ地獄は、設備もそうだが、どういう人員の配置をしているのだろう。
これが左遷というものか、としみじみ呟けば、麗雪はむきになって反論した。
「なにを言う。我らは、ここ東第十六小地獄を、たった二人で任されるほどの逸材なのだぞ」
なんでも、麗雪は元は牛頭鬼五家の出身であるし、豪炎も獄卒試験を首席で突破し、初配属で無間地獄に務めた、将来を嘱望された獄卒なのだという。
身分頼みの麗雪はともかく、あのぼーっとした感じの男に、そんな輝かしい職歴があったとは。
みのりが目を見開くと、麗雪は自分の手柄のように胸を反らせた。
「特にあやつの、剣の腕前は凄まじいの一言。我ら獣獄卒は、地獄の有事にしか獣の姿を取らず、日頃はなるべく力を抑えておるわけだが、やつは人の姿を取っていてなお、剣の一撃で万物を薙ぎ払う。切れ味がよすぎて、切られた魂も、己が切られたことに気付かぬほどだ」
「それって獄卒としてどうなんだい?」
繁がぼそっと突っ込む。
みのりはそっと養父を向き、「繁さん。いくら繁さんが知的だからって、あんまり鋭くツッコんじゃ可哀そうよ」と窘めた。
「剣を振るうその姿は、さながら漆黒の稲妻。今でこそのんべんだらりとしているが、かつては獄卒連中からも『暴怒せし牙』『闇の暴虐者』といった二つ名で恐れられたという……」
「ねえ獄卒って中二病なの?」
「みのりちゃんこら」
堪えきれず、今度はみのりがツッコんだところで、麗雪は「だが」と表情を曇らせた。
「私が思うに、こうした苛烈な責め苦を可能にしたのは、やつの感受性の低さだ。実際、私はやつと同僚になってからというもの、笑い顔も、驚き顔も見たことがない。味覚も相当鈍いようで、舌が痺れるような魔獣肉を平気で食らう。やつによれば、そのくらいの刺激でちょうどいいのだと」
「ふぅん……」
ということは、いくら男だからといって、「おふくろの味」などで攻めるのは悪手だろう。
馬だから人参、というには、彼らはあまりに元となる獣の食性と離れているようだし――なにせ麗雪は平然と牛肉を食らう――、揚げ物にしたら高確率で麗雪に奪われる。
みのりはしばし腕を組み、やがて問うた。
「……ねえ、豪炎さんは、お酒はお好き?」
「うむ、鬼である以上間違いなく好きだぞ。ただやつの場合、味を理解しているかは怪しいが」
「そう。なら、味より喉越し――ね」
ちら、と視線を向けた先には、次第に酒棚の様相を帯びてきた一画がある。
そこには、宗がたびたび贈ってくる、様々な種類の現世酒が置かれていた。
そう。
その後も彼は、みのりが一人きりになった瞬間にふらりと現れては、たわいもない駆け引きを持ちかけ、酒を寄越してくるのである。
(ハイボール……がアルコール度数的にもベストなんだろうけど、ウィスキーはまだ手に入ってないし、やはり、これかしら)
みのりは、アルミ缶六つをくるんだ紙の箱――いわゆる、六缶パックを見つめた。宗から最初にもらった酒だ。
(肉はだいぶ減ってきちゃったから、肉の量を必要とする料理は避けたい。入れるとしても、ひき肉にして……)
空気や脂を含ませる分、ひき肉は切り落とし肉よりも「嵩増し」できるということを、これまでの経験でみのりは学んだ。
(後あるのは、野菜と……)
猫のような瞳が、庫内の奥に積まれていたある物を見つけ出す。
麻の袋に詰められているそれは、艶やかな赤い皮が眩しい、唐辛子だ。
次いで調味料をまとめた一画を確認する。
よほどグルメな獄卒が買い溜めたのか、それとも料理音痴の鬼が手当たり次第に揃えてみたのか――脈絡のなさから、なんとなく後者の気がする――、そこには、和洋中なんでもカバーできる種類の調味料や香辛料が並んでいた。
ビールが進みそうな、とびきり辛い、ひき肉と野菜を使った料理。
麗雪の反応を見るに、油をたっぷり使った品を本能的に美味しいと感じるのは、こちらも同様のようだから、やはりここは、こってり味のもので。
「ねえ、繁さん」
みのりはくるっと振り返ると、養父に笑いかけた。
「麻婆茄子、作ろう」