6.地獄の業火で揚げてやる(4)
「なんなのだ、これは……」
麗雪は目の前の光景が信じられず、顔を引き攣らせた。
寂れ果てていたはずの獄内に漂う、異様な熱気。
倉庫に押し込んだはずの拷問器具の数々。
しかも拷問器具には、血や臓物の代わりに、小麦粉や、やけにいい匂いのする牛肉のかけらがこびりついている。
しかも、いつも神妙な、あるいは怯えたような顔つきをした死者たちは、なぜか一様に瞳を輝かせ、拳を上げて叫んでいた。
そして――、
「あれは……?」
巨釜の横、平らな地面の上には、儀式用に使うための白布が敷かれ、そこにはなにか、大量の丸い物体が並べられていた。
きつね色をしたそれからは、ほかほかと湯気が立ち上っている。
そこからふわりと広がる油の匂い、そして熱された肉の匂い。
麗雪はそれが食べ物であることを瞬時に悟った。
同時に――恐らくそれが、極上の味わいがするであろうことも。
「ほう。やつら、また随分と奇妙なことを。あれは……現世飯の一種か?」
後から来た豪炎は、顎をしゃくりながら首を傾げる。
地獄では、せいぜい肉に火を通したり、塩を振ることはすれど、その形状を加工することはほとんどしない。
よく言えば素材の味を生かした料理、悪く言えば「焼いただけ」ということだ。
美しい球の形をしていて、しかも素材の元の形がわからない、いい匂いのする食べ物というのは、だから、即ち現世飯ということである。
豪炎は、傍らの同僚に問いかけたわけだったが、残念ながら返事が来ることはなかった。
なぜなら、麗雪はすでに、こっそり様子を見に行くという心づもりも忘れて、ふらりと巨釜に向かって歩き出していたからである。
「おい、麗雪……?」
豪炎が呼び止めるも、もう遅い。
麗雪は、無言で歩き続け、巨釜の近くで快哉を叫んでいる死者たちの輪に、そのまま踏み込んでいった。
「これは、何の真似だ?」
居丈高な口調に、周囲が一斉に振り返る。
美貌の獄卒の姿を認めると、彼らは見る間に敵対的な表情を浮かべた。
「よう、獄卒さんよぅ。あんたが、なにをしても関知しない、屑はその辺で燻ってろってんで、ちょいと油を煮立たせてみたんじゃねえか」
代表して、真が一歩進み出る。
軽快な口調とは裏腹に、声には「これ以上の横暴な真似は許さねえ」とでもいったどすが効いていた。
「その器具はどこから持ち出した? 食材は?」
「知らないねぇ」
「しらばっくれるな。そして、奥に並べたその……その、こんがりとしたそれは何だ?」
「知らねえ」
いけしゃあしゃあと白を切る真に、辺りの空気が一気に緊張をはらむ。
が、意外にも麗雪はすぐさま金棒を振り回すような真似はしなかった。
切れ長の瞳は、じっと、巨釜近くのメンチカツを見つめている。
その視線が、やけに熱のこもったものであることに最初に気付いたのは、みのりだった。
「知らぬはずはなかろう。おまえらの奥に横たわる、その艶やかな茶色をした、ずっしり重みの感じられる球状のそれは――」
「メンチカツよ」
とうとう麗雪の発言が、なにか称賛のような形容を滲ませはじめた辺りで、みのりは真たちを遮って進み出る。
