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20.地獄の沙汰もメシ次第(3)

 きらきらと輝く光の糸を眺め、宗は告げた。


「君がかつて請うた通り、大沢繁雄は地獄から救済される」

「――……」

「それが君の願いのはずだね。……なのに、なぜそんなに動揺しているの?」


 咄嗟に階下に駆け下りようとしたみのりを、宗は背後からそっと抱きしめる。

 手つきは優し気だったが、みのりがもがいても、腕はびくともしなかった。


「は……離して……――」

「だめ」

「どうしてよ!」

「君が、一緒に付いて行ってしまいそうだから」


 その言葉に、みのりは頬を打たれでもしたように顔を上げた。

 宗は、真剣な顔でこちらを見つめていた。


「君はいつだって、大沢繁雄を助けたいと言っていた。地獄から掬い上げることはできたけれど……本当の君の望みは、彼を生き返らせること。そうだね?」

「…………」

「冗談めかしてはいたけれど、それが本音だろう? ……でも、ごめんね。そういう意味では、僕は君を救えない。亡者を生き返らせることは、できない」


 どこまでも穏やかで――厳しい言葉だった。

 みのりは強張った顔で宗を振り仰ぎ、ぎこちなく笑みを浮かべた。


「……料理が、足りなかったかしら。もう少しだけここに留まって、十王たちの好物をもっともっと、いいえ、地獄中全部に行き渡るくらいの量を作れば――」

「できない」

「なら、血は……っ? ……もう、美紀の名前でもいい、あなたのものになるのでもいい、だから、もう一度、血盟約を結んで――」

「できない」

「なら、……なら、どうしたら……っ?」

「ごめんね、何をしても、どうにもならないんだ。反魂、なんてあの男は簡単に言っていたけれど、天地の定めた最大のことわりが、覆ることがあってはならない」


 徐々に、必死さを滲ませてゆくみのりを、宗は淡々と諭す。


「君は――もう、現世へお帰り」


 そうして片方の腕を離し、それですいと、宙を掻くようなそぶりをした。

 途端に、天井の辺りがぐにゃりと歪む。

 虚ろな穴となったそこからは、光の糸とは真逆の、黒いきざはしが現れた。


「地界樹のきざはしだ。辿れば黄泉路よみじと合わさり、君を落とした瞬間の現世に着く。少しばかり、暗い洞窟の中を進むような時間が続くけど、体感としてはつらくないはずだよ」


 宗が説明してくれるが、あまり耳に入ってこない。

 ようやく両腕を離し、拘束を解いてくれたが、しばしみのりはぼんやりと、天から降りた白い糸と黒い階、その両方を見つめていた。


「――みのりちゃん」


 やがて、階下から声が掛かる。


「降りておいで。……一緒に行こう」


 繁が、真剣な顔でこちらを見ていた。

 みのりはどんな表情を浮かべていいかすらわからぬまま、無言で、玉座から伸びる階段を下りた。


「長官様……じゃなくて、閻魔王様。このたびは、本当にありがとうございました。こんなご挨拶しかできませんが、とても感謝しています」

「いやいや、こちらの不明が原因だしね。丁寧にどうも」


 降りてきたみのりを引き寄せると、繁は深々と頭を下げる。

 先ほど宗が命じたまま、じっと沈黙を守っている周囲の面々や、神妙にやり取りに耳を傾けていた麗雪たちにも、繁はぺこぺこと頭を下げた。


「楽しい宴の時間に、失礼いたしました。獄卒のお二人にも、本当にお世話になって……。麗雪さん、豪炎さん。その……奇妙な出会いだったとはいえ、楽しいひと時をありがとう」

