5.地獄の業火で揚げてやる(3)
暗い岩壁で覆われた室内に、ほう、とあえかな吐息がこぼれた。
先ほどみのりたちが探索した、刀林処裏の倉庫のちょうど真下。
奈落の底であるはずの地獄の、さらに「地下」と呼ぶべきようなところに、その空間はある。
明り取りの鬼火が煌々と揺れる、広々としたその場所は、なにを隠そう、獄卒たちの住居である。
黒木を基調とした、堅固な造りのその住居内には、寝室や居間といった基本の間取りのほかに、会議室や談話室といった共用スペースもある。
獄卒たちはいわば住み込みで、同僚たちと同じ釜の飯を食いながら、日々の業務に臨んでいるのだ。
もっとも、一時は閉鎖まで追い込まれた「おんぼろ地獄」の住居であるので、部屋のほとんどは使われず、談話室もがらんとしている。
広々とした板の間で、壁際にもたれながら牛頭鬼・麗雪がこぼした溜息は、だから今日も、たった一人の同僚にしか聞かれることはなかった。
「どうした。溜息など吐いて」
低い声で問うたその同僚は、名を豪炎という。
牛頭鬼と同じく罪人を責め立てる「馬頭鬼」の一人で、人の姿を取っている今は、馬の面を額に付けている。
筋肉の目立つ巨体に、道着のような簡素な着物をまとい、黒い短髪かららは二本の角を覗かせていた。
豪炎は、闇を吸ったように真っ黒な瞳を気だるげに細め、首を傾げる。
「腹が減ったか? 食料はないが、茶ならある。飲むか?」
そうして、慣れたとはいえない手つきで、備え付けの火鉢の上に掛けられていた鉄瓶を掴んだ。
持ち手の部分すら鉄が剥き出しになったそれは、掴むと「じゅっ……」と不穏な音を立てる。
が、豪炎は特にそれを気にするでもなく、蓋を開け、中にどさどさと茶葉を放り込んだ。
「おっと、屑茶葉か。濾せないな……このままでいいか?」
「屑、か……」
豪炎の問いを聞き取った麗雪は、そこでまた何かを思い出したように顔を顰める。
美貌の花魁のごとき彼女が、柳眉を寄せて息を吐き出すと、まるでこの世の有象無象をごみ屑とみなし、それに侮蔑の念を向けているかのように見えるが――、
「……『屑』という言葉のチョイスは行き過ぎたかもしれん。いや、行き過ぎた。行ーきー過ーぎーたー」
がくりと顔を俯かせ、ぼそぼそと呟く様子は、それまでの印象を大きく裏切るものだった。
彼女ははだけた肩を丸め、引き寄せた膝に顎を乗せた。
「亡者どものあの怒りに満ちた顔……爺さん怖かった……いや、あの娘に至っては侮蔑の色すら浮かべておったな……ああいうのが一番怖いのだ……人間のおなご怖い……」
「また、上がって啖呵を切ってきたのか。阿呆め」
泣き言を聴くのは慣れているのか、豪炎はさらりとそれをディスる。
茶葉が浮いたままの、というより、茶葉を湯でふやかしただけのそれをどぼどぼと湯呑に注ぐと、彼は「ん」と麗雪に差し出した。
「まあ飲め。おまえの、牛頭鬼らしからぬ惰弱さは、今に始まったことではない」
「まるで慰めになっておら――ぶっふぉ!」
中身も見ずに茶を口にした麗雪は、液体にあるまじき食感に噎せる。
口内に張り付く茶葉をぺっぺっと吐き出しながら、涙目で同僚を見上げた。
「豪炎おまえ! 茶の楽しみまで私から奪う気か!」
「うん? 茶葉に湯を注いで湯呑に移す、で合っているだろう?」
が、豪炎は怪訝そうに返すだけである。
「なにぶん、自分で茶を淹れたことなんてないのでな。許せ」
「これだから、獄卒試験主席の坊ちゃん馬頭鬼は……!」
「自分こそ、牛頭鬼五家の末っ子のくせによく言う」
淡々と言い返されると、麗雪は、ぐ、と唇を噛んだ。
「ふん、『おんぼろ地獄』への左遷が決まってから、すぐに勘当されたわ。責め苦の一つも加えられぬ私は、牛頭鬼の面汚しであるとな。おかげで、ろくろく市にも出に行けぬ」
そう。
麗雪は、地獄の代表的な獄卒・牛頭鬼の中でも、名家の出身であった。
にも拘わらず、血を見るのすら嫌がる繊細さと気弱さが災いして、先に配属された等活地獄ではてんで役に立たず、この第十六小地獄への転属が決まったのである。
獄卒とて地獄の民。
責め苦を加えるだけでなく、市で食料を買ったり、それで食事せぬことには生きてゆけないが、実家から見捨てられた彼女の場合、懐が常に寂しい。