「牛肉と豚肉を細かく砕いて、衣を付けて揚げたもの。ひとくち、食べてみる?」
そうして不意に、にっこりと微笑んで誘いかけた。
どこか猫を思わせる釣り気味の大きな瞳は、笑んで和ませると、途端に無邪気な雰囲気を帯びる。
可憐、といってよい姿の養女を見て、繁はぶるりと身を震わせたが、麗雪は単純に喜色を浮かべた。
「……ふん。メンチカツ? メンチカツとな。……ど、どうしても食べてほしいということなら、やぶさかではないが」
「高貴なる獄卒様の口には合わないかもしれないけど、お近づきの印にぜひ。ひとくちだけでも食べてもらえたら、とっても嬉しいわ」
いっそわざとらしいほどに優しい口調に、死者たちもその意図を悟る。
一同は、麗雪が近付いてくるのを、まるでホイホイされる虫を見るかのように見守った。
「さあ、じゃあ良ければ、ここに座って。今取り分けるわね。ほら、匂いを嗅いでみて」
みのりは着々と給仕を進める。
言われた通りカツの前で深呼吸してみて、麗雪は陶然とした表情を浮かべた。
(なんと……なんとかぐわしいのだ……)
揚げ物特有の、ほんのり甘い油と、肉の匂い。
カロリーの風を感じる。
貧乏ゆえに、最近ろくな食事をしていなかった麗雪の胃は、それだけで期待に震えた。
「さ、どうぞ。短い箸が見当たらなかったから、この短刀で切り分けてね。熱いから気を付けて」
優しく勧めるみのりの声を半ば聞き流し――頭の片隅で、なんと感じのよい娘だろうと麗雪は思った――、山と積まれたメンチカツの一つに手を伸ばす。
誇らしげに光を弾き返す衣、それに包まれた、ずしりと重そうな球状のそれ。
押し付けられた短刀を差し入れると、衣はさくりと音を立てて割れ、深い茶色の断面を覗かせる。
――じゅわっ。
その表面を、透明な肉汁が渦を巻いて流れてゆくのを見たとき、麗雪の口内でも同じ音が響いた。
見るからに熱そうなそれを切り分け、短刀の先に突き刺す。
滴る肉汁を極力零さぬよう、慎重に口に運び入れ――
「――……!」
麗雪は大きく目を見開いた。
歯の先に感じる、軽やかな衣の食感。
それを突き破った先にある、ちんと音を立てそうなほど熱い肉の塊。
噛めばたちまち、口の中にじゅわりと肉汁が広がる。
肉の脂から溶け出た、丸い丸い旨み。そして、肉それ自体の甘みある味わい。
飲み下す際にほんのりと感じる香ばしい後味は、いったいなんなのだろうか。
わからない。
わからないが、とにかくうまい。
「カツにも味は付いてるけど、お好みでこちらもどうぞ」
みのりは背後から、そっとなにかの瓶を二つ差し出してくる。
透明な方は塩とわかったので、麗雪はまずそちらをかけてみた。
「――……ぅ……っ」
うまい。
塩の粒を受け止めたそこから、一層深みを増した甘みと旨みが広がってゆく。
その勢いのまま、もうカツを丸ごとがっつこうとした。
が、そこにみのりがさっと黒い液体をかけてしまう。麗雪は一瞬躊躇したものの、一度着火した食欲は抑えきれるものではなく、すぐさま口に放り込んだ。
結果、
「――……んぅううう……!」
彼女は全身を紅潮させ、ぎゅっと拳を握った。
そうでもしないと、その衝撃はやり過ごせなかった。
(な……、なんだこれは……っ!)
