18.地獄の沙汰もメシ次第(1)
冥府とは死を司る神聖な場所。
対して地獄とは、亡者の怨念や怨嗟が淀む、邪悪で穢れた場所だ。
鬼神という言葉がある通り、鬼とは神にも通ずる存在だが、天界の神々が純粋な美しさを好むのとは裏腹に、冥界の鬼は、清濁が入り混じった複雑な美を愉しむ。
宗のひねくれた好みも、だからまあ、鬼の宿命なのだと言えなくもなかった。
「今日も今日とて、無粋だねえ……」
そんな宗は、酒杯を片手に、冷めた目で眼前の光景を見つめる。
少し離れた玉座、そしてその下に広がる広間では、相も変わらず爛れた宴が催されていた。
酒臭い喧騒。
飽き飽きするような性と暴力。
甘ったるいだけの酒。
宗とて鬼の端くれなので、厳粛な天神のように、「神域の一つである冥府に、穢れた地獄の流儀を持ち込むなど」といった観点で憤ることはない。
穢れも下賤も好物だ。
ただ、この宴はただ爛れているだけで、なんの奥深さもない。
それが問題だった。
矮小さや、混沌を抱えながらも、それでもはっとするような意志や矜持を見せる瞬間。
その美しさが、鬼の至上とするものなのに。
(その点、あの一角は、逆にちょっと強すぎる意志で溢れかえってるかな)
宗はちらりと座敷の片隅に視線を向け、ひっそりと笑みを浮かべる。
そこには、粗末な茣蓙に座らされた繁とみのり、そして彼らの前で金棒を交差させた麗雪と豪炎の姿があった。
繁は顔を腫らし、白装束も泥で汚し、いかにもみすぼらしい出で立ちである。
傍らで彼を守るようにして座るみのりは、外傷こそないものの、顔は憔悴しきって、いかにも哀れを感じさせた。
対して獄卒たちは険しい顔で立ち尽くしている。
となれば、一見する限りでは、まさに囚人と看守といった立ち位置だが――、
「おお、怖い。皆して僕のことを、そんな射殺すような目で見てこなくてもねえ」
繁を除いた三人が、一様にぎろりと睨みつけてくるので、宗はやれやれと肩を竦めた。
「あら。私は、彼らの気持ちがよくわかりますわ」
と、そこに刺々しい少女の声が降ってくる。
振り返れば、今日もお酌係に回った瑠璃が、仏頂面で酒瓶を運んできたところだった。
「本来なら、血盟約でもぎ取った再審がなされるべき日。それを、言いがかりのような理由で反故にされ、こんなどんちゃん騒ぎを見せつけられ、しかも、大切な相手を傷付けられるだなんて」
胃袋を掴まれたか、閻魔の無精ぶりにいよいよ忠誠心を失ったか、あるいはその両方か。
つい先日までみのりを疎んじていたはずの彼女は、宗のことを睨み付けた。
「みのりが、養父のことを誰より大切に思っているのは周知の事実。獄卒たちも、刺激に富んだ彼らを、ことのほか気に入っていることも、ご存知のはずですわ。だというのに、その獄卒に、繁のことを殴らせるなど、悪趣味極まります」
「いやだなあ。『殴ってくれ』と獄卒たちに頼み込んだのは、繁本人だよ」
「ええ。あなた様が、『仮処分とはいえ地獄にいたのに、随分と身ぎれいなことだ。反省の色もないと閻魔の心証を悪くすれば、娘も地獄送りになってしまうかもねえ』などと脅したからですわね」
「僕はあくまで、可能性を指摘しただけでしょ」
宗は悪びれなかった。
そう、もうすぐ沙汰の時間だからと迎えに来た際、宗はその手のことを告げたのだ。
みのりを引き合いに出された繁は、目に見えて青褪め、とっさに周囲の拷問器具を見回した。
が、人を傷つけるどころか、快適にする程度の威力しか持たぬ「おんぼろ地獄」の拷問器具。
すぐに見切りをつけた繁は、最近では獄卒たちに「殴ってくれ」と頼み込んだのだ。
