17.河原の石でふかしてやる(3)
「由くんのお母さんは、やっぱり、来ないんだよ」
焼き芋を口に当てたまま硬直する由を、みのりは正面からじっと見つめた。
そのあどけない瞳が潤んだらどうしよう、と思いながら、それでも、続けずにはいられなかった。
「あの鬼長官は大嫌いだけど、それだけは、私も同意する。あなたの母親は、来ない。だって彼女は、最初から最後まで、あなたを見てなんかいなかったから。彼女にとって、あなたは記号か、そうじゃなければ、入れ物でしかなかったから」
由が口を引き結ぶ。
息を凝らし、体を竦ませ、周囲を睨み付けるようにして佇むその気持ちが、みのりには痛いほど理解できた。
わかったような顔で頷いて、期待しないと嘯き、でもどうしようもなく信じていて、だから立ち尽くす。
あの日――生家を尋ねて行ったみのりも、そうだった。
待っていれば、いつか母親が帰ってくるのではないかと、思っていた。
「口では、もう期待なんかしてないって、言うよね。でも、心の奥底では、どうしても期待しちゃう。信じてしまう。わかるよ。だって、母親なんだもん。周りが……ほかの親子がそうするように、愛してくれるって、思ってしまう」
明け方に冷えた弁当を渡されて、彼女が仕事に出ている間は、それを食べるように言われていた。
プラスティックの容器に張り付いた、冷えた飯をひとりで食べる。
その弁当すら、母が不倫相手との関係に夢中になるにつれ、数が減っていった。
そしてその時、みのりは怒るより悲しむより、心配になった。
なにか自分が悪いことをしたのだろうか。
それで、怒らせてしまったから、弁当をくれずに、出かけてしまったのだろうかと。
疑うだとか、責めるだなんて、できるはずもなかった。
そんな発想がなかった。
弁当を忘れられることが増えていき、自分に落ち度が見つからなかったら、今度は相手に理由を求めるようになった。
「お母さんは、忙しいから。余裕がないから。寂しいから。お母さんは可哀相で……だから、自分が我慢しなきゃいけないんだ。ねえ、由くんがさっき言った、『母親が地獄に来たら、傷付けたことを謝りたい』って、そういうことだよ」
由は何も言わない。
ただ、みのりを睨み付けるのをやめて、じっと石ころに視線を落としていた。
そうやって、静かに話を聞いていた。
なので、みのりは察した。
彼も――既に、わかっているのだと。
「母親を可哀そうだと言うのは、本当にそう思ってるからじゃない。そうやって、なにか事情があったことにしないと、自分が惨めで、つらくて、仕方ないからだよ。でもね、実際そうなの。由くんは……私たちは、惨めで、可哀そうだったんだよ。それを認めないと、前に進めないの」
じっと家を見つめて待ち続けるみのりに、いつの間にかやっていていた繁は、そっと話しかけた。
みのりが首を振って拒否すると、その肩を掴み、真正面から顔を覗き込んだ。
これは、まるであの日の再現のようだ。
だからみのりも、ゆっくり、ゆっくりと腕を持ち上げ――彼が握ったままの焼き芋ごと、由を強く抱きしめた。
「ねえ。辛かったはずだよ。悲しくて、苦しかったはず。あなたは母親を、嫌っていい。違う、嫌って、切り捨てなきゃいけないの。囚われるのをやめて、前に進むために。自分が、自分であるために」
あのとき、繁はみのりよりもよほど激しく涙で喉を詰まらせながら、言った。
――嫌っていいよ。僕が許す。全部、僕のせいにしていいから。
愛し、信じることの甘美さに比べ、人を嫌い、切り捨てることの、なんと呪わしく恐ろしいことだろう。
けれど、繁はそこでみのりを抱きしめる腕の力を一層強め、こう続けた。
「もう、行こうよ」
帰ろう、ではなく、行け、でもなく。
ともに行こう。
そう言ってくれたから、みのりはやっと、あの家から視線を剥がすことができた。
恐らくは――今、腕の中にいる由も。
「――……僕、……った」
やがて、由は小さな口を震わせた。
「……本当はずっと……悲しかった」
「うん」
「どうして、って……思ってた。ひどい、って。……苦しかっ、た」
「うん」
彼はまるで、お守りのように焼き芋を握りしめている。
熱の塊のようなそれ。
だからこそ、自分の指先が、こんなにも冷えていたことに気付いた。
「すごく惨めで、……やだ、……った」
――やだよぉ……。
繁の腕に抱きしめられた、幼い日の自分が泣いていた。
母親はもう戻ってこなくて、自分は彼女に見捨てられたのであって、それどころか、とうに見放されていたのだということ。
それを理解してしまった途端、みのりの中に、感情が溢れた。
――やだ。やだ。やだ、やだ、やだやだやだ!
それまでは、優しくしてくれる繁のことを、どれだけ好ましく思おうと、同時に、どこか躊躇いや遠慮も抱いていた。
だって、彼は他人で、自分の家族は母なのだからと。
けれど、その瞬間、みのりは繁の腕をぎゅうぎゅうと掴み返し、服に鼻水が付くのも構わずに、強く顔を押し付けていた。
――私……やだ。
その涙声を、繁は最初、自分の言葉への拒絶として受け取ったらしい。
辛そうに頷き、再び言い募ろうとするのを、みのりは遮るようにして叫んだ。
――こんなの……こんな自分、やだ……っ。
最初から、繁さんの子どもなら、よかった……!