酸味だったソースの香りが、肉の味と絡まりながら口いっぱいに広がってゆく。
飲み下す際に、ゆっくりと熱が喉を下ってゆく、その感覚すら愛おしい。
(も……もっと……もっと欲しい……)
餓えた目つきで、身を乗り出す。
が、
「待って?」
次のカツを掴もうとした腕は、素早く動いたもう一本の腕によって掴まれてしまった。
「ひとくちというには、もう十分食べたでしょう?」
みのりだ。
笑顔なのだが――なにか、ものすごく迫力がある。
麗雪は無意識に喉を鳴らした。
「いや……だが、その、だな。もう少しくらい……」
「もう少しくらい食べたい? ひとくち以上、大量に、このメンチカツを頬張りたいのね?」
「う……うむ……」
「お近づきの印であるこのメンチカツを、大量に受け取りたい……つまり、私たちと、親密な仲になりたいと」
「う……うむ……?」
滑らかにまとめられて、麗雪は混乱した。
そういうことになるのだろうか。
だがまあ、友好の印を積極的に欲しているということは、そう解釈されてもおかしくはない。
というより、それらの冷静な判断をする余裕が、今の彼女にはなかった。
「その……好きに取ればよい。だから、そのメンチカツの、大きいやつをだな――」
「嬉しい! つまり私たち、友達ね! このメンチカツを媒介として、獄卒と異邦人という関係を超えた、強い友情で結ばれるわけね」
「う……」
ぎゅ、と手を握りしめられ、麗雪は思考を停止させた。
同性の友人? そんなもの初めてだ。
恐怖も侮蔑もなく、親し気に瞳を覗き込まれたのなど、いったいどれほどぶりだろう。
そして何より、未だほかほかと湯気を立てている、あのメンチカツが、食べたい――。
「――う、うむ。それでよい」
判断力は、香ばしい油の匂いの前に膝を突いた。
麗雪が頷くと、みのりはきらりと瞳を輝かせる。
そうして、メンチカツを貪る麗雪に、淑やかな声で話しかけ続けた。
「どうかしら、おいしい?」
「うむ」
「また沢山作って、麗雪さんに食べさせてあげたいわ。……だから、私たちの食料と、ついでに寝床を、これからも確保してくれる?」
「うむ」
相手が思考能力を半減させているところに付け込んで、みのりはどんどん要求を混ぜ込んでゆく。
その強かさに、見守っていた周囲は静かに感嘆の唸りを上げた。
「すげえな、あの子……」
「みのりちゃんは昔から、子分を作るのが、驚異的にうまかったんだよね……」
その横では、繁が遠い目をしてぽそっと呟く。
なにはともあれ、目的は果たした。
繁は溜息を落とし、真はにかっと口の端を引き上げる。
みのりはそんな二人に向けて、こっそりとVサインを作った。
必要なものは、いつだってたった三つ。
友情。
努力。
――勝利。
***
「やあ、うまいことしたじゃないか」
再び、あの無駄に麗しい鬼が現れたのは、みのりが一人、刀林処裏の洞窟倉庫に残ったメンチカツを運び込んでいた時のことだった。
三日分はあるのではないかというほど大量に作ったメンチカツは、死者全員に振舞い、麗雪ががっついた結果、もはや皿に三個しか残っていない。
それでも、この時が止まる便利な「冷蔵庫」にしまおうと考えたのは、懐柔すべき相手が突然腹を空かせた時のためだった。
今回はたまたまうまくいったが、毎回「拷問器具調理」が成功するとは限らないし、なにしろ大量調理はやはり時間が掛かるのだ。
カツを載せた皿に布を掛け、その上から「封」の札を置いていたみのりは、宗を見るなり、警戒も露わに皿を胸に抱きかかえた。
「出たわね、長官殿。今度は何をしに来たの? 暇なの?」
「冷たいなあ。君が豪語する料理の出来はどんなものかと、確かめにきたんだよ。ひとくちいい?」
「だめ」
反射的に答える。
やがて閻魔大王や、この冥府の長官のことは懐柔すると決めているが、それはまだ、準備を万端整えた後のことだ。
相手の好みもリサーチしておきたいし、焦らすことだってしたい。
確実に勝利を掴むためには、こと彼らに対しては、そうやすやすと食べさせるわけにはいかないのだ。
「ふふん、気になる? なら結構。いずれ食べさせてあげるから、せいぜい――」
「あ、嬉しい。まだ温かいね」
みのりは見得を切ろうとしたが、相手は高い身長を活かしてひょいと皿を奪い取ってしまった。
「ちょっと!」
「まあまあ」
流れるような優雅な手つきで、メンチカツを摘まみ、頬張る。