困惑した麗雪たちに、宗はただ微笑んで首を傾げた。
無言ではあったが、「ちょっと汚してやったら?」とのメッセージは雄弁に伝わっていただろう。
結局、豪炎と麗雪は、つんと頬を弾くくらいの弱さで繁を殴った。
それであっても、人間には大ダメージだ。
結果、現状ができあがったというわけである。
「……まあ、ちょっとくらいは惨めでいてくれないと、恰好がつかないからね」
「なんですって?」
「ううん、こちらの話」
宗はひっそりと笑う。
みのりは繁のために。繁はみのりのために。
互いが互いのためを思って、自らを傷付け、追い込む姿というのは、実に愚かしく滑稽だ。
大切な人のために、傷付いて、我慢して。
かつて賽の河原で出会った少年も、同じ愚かさを飼っていた。
自己犠牲というのが、宗はこの世で一番大嫌いだ。
大嫌いで――けれど。
「かわいいんだもの」
酒を啜りながら、小さく呟く。
瑠璃は意味を捉え損ねたらしく、しばし宗のことを怪訝そうに見つめていたが、やがて声を潜めて切り出した。
「……正直、最近の長官様が何を考えておいでか、私にはわかりかねますわ。冥府の宴には顔を出さず、翻意を示しているのかと思いきや、連日どこかの宴に出ては酒浸りになり。みのりの元に通っているのかと思いきや、彼女を追い詰めるような真似をする。今代が想像以上に腐敗しているとわかっておいでなのに、それを糾弾する機会となりえる再審を、今代を唆して握り潰す……。一体なにをなさりたいのです」
「ほんと、何をしたいんだろうねえ……」
酒杯を弄ぶ宗は、のらりくらりと躱すだけだ。
「数刻前までは、成り行きに任せるつもりでいたんだけど。まあ、期せずして、僕の約束も果たしてもらっちゃったから、お礼と言うかね。後顧の憂いなく臨めるって言うか……」
「ですから、何を仰っているのか――」
「おっと、瑠璃。新しいお客さんが来たよ。僕の所より、彼らに酒を運んであげてよ。このくだらない宴を見守るには、まずいとはいえ酒が必要でしょ」
瑠璃が問い詰めようとするのを、宗はさらりと躱す。
たしかに彼の指し示す先には、新米の獄卒なのか、きょろきょろと宴席を見回す者たちがいたので、瑠璃は渋々立ち上がった。
「お忘れのようですが、私もみのりたちの作る煮豚は大好物ですの。このままはぐらかし続けるようなら、今日のこと、悪事として記載いたしますからね」
ぴっと指差してから、去ってゆく。
宗は肩を竦め、それから宴席を見渡した。
「ひ、ふ、み、よ……。うん、そろそろかな」
何を数えたものか、ひとりごちる。
それから、彼は愉快なことを思い出しでもしたように、口の端を持ち上げた。
「すっかり胃袋を掴んじゃってまあ。……君はすごい子だね、みのり」
細めた目で見つめる先では、みのりがいまだ険しい顔で宴席を睨みつけていた。
***
なんとひどい宴だろう。
みのりはこれ以上ないほど眉間の皺を深くしていた。
「ご飯はまずそうだし、みんなひっどい酔っぱらいだし、あちこちでグロいことしてるし……あっ、あいつ吐いたわ。繁さん目を瞑って! 見ちゃいけません! 怖かったら私の手を握ってていいからね。っていうか握るよね? さあ握って、はいどうぞ」
「うん、あのね、みのりちゃん……それ僕のセリフっていうか……」
顔を腫らした繁は、存外元気そうに、しかし困惑したように呟いている。
「繁さん、どうしたの? 話しにくい? 唇の端が痛む? 麗雪や豪炎に仕返しする?」
「いや、ほんとやめて……」