のみならず、地獄市で最大勢力を誇るのもまた牛頭鬼一家であったので、親族の営む店で食料を買ったり食事するわけにもいかず、麗雪は常に腹を空かせているのであった。
「最近三丁目にできたという、現世風の飯を出すという店……行きたかったなぁ。やつら、私の顔を見た途端店を閉めるのだぞ。鬼畜の所業よ」
「現世飯などという高級料理は、今の俺たちには夢のまた夢だな。……いや? だが、たしか倉庫に、先代の獄卒が買い置いていた現世の食料があったろう。ご丁寧に、時を止める札まで撒いて」
先ごろみのりたちの侵入した倉庫は、つまりここが羽振りのよかった頃の遺産なわけであった。
「罵られるのが嫌なら、そいつを使って自分で調理すればよいのでは」
「だが豪炎、おまえ、要らない拷問器具や地獄絵図の類を、あそこに放り込んだだろう? おかげで怖くて、あの場にちっとも出入りできぬわ。そもそも、肉を切る際に指を断ったらどうする。私の不器用さを舐めてもらっては困る」
いじいじと麗雪が反論すると、豪炎は静かに溜め息を落とした。
「まさか、おまえの花魁風の着こなしが、単にうまく着付けができないせいだと、亡者たちの何人が気付いてるだろうな」
「言うな。泣けてくる」
麗雪はくっと眉根を寄せ、俯いた。
「私はこれでも、いっそ亡者たちと良好な関係を築き、まったく新しい地獄の在り方を提案できないかと努力した頃もあったのだ。業務用の油では煮られる側も味気なかろうと、エクストラバージンオリーブオイルを用立てたり、鍋釜の類は、三途の川の水で丁寧に煮沸消毒したり。なのに、亡者からは憎まれ、同族からはぽんこつよと罵られてばかり……」
「そういうところだぞ麗雪」
「え、待て、わからぬ。麗雪混乱」
「そういうところだぞ麗雪」
豪炎は繰り返すと、もう突っ込むのも面倒になったのか、さっさと話題を変えた。
「それで、あの生きた娘はどうするつもりだ?」
「うん? ……ああ、いや、それこそあの倉庫で過ごしてもらおうかと思ったのよな。時が止まっておれば、再審まで時間が掛っても問題なかろうし。告げる前にいきなり名を呼んでくるものだから、びっくりしてしまって説明どころではなかったが」
友人のいない麗雪は、同性から名を呼ばれることなど無かったため、突然「麗雪さん」などと言われて舞い上がってしまい、以降、自分がなにを話したかの記憶は曖昧だ。
それでも、冥府の決定について、一獄卒が詳細を知るわけもないことや、再審の日取りは未定で、過ごし方はそちらに委ねられていること、また、なにをしても黙認するから、自由に過ごしてほしいことは伝えた――はずだ。
「あやつ、可愛い顔をしながら、相当きつい性格のようだ。睨まれたもの。正直、もう一度会いに行くのは気が進まぬ……が、放っておくと、飢える……よなぁ……」
麗雪は物憂げに再び溜息を落とした。自らも日々ひもじさを噛み締めているだけに、「飢える」という状況は彼女にとって大変深刻に映るようだ。
「寂れているとはいえ、地獄。今頃あやつも、奈落の闇に震えているやもしれんし……女に飢えた亡者どもに襲われているやもしれんし……やはり、今一度行くしか、ないかの……」
生来の気弱さと善良さの間で懊悩しながら、麗雪はぶつぶつと呟いていたが、一方の豪炎はふと、なにかに気付いたかのように視線を上げた。
「――さて、どうだろう」
「む?」
麗雪が振り向く。
豪炎は、不思議そうに黒瞳を細め、じっと天井を――その上に広がっているだろう地獄を見つめた。
「なにやら獄から、妙な音と――いい匂いが、すると思わないか?」
***
みのりの指揮のもと、拷問器具を使って大量調理をする、と聞いたときの繁と真の反応は、正反対に分かれた。
「いやいやいや……料理音痴のみのりちゃんが、人に指示しながら料理するなんて、できるわけないでしょ」
繁はもちろん反対。
そもそも彼は、みのりには妙な行動をせず早々に地上に帰ってほしいと思っているようなので、この反応は想定内だ。
「へえ、獄卒どもの道具を使って料理か。粋じゃねえか」
そして真はもちろん賛成。
もともとの性格がそうなのか、ちまちま包丁代わりの刀を振るうよりも、ばーん! と杵で叩き潰す、という発想に惹かれたらしい。
