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2.地獄へ(2)

 ぎこちなく周囲を見回したその時、たしかにみのりは混乱していた。


 闇のような黒木と、血のような朱塗りの柱を基調とした空間。

 息をのむほど高い天井には巨大な梁が渡され、壁沿いにはずらりと紅い灯篭が並ぶ。


 居室の最奥、ひな壇の最上段には、玉座と思しき巨大な椅子。

 そこに、見慣れぬ衣服をまとった髭面の男性が腰かけている。


 そして――広々とした空間には、みのりたちを取り囲むようにして、おびただしい数の異形の者どもが、輪を作っていた。


 頭が二つある獅子のような生き物、全身に目玉を付けた巨大な男。人の顔をした蜘蛛に蛇。

 いや、妖怪じみたそれらとは別に、一見した限りでは人の姿をした者たちも多くいる。


 たとえば、今みのりのすぐ傍で剣に手をかけている男や、花魁のような恰好をした美女がそれだ。

 ただし彼らはなぜだか、不吉な感じのする動物の面を額にずらして付けており、しかもその横からは角が生えていた。


 唯一、少し離れた場所にたたずむ男性――こちらも相当な美丈夫だ――は、帯剣もせず、奇妙な面も付けていないが、やはり頭上には一本角が生えている。


 直前に猿たちと交わした会話を照合するに、今みのりたちがどの場にいるのか、答えは明らかだった。


『まさか……地獄……? あそこに座ってるのは……閻魔、大王……?』

「まさかじゃないよね! まんま地獄だよね! ひっ、今、人面蛇と目が合ったんだけど! み、みのりちゃん、僕の後ろに下がって!」


 横では、みのり以上に繁がひいひい言って蒼褪めている。

 酔っ払いが、自分以上の酔っ払いを見ると酔いが醒めるのと同じ原理で、みのりは不意に冷静さを取り戻した。


『……きたこれ』

「はっ!?」


 いや、冷静さを取り戻したと見せかけて、一気に興奮状態にまで駆け上がった。


 地獄。

 地獄だ。

 閻魔大王に遭遇したのだ。


 これはとりもなおさず、繁の地獄行きについて直訴するチャンスではないか。

 頬が紅潮するのが自分でわかる。

 訃報を受けてからこちら、やけに思考がぼんやりとしていたのが、みるみる素早く巡りはじめた。


『――あの』


 姿勢を正し、ひそかにこぶしを握ると、みのりは凛とした声で切り出した。


『初にお目にかかります。閻魔大王様とお見受けします。私は、大沢みのり。こちらの男性の縁者です。彼が亡くなった際、枕元に現れた猿が、彼を地獄に連れていくというので、信じられず抗議したところ、突然、火車ごと床が崩れてこの場にやってきました』


 あくまで毅然とした態度で臨むことだ。

 こちらに分があり、理があるのだと思わせること。当然のことを告げているだけだと思わせること。

 みのりは、いかにも冷静に、周囲を見回しさえした。


 髭面の閻魔王と思しき男――彼は、玉座でのけぞったまま、少々焦ったようにこちらを見ている。

 どうやら、あまり威厳だとか知性だとかは感じさせないタイプのようだ。


 周囲を固める異形のものたちは、好奇心を隠さぬ様子で耳を傾けている。

 恐ろしい姿かたちのものばかりだが、みのりは怯えない。

 こいつらを圧倒すれば、繁の地獄行きは覆せるのだ。オーケー、ぶっ倒す。


 みのりは『そういうわけで』と、笑みさえ浮かべて続けた。


『我々は甚大な被害を負いました。賠償を要求します。彼の判決内容を早急に訂正、具体的には地獄行きを即刻取りやめてください』

「ええええっ!?」


 突然の不遜な言いがかりに、当の本人しげがぎょっとしているが、みのりは取り合わなかった。


 お邪魔してすみません、などとは言わない。崩落の責任をこちらが負うなんてもってのほかだ。

 下手に出て通用する相手とは限らない。

 ならば最初は強く出て、こちらの勢いに呑まれてくれたら儲けものである。


「ちょ、ちょっとみのりちゃん、それはさすがに……」

『そうよね、地獄行きを取り止めるだけじゃだめよね。生き返りを目指そう』

「いやいやいやいや!」


 奥床しい養父は、みのりの無茶ぶりに腰が引けた様子で叫んでいる。


 そういえば、先程まで奇妙に反響していた彼の声は、いつの間にかきちんとした肉声として聞こえるし、透き通っていた体は、青白い燐光をまとってはいるものの、質量や感触を取り戻している。