「そうよね、諸悪の根源はあの鬼長官だものね。麗雪たちを殴り返しても仕方ないわよね。やつの息の根を止めなきゃ」
「いや、お願いだから諸方向にファイトしに行かないで……!」
いよいよ沙汰を言い渡される直前となっても、みのりは相変わらずみのりだった。
「すまぬな、みのり。繁がどうしても殴れと言うて聞かなかったし、長官殿が脅すものだから……」
「一応、でこぴん程度に留めたが」
麗雪や豪炎も、少々気まずそうに詫びる。
獄卒の彼らとて、気に入った相手を殴るのは趣味ではないし、もう別れも迫っているというのに、その相手が激怒したままというのも、居心地が悪いのである。
みのりは、三呼吸ぶんくらい不自然な間を置くと、
「………………いえ、悪いのはあくまで、鬼長官だから」
と、遠くに座す宗のことを睨み付けた。
やはり、諸方向に対して怒っている様子である。
中でも悪の親玉に思われる宗は、いったい何を考えたものか、こちらにへらりと笑いかけたりする。
もちろんみのりはときめくこともなく、即座に睨み返してやった。
「なにかできないかしら……。やっぱり、この場にいる誰かを人質に取って交渉とか……」
「繰り返すようだけど、これ以上無茶するなら、僕は本当に自ら地獄に落ちるからね!?」
「んもう、単なる本気よ。繁さんのいけず」
もはや本音が隠せていない。
みのりは焦っていた。
「いいんだよ、みのりちゃん。地獄行きは、当の本人である僕が納得してるんだから」
「百回くらい繰り返すようだけど、当の本人しか納得してないことが問題なのよ」
こうした議論も、すっかり平行線だ。
だいたい、最初の態度と言い、再審を取りやめたことと言い、この閻魔大王にはもはやうさん臭さしか感じない。
繁が地獄行きだというのも、誤審でしかないと思うのだ。
これが現世での出来事ならば、出るところに出て勝負すべき事案だ。
(でも、神様の不正を訴える場合、出るところってどこなのよ!)
みのりは歯噛みした。
神より上位の存在というのを自分は知らない。
では周囲に訴えて、となると、いくら料理で懐柔を図ったとはいえ、さすがにクーデターを起こさせるほどではない。
実力者然とした宗は、どうも敵の側にいるように見える。
打つ手なしだった。
(なにか……なにか……)
考え込むみのりをよそに、時は流れてゆく。
この爛れた宴に進行があるとも思えなかったが、それでもなにかしらタイミングがあったようで、宗がすいと立ち上がって促すと、閻魔は酒に緩んだ顔を一瞬だけ持ち上げた。
「――……ああ? うむ、そうだな。沙汰を、言い渡すのだった……」
宴席の隅にはみのりたちがいるというのに、沙汰の段取りすら忘れていたらしい。
彼はすぐにまた瞼をとろんとさせると、適当な仕草で手を叩いた。
「皆の者、聞け」
楽の音や喧騒が、ほんのわずか静まる。
未だざわめきを残したままの空間で、閻魔はぞんざいに言い放った。
「保留となっていた沙汰を言い渡す。そこな死者――ええと……」
「大沢繁雄ですよ」
「おお、そうか。大沢繁雄は、地獄行きだ。嘘を吐きよった娘は、地上へ追い返す」
躊躇いもなく告げられた言葉に、みのりは息を呑んだ。
地獄行き。
こうもあっさり、確定させられてしまうとは。
「待ちなさいよ……! せめて、なんの罪状でそう決まったのか、明確な説明くらいないわけ!?」
「うん……? 口を慎め、小娘。そんなもの、本人がわかっているはず。のう?」
公平性もなにもない態度だ。
みのりはかっとなったが、彼女が口を開くよりも早く、
「……はい」
繁本人が、こくりと頷いてしまった。