「なにを言う! 私こそ、おまえたちの作る料理で、たらふく腹を満たしてもらった。正直、もっと留まってほしいほどぞ」

「はは……。真さんたちと、こんな形でお別れしてしまうのが心苦しいんだけど……どうかお二人からも、よろしくお伝えください」

「いや。彼らのもとにも糸が降りているだろうから、天界で会えるんじゃないか」


 話しかけられた麗雪や豪炎は、それぞれ応じる。

 ほら、君からも、と背中に手を当てられて、みのりは戸惑いのまま養父を振り仰いだ。


 別れるのか。

 このまま別れてしまえるのか。本当に。


 だが、


「みのり、達者でな。身を慎んで生きるのだぞ。もし悪事を働きたくなったら、うまいこと『おんぼろ地獄』に堕とされる程度で留めるのだぞ。さすれば、私とまた飯を食える」

「いや……別に、無間地獄に堕とされようが、俺はそこに合わせる用意がある」

「ええい、無駄に有能な馬頭鬼め!」


 麗雪たちがあまりにすんなりと、別れを受け入れきった会話をするので、みのりは、顔を歪めざるをえなかった。


「……ええ」


 気の利いた返事など、思い付くはずがない。


「そうするわ……」

「……みのり。あまり気を落とすな。人の寿命の差などわずかなものだ」

「たっぷり生きて、激辛料理の幅を広げて来てくれ」


 心なしか、獄卒たちの声が優しくなる。

 ぽん、と、肩や頭を撫でられ、みのりは俯いた。


「――みのりちゃん」


 最後になって、繁がとうとう話しかけてくる。

 その穏やかな、揺るぎない声を聞いただけで涙が溢れてしまいそうで、みのりはしばらく顔を上げられずにいた。


「…………」

「みのりちゃん、ありがとう。僕のために奔走してくれて。本当に救われちゃったよ。それと、……僕のことを、こんなにも慕ってくれて、ありがとう」


 繁の声はまるで震えない。

 言葉選びにも迷いがない。

 恐らく彼は彼で、みのりが賽の河原に引き離されていた間、ずっと、最期に交わす言葉を考え続けていたのだろう。


 のろのろと顔を上げたみのりと、繁はかつてのように――幼い子どもにするように、少し背をかがめて視線を合わせた。


「ありがとう。ずっと一緒に、楽しく過ごさせてくれて。こんなにもいい子でいてくれて。ありがとう……あの日、僕と出会ってくれて。僕のことを、保護者として選んでくれて」