 引き換え、自分の声はやけに頼りなく聞こえるし、実は先ほどから、体から力が抜けはじめていた。

 気力的には燃え盛るくらいの勢いなのだが、どうも息苦しい。


 やはりここは死者の世界――死者のほうが「あるべき存在」となる世界なのだなと、みのりは頭の片隅でそんなことを考えた。


 おそらく、あまり時間はない。

 くたりと崩れそうになってきた膝を叱咤し、表面上はあくまで平然と、みのりは閻魔を見つめてみせた。


『なんとか仰ったらいかがですか。閻魔様というのは、地獄を統べる神様なのでしょう。こんな失態を犯していいはずがないし、同時に、私たちの問題なんていくらでも、瞬時に解決できる力をお持ちのはず。そうでしょう?』


 迫って、落として、また上げて。

 自身の持てる説得の技術を総動員して、閻魔に詰め寄る。


 幸い彼は、知恵の回りの悪そうな顔におどおどとした表情を浮かべはじめた。統率力のある王というわけではないのだろう。


 押せばいける、と踏んで、みのりは一歩踏み出した。


『私の言っていることは伝わりますよね? 罪無くして地獄に落とされてしまった私と、こちらの彼を、速やかに地上に――』

「それはおかしな話だよね?」


 だが、滑らかなみのりの主張は、ひやりとした水のような声によって遮られた。

 ぱっと振り向く。


 視線の先にいたのは、大陸風の衣装を緩く着崩した、一本角の美貌の男であった。

 彼は、いっそ閻魔より余程この場の主にふさわしいかのような迫力で、小さく首を傾げた。


「こちらからすれば、君はこの神聖な場の天井を破壊してやってきた闖入者だし、厳正な閻魔王の裁きに、分不相応にも意義を唱える罪人だ。こちらの常識に照らせば、この場で二人ともども地獄送りにしてやるところだよ」


 ちなみにここはあくまで死者を裁く「冥府」であって、「地獄」とは別物だから。

 美貌の鬼はそんなことを付け足して、馬鹿にするように笑みを浮かべる。


 彼は優雅な足取りでみのりに近づき、聞き分けの悪い子どもにするように、ぐいと顎を持ち上げた。


「分も理も弁えない小娘が、生意気をお言いでないよ。宴の席に免じて、そこの亡者は僕が適切な獄に送り届けてやるから、君はさっさとお帰り」


 至近距離から見つめられ、ぐ、と息を呑む。

 それは、鬼の整った容貌に気圧されたのと、それ以上に、相手の手強さを直感したからだった。


『……そんなことを言っても、非があるのはそちらで――』

「謂れもない罪をこちらに押し付けて、吹っかけようとしてるだけだよね? だって肝心の本人は、さっきからやたら恐縮してこちらを伺ってるよ」

『あれは、彼がそういう奥ゆかしい性格なだけで……!』


 だめだ。こちらの目論見が完全に見透かされている。

 いよいよ全身がぐらつき、それに伴い思考がまとまらなくなってきたのを感じながら、みのりは短く息を吐き出し、拳を握り直した。


『……取引は?』


 路線転換だ。


『取引の余地はありますか? お金とか、寿命とか。地獄の鬼……いえ、冥府の方々が何を好むかは知りませんけど』

「なんだって?」

『言ってみてください。差し出します。だから、彼の地獄行きを取り消してください』


 相手の指を振り払う。逆に、眉をひそめた彼の腕を掴んで、みのりは言い募った。


『だって、絶対におかしいです。彼が、地獄に落とされるような罪を犯すはずがない。優しくて気が利いて料理が上手でゆるキャラ的な外見が絶妙な抜け感を醸し出してる、嫁に欲しいイケオジナンバーワンの彼が、地獄行きになるはずがありません』

「み、みのりちゃん、評価が個人の主観すぎて、僕本人ですらいたたまれないんだけど――」

『なにかの間違いです。絶対に。なのに、それを覆せないんですか? お役所的な事情で? それとも、神様が誤るはずがないから? だとしたら、もうそれでもいい。名誉だなんだはそちらに譲りますから、取引として、彼の地獄行きを取り消してください』