「本人としても、この結果に納得しています」
「ちょっと……! なに言ってるのよ! こんな善良でピュアで笑顔が可愛い繁さんが、地獄行きになるような悪事を働くわけないでしょ!」
「そんなことない。みのりちゃんが知らないだけで、僕だってそれなりに、罪を犯してきた」
繁は粛々と答える。
「じゃあいったい何をしたっていうの! 具体的に言ってみてよ!」
みのりが問い詰めると、彼はちょっと怯んだような顔になった。
「それは……その、親友の結婚式に、空のまま祝儀袋を渡しちゃったこともあったし、ええと、上司を転ばせて、鬘をずらしてしまったこともあったし……それから……」
「ふざけてるの!?」
一刀両断だ。
みのりは顔を紅潮させて詰め寄ったが、繁は顔を逸らすだけだった。
「とにかく、いいんだ。僕が納得してるんだから。君は早く、地上にお帰り」
「そんなこと、できるわけないでしょ!」
勝気そうな黒い瞳に、とうとう涙が滲んだ。
「繁さんを救いもせずに、私だけ帰れるはずないでしょ……!?」
「……十分、救われたよ」
だが、繁は優しい口調ながら、断固として譲らなかった。
「反対もしたし、はらはらもしたけど、みのりちゃんが真さんたちを巻き込んで、獄卒たちを仲間にして、わいわい料理をしながら過ごすものだから、僕はすごく楽しかった。地獄の日々も飯次第というか……みのりちゃんは、そうやって十分、僕を救ってくれたよ」
「そんなの、全然十分じゃない……!」
涙が零れてしまわぬよう、みのりはぐっと目に力を込めた。
全然、十分なんかではない。
一緒にご飯を作って食べて、楽しかった。それだけではだめなのだ。
みのりはあくまで、繁を地獄から救い――生き返らせたかったのだから。
「私は、ご飯で、繁さんを助けたかったの! 生かしたかったの! ……昔、繁さんがそうしてくれたみたいに」
震える声で、付け足した言葉。
それを聞くと、繁は眉を下げ、小さく「ごめんね」と呟いた。
「――じゃあさ。きちんと説明してみたらどうかな」
とそのとき、低く涼やかな声が辺りに響く。
一瞬で場の空気を変えてみせた美貌の鬼――宗は、真意の見えない笑顔で繁に告げた。
「その子、君が沙汰を受け入れる理由がわからない限りは、自ら地獄行きも辞さない、って顔してるもの。かわいい娘の地獄行きを避けるためなら、そのくらい安いものでしょ」
まさかの援護射撃だ。
が、みのりは躊躇いなくそれに乗った。
「そうよ。この沙汰が誤審じゃないと信じられる理由を言ってくれないと、私、繁さんがどんなに嫌がっても、自ら地獄に落ちてやるからね!」
「みのりちゃん……」
まるで、いつぞやとは逆の状況だ。
怯みもせず、そうした脅しを突きつける娘に、宴に酔っていた面々も興味を惹かれたらしい。
いつの間にかしんと静まり返った広間で、繁は何度か口を開きかけては引き結び、三度目でとうとう、俯いて話し出した。
「僕は、……いい親じゃなかった」
「……反論を一時間くらいしていい?」
「お願いだから、まずは聞いて。……僕には、すごく、悔やんでいることがあるんだ」
その声は、みのりでさえ相槌を躊躇うような、深い苦渋に満ちている。
もし、自分を引き取ったことを悔やんでいるとしたら、という考えが一瞬だけ頭をよぎってしまい、みのりは俄かに緊張して、繁の顔を見た。
「みのりちゃんにはあまり話してこなかったけど……僕、みのりちゃんを引き取る前に、離婚しててね。それというのも、結婚した後に子どもを持てないとわかった僕を、相手が嫌がったからなんだ」