彼は即座に子分たちに声を掛け、わずかな時間で庫内の器具たちを、獄内の広い場所に並べてしまった。
あっという間に、「地獄で料理計画」が実現フェーズだ。
「おい、てめえら! 今からA班、B班、K班の三つに分かれて、人魂化するぞ! 弱火のときはA班だけ、中火のときはA、B班、強火のときは全班着火だ、わかったか!」
親切に、人魂の火加減調整まで段取りを付けてくれている。
「し、真さん、そこまで皆さんにご迷惑をお掛けするわけには……! っていうか三班目、CじゃなくてKなんですか!?」
繁は制止に突っ込みにと忙しい。
彼は、みのりに向き直ると、がっとその肩を掴んだ。
「みのりちゃん、今からでも考え直そう。拷問器具を使って料理だなんて!」
「どうして? あ、衛生面? 拷問器具は三途の川の水できれいに煮沸消毒してもらったし、まったく問題ないわ」
「いやどちらかといえば倫理的な問題がね!? それにみのりちゃん、レシピを知ってるとは言うけど、実践経験はゼロだし、基礎的な知識が抜けてるでしょ!? 料理のさしすせそとか知ってるの!?」
「知らないけど、想像は付くわよ。砂糖・塩・酢……ええと、背脂・ソイソースとかでしょ」
「ほらー!」
とうとう繁が両手で顔を覆うと、黙ってやり取りを聞いていた真がおもむろにやって来て、繁の肩にぽんと手を置いた。
「繁坊……おまえ、やる前からできねえ、できねえって否定すんのはよ、大人の風上にも置けねえ行為だぜ」
「真さん……」
「嬢ちゃんは、意趣返しってえのもあるが、あんたのために――生き延びるために、料理をしようってわけだろ? 心配する親心もわかるが、ここは信じてやってみようや」
まさに親分肌の貫禄に、繁が眉を下げる。
真は励ますように、強く肩を張り、にかっと笑った。
「料理のさしすせそなんざ、知らなくてもいい。人間、勝利のために必要なものは、いつだってたった三つ。友情・努力・勝利だぜ!」
「『勝利』が結果と要件で重複してますけど!?」
繁が突っ込むも、真はみのりに向き直り、ぐっと親指を立てた。
「嬢ちゃん。あんたには俺たちがいる。みんな暇を持て余してるんで、かわいこちゃんに協力したくてうずうずしてんだ。あんたが包丁すら握れねえってんなら、俺たちを包丁代わりに役立ててくれ」
「真さん……」
みのりが大きな瞳を見開き、真を見つめる。
それから彼女は、はつらつとした笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。
「ありがとう。やってみるわ。――では、改めて皆さんにお願いします」
そうして、くるりと踵を返し、じっくりと周囲を見渡す。
既に段取りは念入りに検証し、材料の必要数も算出しておいた。
あとは大人数が混乱なく調理できるよう、しっかりと指示を飛ばすだけだ。
「まずは、玉ねぎのみじん切りを。これは、炒めて甘みを引き出した玉ねぎを肉だねに混ぜることで、ジューシーさを実現するための、大変重要なステップです。玉ねぎと肉は同量。相当な重量です。そこで――」
彼女はもはや、軍事作戦の指揮官のような、きっぱりとした口調で言い放った。
「肉のミンチ作業に使用予定の『粉砕碓』を玉ねぎにも転用し、迅速な木っ端みじんを実現します!」
「おおおおおおお!」
柔軟な発想と断固たる宣言に、一同がなぜか奮い立って拳を上げる。
ただ一人、繁だけが、
「木っ端みじんじゃなくて、みじん切りだからね!?」
と叫んでいたが、誰もがそれをさらりと躱し、素早く調理に着手した。
玉ねぎの皮をむいてよく洗い、へたと根を落として、罪人を砕くための巨大な碓にぎっしり並べる。
飛び散るであろう破片を受け取るための巨大布を、ぐるりと碓を取り囲むようにして掲げ持ち、準備は完成だ。
「友情おおおお!」
みのりがさっと片手を挙げると、杵を掴んだ死者たちが、その重量に堪えながら、ふわりと浮かび上がる。
「努力うううう!」
次いで、碓の周りで布を掲げ持った死者たちに合図すると、彼らは杵チームとの完璧なコールアンドレスポンスを披露しながら、布を掴んだ体を反らす。
「勝利ィイイイ!」
――ど……っ!