 徐々に息が上がってくる。

 手足の先が痺れてきた。


 合理的な説明ができるわけではないが、直感する。

 恐らく冥府――死者の世界が、生者であるみのりの体を拒絶しているのだ。


「…………? みのりちゃん、なんか顔色が――」

『どうか、お願いします。私にできることならなんでも――』


 しますから、と口にしかけて、しかし言葉を切った。

 対峙した相手が、これまでとは比べ物にならない冷ややかな空気をまとい出したからだった。


「……へえ?」


 彼は、指先が白くなるほど握り締めていたみのりの手を、いとも簡単に振りほどく。

 それから、「なんでも、ねえ?」と呟き、鉄錆のような色の瞳をすうっと細めた。


「舌は簡単に嘘をつく。一回その舌、引っこ抜いてやろうか?」

『………………っ』


 底知れぬ迫力に、思わずみのりが顎を引く。美貌の鬼は、薄い唇を皮肉げに歪めた。


「たとえばその可愛い顔を切り刻んだり、無垢な体を犯し尽くしたり。なにしろここにいるのは、血を好む野蛮な連中だ、そうした行為を躊躇う者はいない。だが、いざそうなれば、君は逃げ出すんだろう? なんでも、だなんてご大層に。取引を持ちかけるなら、本気で自分の身を差し出してみせる、そのくらいの覚悟をしてからにしてくれるかな」


 男の声はむしろ淡々としている。

 が、だからこそ、聞く者を怯えさせる凄みがあった。


 硬直したみのりを鼻で笑い、鬼は「でも」と続ける。


「その愚かさゆえの大胆さは、なかなか新鮮だよね。そうだなあ、……差し出す繋がりで、君、僕の嫁になる?」

『……………………は?』


 激しく斜め上の軌道を描いた展開に、みのりの口がぽかんと開いた。


「これでも僕は、冥府ここでそれなりの権限を持っている。かつ、自分のものは大切にする男だよ。君が僕のものになるのなら、便宜を図ってあげる。どう?」

『…………』


 みのりはなんとも言えない微妙な顔つきになった。

 この男の態度や前後の文脈から判断する限り、そこは「嫁」よりも、「ペット」だとか「玩具」といった単語がふさわしいと理解できたからだった。


『……ちなみに、便宜というのは具体的に……?』


 とはいえ、ちらつかされた交換条件は気になる。

 詳細を聞き出そうとしたが、しかしそれは、繁によって遮られた。


「ちょっとみのりちゃん、なに前向きに検討してるの!? ない! ないから! 僕のために鬼に嫁入りとか、ない!」


 そうして彼は、きっぱりと申し出は断りつつも、鬼に向かってぺこぺこと頭を下げた。


「いやもうほんと、うちの子が変なことを言い出しまして、大変申し訳ない! いやあの、弁償だ、取引だっていうのはですね、本気じゃないんですよ、えーっとあれだ、フカシ! フカシてるだけなんですこの子!」


 彼はそこまでを早口で捲し立てると、揉み手をせんばかりに相手に擦り寄った。


「すべて、あなた様が最初に仰ったとおりですよ。あなたが正しい。私は地獄、この子は地上にさっさと帰る。それで、全然、全く、問題ございませんので!」


 それを聞いて、みのりは反射的に顔を上げた。

 冷や汗の滲む体で、素早く踵を返す。


 周囲がその意図を訪ねてくるよりも早く、彼女は目的を果たした。

 即ち。


 ――シュッ!