「……知ってるわ。だから養子縁組まで時間が掛かったって、伯父さんから聞いた」
慎重に頷くと、繁もまた、緊張したように唇を舐めた。
「離婚は、互いに納得して済ませた。でも……でも僕は、昔から子どもが大好きでね。自分が子どもを持てないということも、離婚も、かなりショックで……君と出会う前、実は結構、荒れてた。自炊もせず、働いて、働いて……ちょっと働きすぎて、上司から無理やり休みを与えられて。それで、食料を求めてスーパーに行って、その帰りに――君と出会った」
厚手のコートを下ろさぬうちに冬が来てしまった、あの日のことだ。
温かい食べ物が恋しくて、ふと目に留まった焼き芋なんかを、買ってしまった日。
自動ドアを出た先でぶつかってしまった少女の、その軽さと冷たさに、ひどく驚いたことを、繁は今でも覚えている。
「君は細くて、顔色が悪くて。服はいまだに薄手で皺だらけだし、転んだ拍子に脱げてしまった靴も、まるでサイズが合っていないし……。ろくに手を掛けてもらってないということは、すぐにわかった」
少女が泣き出したのを機に、全身に視線を走らせた。
これはまずいぞ、と、本能が素早く警鐘を鳴らした。
目の前の少女に危機が迫っている。
今ここで見過ごしてしまったら、もしかして命に係わるほどの危機が。
できうる限り優しい口調で話しかけたら、少女は小さな声で名乗った。
震えながらも抑制された――大人の機嫌を損ねない、声。
自分の名前のはずなのに、合っているか不安そうな様子を見て、それが何を意味するかを察した途端、繁の中に、激しい怒りが湧き上がった。
「なんてことだ、って思った。生まれて初めて、息が止まるほど僕は怒った。成り行きでその日、一緒に過ごすことになって、時間が経つにつれ僕の予想が正しいと証明されて、そのたびに、僕はもう、君の親への怒りで、腹が煮えくり返りそうになった」
交番へ連れて行ったら、そこからたらい回しが始まった。
とりあえず家に戻そう、となりかけるのを繁が何度も押しとどめて、強引に児童相談所での保護をもぎ取った。
大事になってゆく事態に、少女はただ青褪めていた。
繁のことを救世主なのか誘拐犯なのか決めかねた様子で、始終縮こまっていた。
何度も「お母さんはわるくない」といったことを主張した。
だが、その日中、いや、翌日になっても、母親とは連絡が取れなかった。
「君は、僕に頼る素振りを見せながらも、やっぱり母親を信じていた。それは、児童相談所で保護されても、やがて僕が里親となっても、養子縁組を結んだその日までも、ずっと続いていた。彼女の方は、一度だって、君に愛情のひとかけらだって示さなかったのに」
再婚が迫っているとかで、母親は積極的にみのりを手放したがっていた。
あまりにスムーズに進む手続きに、繁は、みのりへの説明に苦心したほどだった。
だというのに、みのりは、まるで蹴られても蹴られても擦り寄っていく子犬のように、密かに母親のことを信じ続けた。
いっそはっきりと、否定してしまいたい――。
けれど、みのりを傷付けたくないという思いで、繁はそれを無言で受け入れ続けた。
「でも……養子縁組を結んだあの日。君がこっそりと生家に向かったのに気付いて……そこで、冷え切ったまま立ち尽くしているのを見て、……僕はとうとう我慢できなくなったんだ」
叶うのなら、繁はみのりの母親に、そして彼女のもとにみのりを生まれさせた神様に、怒鳴り散らしてやりたかった。
なんでそんなことができる。
どこまで傷付ければ気が済む。
それくらいなら――最初から、自分にくれ!