叫びとともに、重低音を轟かせて杵が落下する。
一同が再び杵を引き上げると、碓の中には、大量の玉ねぎが5ミリ角程度の破片と化して、こんもりと鎮座していた。
「なにそれ!?」
美しすぎる仕上がりに、繁がぎょっと目を見開く。
「こ、この量が一突きで……!」
「なんて均質な仕上がりだ……!」
「これが、地獄の拷問器具マジック……!」
覗き込んだ死者たちも、予想を上回るクオリティに、次々と興奮の声を上げた。
みのりもまた、仕上がった玉ねぎをひと掬いし、間違いなくみじん切りになっていることを確認して感嘆の溜息を漏らす。
それからくるっと繁を振り返り、満面の笑みを浮かべた。
「繁さん。料理って――意外に簡単ね!」
「そうじゃないでしょ!?」
繁はすかさず叫んだが、みのりは気にしない。
最初が肝心とはよく言ったもので、勢いづいた彼女は、次々に死者たちに指示を飛ばした。
「B班、碓内部に残った玉ねぎを除去したのち、塊肉を充填! K班は玉ねぎを速やかに釜に投入し、加熱! 目標カラー、きつね色!」
「おおおお!」
すっかり楽しくなってきた死者たちもまた、拳を上げてそれに応える。
見る間に、肉がミンチにされ――ふんわりと空気を含んだ最高の仕上がりだった――、片やでは玉ねぎがしんなりと炒められ――罪人を焼くための鉄板と三尺三寸箸を利用した――、それぞれ倉庫内に運ばれ冷却された。
「次、ミンチ肉に混ぜる塩の用意に、つなぎの確保。つなぎは予め、卵液とパン粉を合わせてから肉に加えることで、均質な攪拌を図ります。同時に衣を用意。玉ねぎを混ぜた肉だねはかなり柔らかく脆いと予想されるので、卵液と小麦粉は混ぜておいて、衣付けの作業を一回省略し――」
いつの間にか高台のような場所に立ったみのりは、冷静かつ端的に指示を続ける。
その、あまりの的確さに、繁は目を白黒させた。
「み、みのりちゃん、もしかして実は、料理が得意だったの……?」
「全然」
みのりは清々しいほどにきっぱりと否定した。
「相変わらず、みじん切りをしろと言われてもできないわ。包丁も両手でしか握れない。でも、自分ではできなくても、段取りを考えて人に指示することはできる。そういうことって、ない?」
「ないよ!」
生まれついての指揮官のような発言に、さすがに繁が顔を引きつらせる。
その傍らでは、真が顎をしゃくりながら、「はー……俺が生きてる間に、嬢ちゃんがうちの組に来てくれてりゃなぁ……」と、しみじみ唸り声を上げていた。
そうこうしているうちに、調理は順調に進んでいく。
巨釜いっぱいのミンチ肉に塩を加え、白く粘りが出るまでしっかり捏ね、そこにつなぎと炒めた玉ねぎを投入。
ウスターソースと思しきものも発掘したので、それも混ぜて味を調えてゆく。
次に登場するのが、投石器だ。
拷問器具、というよりは単純に武器であるそれを――庫内には、獄卒の趣味なのか、様々な武器が格納されていた――、二台向かい合わせにセットし、息を合わせて肉だねをキャッチボールする。
たちまち、肉だねの空気抜きが完了した。
次に、それをボール状に形を整えていく。
地獄の釜の大きさに合わせて、大人の頭くらいの大きさだ。
柔らかな肉だねが崩れぬよう、卵液はくぐらせる代わりに上から塗布。
さらに衣を上から粉雪のようにまとわせて――
「さあ。ここからが正念場。じっくり火を通したいので、油は冷たいうちから投入します」
油を熱しきらないうちに投入を、というのは、実は繁の提案だった。
これだけの大きな、かつ大量のメンチカツ。
下手に煮えたぎったところに落としては、油は跳ねるどころか津波を起こし、大やけどしてしまう。
重厚な肉だねにまんべんなく熱を回すためにも、じっくりと加熱すべしと説いたのである。
調理そのものには反対ながら、みのりの安全確保のためには、口を出さざるをえないらしい。
いよいよ揚げ、という晴れ舞台を前に、一同がごくりと息を呑む。
みのりもまた神妙な顔で頷き、指揮を執るべくすっと片手を挙げた。
「友情……」
そっと、巨釜の中に、白い衣をまとった肉だねが、まるで油と抱擁するかのごとく次々と滑り込んでいく。
「努力……!」
死者たちは素早く釜の下に集合し、人魂の姿に転じると、一斉に火力を上げた。
八十度、百度……百六十度。
油が徐々に熱されて、とうとう揚げ物の適温に到達する。
肉だねから離れた衣が時折ふわりと釜内を舞い、しゅわしゅわと泡を帯びながら顔を出した。
衣全体が色づいてきたら、ころころとひっくり返し。
弾けるような音が響き出したら、心ばかり火力を弱め。
そうしてとうとう、
「――勝利ィイイイイイ!」
こんがりときつね色に染まった、まん丸のメンチカツが、出来上がった。