 舞台と思しき空間に転がっていた、大振りの剣。

 それを拾い上げ、躊躇いもなく、自身の左手首に引き当てたのである。


「…………!」


 勢いよく吹き出る血飛沫に、さしもの鬼たちも驚きを露わにする。

 みのりはどこまでも冷静に、辺りの床に転がっていた大きな酒杯を蹴り倒し、中味を空にすると、椀のようになった高台裏に、流れ続ける血を注ぎ入れた。


『……これで、いかがですか?』


 耳鳴りがする。

 視界が狭まる。

 しかし、みのりはそれを気取らせぬよう、美貌の男に向かって唇を引き上げてみせた。


『血がお好みと、聞いたので。これだけ差し出せば(・・・・・)、足ります?』

「み、みのりちゃん! 血……! 血を、止めなきゃ……!」


 横で繁が動転している気配がする。が、取り合わない。

 正確に言えば、取り合うだけの余裕はなかった。


『いくらでもあげます。嘘じゃない。私の体に流れる血を全部あげたっていい。だから――』


 息が上がってきた。

 全身が急激な寒さと震えに襲われ、呂律すら危うかった。


「みのりちゃん……!」

『だから、この人は返して。さも、なければ……』


 繁が珍しく泣きそうになっている。手首を掴もうとする彼を振り払い、代わりに、目の前の男の胸倉を掴み上げた。


『あんたを地獄に落としてやるから……!』


 それこそ血を吐くようにして告げると、相手は目を見開き、それからふっと笑ったようだった。


「それは、面白いね」


 ああ、そうだ。

 相手は鬼、むしろ地獄の番人だ。


 なんだって自分は、そんな脅し文句しか思い付かなかったのか――。

 それが、みのりが意識を失う直前に考えたことだった。


 道服の合わせを掴んでいた手が、ぱたりと落ちる。

 そのままずるずると床に倒れ込むと、繁はいよいよ切羽詰まった叫び声を上げた。


「みのりちゃん……! みのりちゃん!」

「必死だねえ。死んじゃいないよ――今はまだ、ね」


 宗は乱れた襟元を直しながら小さく笑う。

 それから、布を介して指に付いた血に気付き、ぺろりとそれを舐めとった。


「……へえ」


 甘いだけの酒を含んだ時とは異なり、嬉しそうに目を見開く。

 おずおずとした声が掛かったのは、その時だった。


「して……長官よ。この事態、どう始末をつけようかの?」


 玉座で縮こまっていた、閻魔王である。

 彼は、威厳を示そうと顎を上げ、しかし視線は縋るようにして宗を捉える。


 ややこしいことはすべて他人任せにする姿勢が、窺えるような態度だった。

 宗はひっそりと唇の片端を持ち上げると、肩を竦めた。


「通常ならば、神聖なる冥域を侵した罪を問うところですが……この娘、勝手に血盟盃の儀を整えてしまいましたからねえ」

「……む?」

「自らの血を逆盃さかさかずきに落とし、その者の名と血をかけて、相手に取引の履行を迫る儀式です。……偉大なる閻魔王陛下におかれては、もちろんご存知とは思いますが」


 実際にみのりの血を口にしたのは、閻魔ではなく宗であったのだが、ちらりと視線を流してみせれば、閻魔はわかりやすく居住まいを正した。


「そ、そうか。そうであるな。では、なんだ、この娘の要望を叶えればよいということか。ええと、地上への返還と、そこな死者の反魂――」

「お待ちを」


 反魂、などという重大事を軽く口にした王を、宗は素早く窘める。

 軽率な発言に動揺した鬼たちを視線でいなし、有能な長官はまず王に問うた。


「曲がりなりにも、陛下の裁きによって、この男の地獄行きはすでに決まったのです。だから三猿鬼が迎えに行った。陛下とて、ご自身がそう裁いたことは覚えておいででしょう?」

「うん……? うん、まあ……」


 曖昧な返答からは、彼が裁きの内容など記憶していないことが見て取れた。

 沙汰を記憶するどころか、そもそも、適当に印璽いんじを振り下ろして裁いているだけなのだ。


 宗はわずかに片方の眉を上げてみせたが、次にはまた淡々とした表情で告げた。


「冥府の一角を統べる陛下の、それも既になされた下知を覆すには、娘一人の血ではあまりに不十分。即座に判決を改めるのではなく、十王裁きのやりなおし、という形が妥当でしょう」

「そ、そうか……そうだな。いやだが、ほかの十王に迷惑を掛けるのも忍びない。わしの審理のみをやり直すとしよう」

「――承知しました。再審の日取りは、追って調整するということで」


 宗が告げると、閻魔王は「うむ」と頷く。

 いかにも、目先の問題が先送りにされたことを安堵している様子だった。


「あーと、それで……それまで、こやつらをどこに置こうかの?」

「原則に照らすなら、二人まとめて獄送りでしょうねえ。既に地獄行きの沙汰が下っている以上、それに反して冥府に留まっていては、その男の魂は言霊に縛られて消滅してしまう。かといって男だけ地獄に置いたのでは、この娘が納得しないでしょう」