「それで……」
繁は、一度口を引き結び、唇が震えるのを押さえ込んだ。
それから、眉を下げて続けた。
「言った。もういい。母親を嫌っていいって。君に、母親のことを捨てさせた。名前すら。たとえ過去に戻っても、きっと僕は同じことをすると思うけど――でもやっぱり、それは、絶対に許されないことだと思うんだ」
「繁さん……でも――」
「だって、やっぱり彼女は君の母親だったわけなんだから。子どもが持てなかった僕じゃ、敵わない。本当なら、彼女を詰る資格なんて、ない」
それに、と繁は続けた。
「みのりちゃんはその日から、僕にべったり甘えるようになった。好意の表現を惜しまなくなった。あさましくも、僕はそれが嬉しくて……でも、やけに『好き』と『嫌い』をはっきり分けるようになった君を見て、申し訳なくもなった」
現世でも、地獄でも。
みのりが繁至上主義を掲げ、平気で人を利用しようとしたり、弱みに付け込もうとしたりするのを見るたび、繁は心苦しくなった。
自分がもっとうまく立ち回れば、正しく彼女を導けていたら。
きっと、人を嫌い、切り捨てることよりも、愛し、信じ抜くことを教えられたはずなのに。
「結局僕がみのりちゃんに教えたのは、……人を嫌うことだった。でも僕は……、そんなことを教えたいんではなかった……っ」
繁は拳を握り、それを震わせた。
「もっと……いい親になりたかった。子どもを守って、温かく包み込んで、愛だとか優しさを教えられる、そんな親に。僕はなりたかった……っ」
「私の性格が曲がってるから、……出来が悪いから、繁さんは悔やんでるの?」
「違う! 違うよ。みのりちゃんは本当にいい子で、素直で……ただ、僕の方が、もっといい親になれていたらって、そこだけが申し訳なくて――」
言いよどむ繁を遮るように、みのりはすっくと立ち上がった。
「申し訳なく思う必要なんてない! 私は……繁さんに感謝しかしてないよ」
「みのりちゃん、でも――」
「でもじゃない! 私は……あの日、繁さんに保護されてなかったら、とっくに賽の河原に行ってた。名前をもらえなかったら、前には進めなかった。繁さんは、私を守って、温めてくれたよ」
繁を見下ろす瞳には、涙がにじんでいる。
思った通りの理由だったことが、もどかしかった。
「毎日、繁さんはあったかいご飯ばかり食べさせてくれた。みのりちゃん、みのりちゃん、って何度も呼んでくれた。私は、それがすごく、すごく嬉しかったんだよ」
振り返ってみれば、繁は決して、最初から料理が上手なわけではなかった。
野菜を煮込んだだけの鍋だとか、ネギだけを散らしたうどんだとか、そんなものも多かったと思う。
でもいつでも、温かかった。
幼いみのりがはふはふ言って食べるのを、繁は微笑みながら眺め、繁が徐々に手の込んだ料理を作るようになってゆくのを、みのりはじっと見つめ。
そうやって、二人は家族になっていったのだ。
「繁さんは、ちゃんと愛だとか優しさだとかを教えてくれたよ。嫌うことを教えたんじゃない。自分が自分であることを――誇りを教えてくれたんだよ」
先ほどゆたかに同様のことを告げたとき、みのりはたしかに葛藤した。
傷つけるのではないか。
傲慢ではないか。
いったい自分に何の権利があるというのか。
けれど、それらの非難を引き受けてでも、あのときみのりは、相手を温めて、彼にふさわしい名前を贈りたかった。
「それが『悪いこと』だっていうなら――この世には神も仏もないわよ!」
感情が溢れすぎて、みのりは最後、やけくそのように叫んでしまう。
その激しさに頬を打たれでもしたように、繁は目を見開いてみのりのことを見つめていた。
「それ、もう一度言ってみてくれる?」
とそこに、笑いを含んだ声が響く。
みのりがはっと我に返り、声のした方向を振り向くと、宗がにこりと首を傾げた。
「神も仏も。もしかして『閻魔大王も』、かな?」