 目の奥がつんとする。

 みのりは初めて、目の前の人物のことを、激しく詰ってやりたいと思った。


 ひどい。

 どうしてそんなに、身綺麗でいようとするのか。

 美しく締めくくろうとするのか。締めくくってしまえるのか。

 自分は、こんなに取り乱し、うろたえ、感情を激しく波立たせるというのに。


 理想の親になれなかったと詫びるくらいなら、その残酷さの方を、よほど詫びてほしかった。


「――……どうして」


 同じ言葉を、返せればよかった。

 こちらこそと言って、にっこり笑顔を見せるのが、きっと繁の望むことだ。


 けれど、できなかった。


 ありがとうなどという、関係に終止符を打つための言葉を告げる覚悟など、できるはずもなかった。


「どうして……っ、……死んじゃったのよ……っ」


 ひりついていた喉から、ぼろりと声が剥がれ出た。


 繁は死んでしまった。

 交通事故なんかで、あっけなく。

 希薄だったその認識が、今この瞬間ぐうっと体中で膨れ上がり、滑らかに言葉が紡げなかった。

 代わりに、感情だけがごうごうと唸りを立てて渦巻いていた。


「私は……っ」


 もっと一緒にいたかった。

 それだけの言葉が、どうしようもなく震えてしまい、出てこない。


 息が上がりそうになるのを必死で抑え込み、みのりは目の前の人物をただただ強く見据えた。


「私、は……っ」


 大学入学とともに、一人暮らしを始めた。

 それは、年頃の娘と独身の男が、いつまでも同じ屋根の下に暮らしていることについて、一部で噂されていると気付いたためだ。

 繁に迷惑を掛けることなど、ひとかけらだって許したくなかった。


「私は……」


 勉強を頑張って、最難関と呼ばれる大学の奨学金を勝ち取ったのも、ひとえに就職を有利にするためだ。

 すっかり料理上手になった繁が、そのうち小料理屋を始めるのもいいかもしれないなどと言い出したから、その時までに軍資金を貯めねばと思った。

 強気な性格を身に付けたのも、気弱な繁の代わりに、自分が人に指示できるようでないとと考えたため。

 あまり得意ではなかった苦い酒を飲み続け、好みを修正していったのは、ビール好きで焼酎好きの繁と、いつか飲み交わすためだった。


 堂々と、繁の傍にいられる身分を、自分を、勝ち取りたかった。

 そのためだけに、ずっと努力してきたというのに。


 ――なのに。


「…………っ」


 ぽろ、と涙をこぼすと、繁はひどく傷ついた顔をした。


 子犬のような目が、怯んだような色を宿す。

 彼だって、本当は泣きそうなのをこらえているのだと、それで気付いた。

 本当は彼だって、「ありがとう」よりも「ごめんなさい」という言葉で、心の内が溢れかえっているということにも。


 しかし、その気付きは、みのりの怒りを解くというより、覚悟を迫る方向へと作用した。


 繁が、自分のためにあたふたと慌てる姿を見るのが大好きだった。

 けれど――傷付けたいわけではない。


 繁が、大好きで、本当に大切だから、……願わくは幸せに笑っていて欲しいと、みのりだって思うのだ。


(ずるい……)