「うむ。そうだな」


 先ほどから自らはなにも考えていないというのに、閻魔は重々しく相槌を打つ。

 それを承認と取って、宗は次々と指示を飛ばした。


「では、――東第十六小地獄。獄卒の豪炎、麗雪は揃っているね? 君たちはこの二人を運ぶように。娘の方は生者だから、手出しはご法度だよ。まあもちろん、放置(・・)の結果死んでしまっても、それは君たちの責ではないけれど。瑠璃と玻璃は、ほかの倶生神と一緒にこの場を片付けてくれ。それから――」


 最初に呼ばれた二人は、先ほどみのりが目にした、剣を帯びた大男と、花魁のような恰好をした妖艶な美女だ。

 それぞれ、木彫りの馬と牛の面を額に付け、二本の角を生やしている。


 やたら存在感のある二人だったが、周囲からは馬鹿にされているようで、彼らが長官に指名されると見るや、たちまちその場に静かな嘲笑と囁きが広がった。


「東の十六……あのおんぼろ獄か。物置小屋代わりには打ってつけよの」

「あの落ちぶれ馬頭めず牛頭ごずには、その程度のえきがちょうどよかろ」


 およそその場にいる者で、冷笑を浮かべぬ者はない。

 いや、唯一の例外は、みのりの体に縋りつく繁くらいか。

 彼は先ほどから必死の形相で、横たわる娘の手首を握りしめ、血を止めようと躍起になっていた。


「みのりちゃん! みのり……!」

「おい、立て」


 馬頭、と呼ばれた、馬の面を付けた大男が繁の腕を取ろうとするが、瞬時に振り払われる。

 鬼や獄卒への怯えも忘れ、何度もみのりの名を叫び続ける繁であったが――


「うるさいねえ」


 そこに、涼やかな声が響いた。

 宗である。


 彼は、自身の右の人差し指を軽く噛むと、みのりの傍に跪き、その唇をなぞってみせた。

 たちまち、優美な指の辿ったところから、鮮やかな血が伸びてゆく。

 まるで紅を差したようになったみのりを見下ろし、彼は薄く微笑んだ。


「返盃だ」


 未だ血を流すみのりの手首を持ち上げ、鬼の血を塗られた彼女自身の唇に押し当ててやる。

 すると、勢いよく溢れていた血が、ぴたりと止まった。


「え……!?」

「さあさ、いい加減喚くのはやめて、死者はあるべき場所にさっさと移動してくれないかな。この娘とともにね。それなら文句ないだろう?」


 たった血の一滴で出血を止めてみせた不思議に、繁が呆然としていると、その隙を突いて豪炎と麗雪――馬頭鬼と牛頭鬼が彼らを連行してしまう。

 ようやく元の落ち着き、いや、宴の喧騒を取り戻しだした周囲を見て、宗はふっと溜息をついた。


「やれやれ」

「あの娘のこと、お気に召したという割には、あっさり地獄送りにしてしまいましたのね」


 途端に、傍でずっと成り行きを見守っていた瑠璃が、こっそりと囁きかける。


「血盟約の内容に照らせば、娘と亡者を引き離して、手元に置くこともできたでしょうに」

「うん、まあねえ」


 宗は、自らも席に戻り、優雅に腰を下ろしながら、相槌を打った。


「でも、地獄で人間の娘が無事に過ごせるはずもないじゃない? 向こうからこちらに縋ってくるのを待つのも一興かなと、そう思って」

「まあ、ではやはり、随分なご執心ですのね。宗さまは、無謀なおなごがお好きですの?」


 驚いたように問われ、宗は愉快そうに微笑む。


「無謀さもそうだけどね。あの子、最後まで男の名前を出そうとはしなかったじゃない? 名は命を支配する呪い。それを知っていたわけではないだろうけど、無意識であれ、彼女は僕たちに名を知られないよう立ち回っていた。その勘のよさは、嫌いじゃないよ」

「その割に、自分の名前はあっさり晒していましたけれどね。みのり、ですっけ」

「うん。そこら辺の警戒心の無さは愚かなんだけど、そのちぐはぐした感じが、面白いよね」


 それに、と、形のよい唇をぺろりと舐めて、彼は続けた。


「彼女の血、癖になりそうな美味しさだったからね」

早く物語の本題に辿り着きたいので、今日中にあともう1話投稿します…!

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