一拍置いた後、彼は切れ長の目を見開いた。
「――おいし」
「……そ」
みのりは素っ気なく頷きながらも、密かに胸を撫でおろす。
これでまずいと言われたら、繁の救出計画が根幹から崩壊するところだった。
「食べたんなら、それなりの対価を支払ってくれる? 今すぐ再審の段取りを付けるとか、地獄行きの沙汰を確実に覆すとか、彼を生き返らせるとか」
「ぼったくるねえ」
調子に乗って要求を並べ立てると、美貌の鬼は苦笑する。
「残念だけど、これでは見合わない。人一人分の魂と因果をいじろうって言うのに、揚げ物一つじゃ割に合わないでしょ?」
「……じゃあ二つ食べてもいいわ」
「君が毎日、手ずから食べさせてくれるなら検討するけど」
さらりと言い返されて、みのりは眉を寄せた。
「まだその『口説きごっこ』は継続中なの? 蔑んでいる相手を口説く振りするのって、楽しい?」
「はは。愚かだと思っているのは否定しないけど」
爽やかに笑い、宗は顔を近付ける。
「――でも、そこに惹かれるんだと言ったら?」
「は?」
咄嗟に顎を引いたみのりの腕を掴み、宗は耳元で囁いた。
「四十九日だ」
「――え?」
突然の宣言に、意味を取れなかったみのりが聞き返す。
宗はあっけなく腕を離すと、代わりに「はい」と皿を押し戻した。
「再審の日取り。ちょうど彼の死後四十九日だ。既に段取りは付けてある」
「…………!」
思いがけぬ知らせに、みのりは大きく目を見開く。
まさか本当に、この鬼がそんな情報を与えてくれるものとは思わなかった。
「もっとも、閻魔大王陛下におかれては、連日繰り広げる宴の、余興の一つとしか思われていないようだけど。でもまあ、この場合、君たちには好都合なんじゃない?」
宴の演目の中の一つ。
つまり、料理で懐柔するにはうってつけの場面ということだ。
「……あなたが、そう手配してくれたの?」
「ま、食べた分の働きってところかな」
見れば、メンチカツが三つ載っていたはずの皿は、きれいに空になっている。
いつの間に、と驚くみのりに、宗は微笑み、ある物をひょいと掲げてみせた。
「あと、もうひとつおまけ。現世では、揚げ物やこってりした料理を食べるときには、こういう飲み物が必要なんじゃないの?」
「なんで地獄でぬけぬけと缶ビールが登場するのよ!?」
彼が「はい」と押しつけてきたのは、みのりたちもよく見知った缶ビールだった。
それも、6缶パックだ。
ぎょっとし、つい勢いで受け取ってしまったみのりに、宗は笑って肩を竦めた。
「あちこちの界の酒を飲んで回るのが趣味なものでね」
「…………」
やはり、捉えどころのない男だ。
みのりが困惑して見つめ返すと、彼は笑みを深めた。
「仮にも鬼を懐柔しようというなら、酒がなくちゃ――ね?」
たしかに鬼退治などの昔話を見るに、酔わせて寝首を掻くというのは正道である。
「……頂くわ。どうせくれるなら、もっと多くてもいいのに。けちね」
「血盟約を破棄して、僕のものになるなら、今すぐにでも追加の酒を持ってくるよ」
「ならいらないわ」
丁重に要求を取り下げ、差し出された分だけを、みのりは慎重に受け取った。
「これは、『おまけ』なのよね? もらったからって、後から『嫁になれ』なんて難癖付けてこないわよね?」
「しないよ、おまけだからね」
念入りに確認すると、相手は呆れたように笑い、それから「ただ」と顔を近づけた。
「代わりに、僕にも少しだけ、おまけがほしいな」
「……なにを――」
吐息が耳に掛かる。
間近に迫った硬そうな角を、つい目で追ってしまうと、宗は囁いた。
「君の名前を、君の口から、僕に教えて」
低く滑らかな声に、なぜか胸がどきりと跳ねる。
その要求に、どんな意味があるのかはわからなかったが、手に持ったビール缶に視線を落とし、ややあってみのりは告げた。
「……みのりよ。大沢、みのり」
「――みのり」
既に知られているはずの名前だ。
なのに、改めて鬼のひっそりとした声で呼ばれると、心の中の一番柔らかなところを、そっと撫で上げられたような心地がした。
「そう。それが、君の名前」
にこりと笑って、彼は身を起こす。
気が済んだのか、次の瞬間には、もう輪郭を揺らしはじめた。
「僕のことは、宗でいいよ――」
ふわりと、冷たい風が頬を撫でる。
「……なんなの、あいつ……」
後には、空っぽの皿と、少しだけ頬を赤くしたみのりだけが残された。