 痛むほどに、唇を噛み締める。


 なんてずるい。

 こんな大人、こんな男――ああ。やはり、大好きなのだ。


 みのりは大きく鼻を啜ると、溜息で震えを逃した。


「……もう、いいよ」


 涙が混じらぬよう短く告げた言葉は、思いのほか冷たく響いてしまったようだ。

 繁が、打たれたように身を強張らせるのが見える。


 傷付けてしまったと――そして、嫌われてしまったと、思ったのだろう。

 しょんぼりと眉を下げた様子が、あんまりに哀れで、みのりは少しだけ笑った。

 それから、その笑みに力を借りて、ぎゅ、と繁のことを抱き締めた。


「もういい。――もう、行こう」


 もう、行こう。

 その言葉の重さが、繁には伝わるだろうか。


「みのりちゃん……」


 たぶん、伝わっているだろう。

 抱き返す繁の腕は、小刻みに震えていたから。


「繁さん。大好きだよ」


 彼に切り捨てさせる。

 自分はよい親であったろうかという懊悩も。

 少女(みのり)から母親を奪ってしまったなどという、見当違いな罪悪感も。


「繁さんと一緒に過ごせて、本当に……本当に、幸せだった」


 もう、気にしなくていい。

 あなたがずっと大事に抱えてきた、冷えたしこりは、その場に捨ててしまっていい。


 だから、もう行こう。


「繁さん。……ありがとう」


 もう行こう。

 私も行くから、あなたも、ともに。


 ――本当に悲しいことに、行き先は、違うけれども。


 最後に笑顔でも浮かべてやろうと思ったが、さすがにそこまではできなかった。

 涙を隠すように、強く顔を胸元に押し付けていたら、肩口にぽとりと、滴が落ちるのを感じた。


 強く、強く抱き合って、やがて身を離すと、黒い階が待ちくたびれたとでも言うように、ぐんと足元まで伸びてくる。


 繁の前でも、白い糸が存在を強調するかのように、ふわりふわりと輝きを放っていた。


「さて、存分に別れは惜しめたかな?」


 いつだって涼やかな鬼の声。

 むっとする気もするが、今この瞬間は、ありがたい。


「糸を掴めば、大沢繁雄の魂は間違いなく天に届く。君も気を付けてお帰り、みのり。くれぐれも、後ろは振り返らないようにね」


 いつの間にか玉座から降り、すぐそばまでやってきていた宗は、みのりの手を取って、軽く口付けた。


「次に会ったら、本気で口説きに掛かるから、ひとまず現世にお帰りよ。あっけないほど短い時間だ。大切にお過ごし」

「……次に会う時には、きっと、皺くちゃのお婆さんだわ」

「きっとかわいいだろうね」


 精いっぱいの強がりは、余裕の笑みで流される。

 みのりは小さく「……ありがとう」と呟き、黒い階へと向き直った。


「みのり、達者でな。現世には粉砕碓など無いから、自力で精進するのだぞ」

「落ちるなら、おんぼろ地獄か無間地獄で頼むぞ」

「みのりちゃん。……元気で」


 麗雪が、豪炎が、そして繁が。

 心の籠もった顔で、声で、見送ってくれる。

 自分の姿が消えるまで、繁はそこで立ち尽くすのだろうと容易に想像できたから、みのりはとうとう、最初の一段を踏み出した。


 振り返るなという宗の忠言があったので、顔はまっすぐ、黒い階を睨み付ける。

 そうでもしないと、足に力が入らなかったので、ちょうどよかった。


 昇って、昇って。

 ただひたすら、上へ昇って。

 一体どういう構造なのか、途中で道が平らになっても、みのりは暗闇の中を壁伝いに歩きつづけた。


 数時間なのか、それとも数日なのか。

 いや、それともたった数分なのか。

 それすらもわからぬまま歩いていたら、突然目の前が明るくなる。


 オレンジ色の灯り。

 あ、と思った時にはもう、みのりはその場に座り込んでいた。


 柔らかな色合いに調節された照明に、大量の白い花。

 ずらりと並んだ無人の椅子に――それから棺。


 みのりは、あの日の葬儀会場にいた。


 あの日、あの時のままの、服装に、姿勢、位置。

 繁の棺の傍で、ぼんやりと座っていたあの瞬間に、戻ってきたのだ。


「…………」


 目の前の白い棺に、視線を移す。

 観音開きになった小窓の中で、繁は目を閉じていた。


 以前は、寝ているだけに見えた、その姿。

 けれど、今はもう――そうではないとわかってしまう。


 ぼんやりと耳の辺りを覆っていた膜のようなものが、すうと無くなった気がした。

 幼い声が聞こえたのは、だからその瞬間だった。


「――みのりちゃん」


 のろのろと振り向く。

 控え室との仕切り扉をよいしょと押して、こちらにやって来たのは、繁の兄の、三歳になる孫娘だ。

 繁と兄家族は、家ぐるみで仲良く付き合っていたので、当然彼女のことも、みのりはよく知っていた。


「ああ……香菜ちゃん」


 浮かべるべき表情を探す。

 いつも自分は、彼女に対してどんな顔で、どんな口調で接していただろうか。


 だが、それを思い出す前に、相手――香菜は、とことこと小さな足を動かして、目の前までやって来てしまった。


「みのりちゃん。これ、どうぞ」

「え……?」


 香菜は、ぷくりとした小さな手で、なにかを差し出す。

 見ればそれは、ラップに包まれたおにぎりだった。


「みのりちゃん、泣いてるから」

「え?」

「おなかがすいたんでしょ? だから、かなちゃんの、あげる」


 泣くということはつまり、空腹なのだろうという香菜の思考回路も、自分が涙を流しているという事実も、すぐには呑み込めなかった。


 香菜は誇らしげに、「あっためてあるよ。おいしいよ」と言うと、みのりの手におにぎりを押し付けた。


「めしあがれ」


 周囲の大人のものだろうそれを真似た言葉と、掌にじわりと広がった熱とで――もう、だめだった。


「――…………」


 みのりは、なにか礼の言葉を言わねばと、唇を開きかけ、すぐにそれを引き結んだ。

 喉の奥で、胸の内で、一気に膨らみ、荒れ狂っている感情を、何度も何度も腹の奥へと飲み下そうとした。


 だが、できなかった。


「――……ぅ」


 おにぎりを包み持ったままの両手で、口を覆う。

 つるりとしたラップの感触と、柔らかい熱を唇に感じて、ますます感情が膨れ上がった。


「……ぅ、あ……っ」


 温かいおにぎり。

 温かい自分。

 ――生きている自分。


 ひやりとした棺。

 閉じられた瞼。

 動かない繁。


 彼は、――死んでしまった。


「ぅああ、あああああああ!」


 獣じみた声が出た。

 涙が後から後から溢れた。


 あまりに激しい嗚咽に叫びが波打つ。

 香菜はぎょっとして飛び跳ね、それから慌てたように、みのりに小さな手を伸ばした。


「あつかった? だいじょうぶ? ごめんね、みのりちゃん、だいじょうぶ?」


 懸命に、原因を探って慰めようとしてくれている。

 それがわかってなお、みのりは泣き止むことができなかった。


「あああ、ああ……っ、……ぅああああああ!」


 熱かったから泣いているわけでは、もちろんない。

 ただ――温かかったから。

 だから涙が止まらない。


 温かな飯。命を繋ぐ食べ物。

 みのりは飯を食み、体に熱を巡らせ、生きてゆくというのに。


 ――彼は、死んでしまった。


「ああああああああ!」


 小さな手が、恐る恐る頭を撫でている。

 驚いた大人たちが、控え室から飛び出してくる。


 それでもみのりは、おにぎりを握りしめ、体を棺に向かって二つ折りにしたまま、激しく泣きつづけた。

次話、エピローグとなります。

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