繁の掌があまりに熱くて、日々食べさせてくれる料理があまりに温かいから、冷え切っていた自分が、惨めで惨めで仕方なかった。
抱きしめられた拍子に、腕にぶつかった焼き芋の袋。
ビニール袋越しでも伝わる熱に、涙が止まらなかった。
なぜ自分は、他の子たちと同じように、温かな料理を食べさせてもらえなかったのか。
なぜ自分は――愛してもらえなかったのか。
――この家も、この顔も、この名前も、もうやだ……!
私、……っ、繁さんの子どもが、よかったぁ……!
最後のよすがのように思っていた名前すら、今となっては厭わしかった。
お母さん、と呼んでいた女性との繋がりを、その時のみのりはすべて捨て去ってしまいたかった。
自身が惨めで、恥ずかしくて仕方なかったのだ。
繁は黙ってみのりを抱きしめ続け、やがて一回だけ、鼻を啜った。
それから、片手でズボンのポケットをまさぐると、ペンを取り出した。
――じゃあ、僕が新しい名前をあげる。
そう言って彼が掌に書いてくれたのが、みのりの名だった。
戸籍上の表記を変えない方がいいだろうから、ということと、君はただそこにいるだけで、僕にとってかけがえのない実りだから、ということ。
繁はしっかりと視線を合わせ、照れることもなく、真摯に説明してくれた。
「……例えば、なんだけど」
だからみのりは、腕の中で震える由からそっと腕を離し、片手を竈へと伸ばした。
焼けた縄が静かに燻る竈の下部には、たっぷりと煤が溜まっている。
彼女はそれを指先で掬い取ると、焼き芋を握っていた由の右手を開き、掌に綴った。
――ゆたか
「これ……?」
「新しい名前に、どうかなあ。漢字から、そう読めなくもないでしょ」
新しい名前。
由はぽつんと繰り返したきり、まじまじと掌を見つめた。
みのりは、そんな彼の掌を、ぎゅっと握らせてやった。
「そう、新しい名前。あなたの、あなただけの名前。焼き芋を食べ終わってさ。体中があったまったら、その名前を握りしめて……もう、行こうよ」
力強く微笑んでみせながらも、みのりは内心で、かつての繁がどれだけ慎重にこの言葉を紡いだかを、痛感する思いだった。
酷いことを言っている。
肉親を切り捨てさせる言葉だ。
けれど、彼に親を捨てさせる、その罪をすべて自分がかぶってでも、みのりはこの少年を解放したいと思ったのだ。
(ああ、そっか……)
頑なに、自分は地獄行きで納得していると言い張っていた繁。
その理由が、おぼろげながら、今、分かった気がした。
「ゆたか。……僕の、名前」
由が――いや、ゆたかが、小さく呟く。
それから彼は、一筋だけ涙をこぼし、くしゃりと笑った。
「ありがとう」
「……気に入ってくれた?」
「うん、すごく。……なんか、みのりお姉ちゃんと姉弟感があるし、二つ並べると芋の品種名みたいで、ますますいい。豊作そう」
悪戯っぽく告げる彼は、もういつもの彼だ。
なのでみのりも、これまでのように強気に口の端を持ち上げてみせた。
「でしょ。私たち、焼き芋姉弟なの。おお、我が弟よ」
「おお、お姉様」
二人はくだらない言葉の応酬を繰り広げてから、同時に小さく噴き出した。
その後も、心地よい沈黙に包まれながら、二人は焼き芋を食べ続ける。
甘くねっとりとした芋は、喉に絡まることもなく、あっさりと嵩を減らしていった。
みのりより先に食べ終えてしまうと、ゆたかは唇に笑みの余韻を残したまま、河原から石を拾った。
「……このお地蔵様、やっぱ、髪が豊かになるよう願いを込めて、つむじを完成させておこうかな」
「ぜひそうしてあげて」
芋を食みながら、みのりも頷く。
ゆたかはくすくす笑いながら、こつ、と、最後のひとかけらを地蔵の頭に乗せた。
「……完成だ。初めて」
「イケメンに仕上がったと思うわ」
神妙に頷いてみせる。
のみならず、みのりは自らの食べていた焼き芋を半分に折り、地蔵の前に供えてみせた。
「ほら、お供え物も加わって、いよいよ完璧な地蔵感。いい仕事したわね」
「うん。我ながらクオリティ高いよ。これなら、石塔じゃなくても昇天承認レベルなんじゃないかな」
「間違いない」
二人はおどけて頷き合う。
やがて、みのりも焼き芋を食べ終え、静かに手を払った。
「さて――。私も、また塀から繁さんにアピールしてくるかな」
「いよいよ、別れを惜しむ気になったの?」
「ううん、最後の瞬間まで希望は捨てないけど……、繁さんにちゃんと伝えておかなきゃいけないことを、見つけた気がして」
なんとかして沙汰を覆し、あわよくば生き返らせられないかと逸る心は、未だ消えない。
けれど今はそれ以上に、繁に話したいことがあった。
(もし、繁さんが、私のことを負い目に思って、地獄に落とされたんなら――)
みのりはきゅっと拳を握り締める。
「繁さんを愛の拳で殴り倒してでも、そこはきちっと訂正しておかないと」
「暴力的な愛だね……っ?」
ゆたかが唇を引攣らせるのをよそに、獄内に視線をやり、繁の姿を探した。
宴まで――二人の別れまでは、あとわずか。
いくら頑固者の繁でも、さすがに少しくらい語らおうという気になっているはずだ。
塀から身を乗り出し、みのりは素早く養父の姿を探す。
と、ちょうどその時、亡者たちがざわつきだした。
彼らの視線を辿れば、毎度どうやって現れるのだか、すとんと宙から足を下ろした美貌の鬼――宗の姿が見える。
彼は、遠目にも麗しく微笑み、繁と、獄卒たちに何ごとかを話しかけた。
距離があるため聞き取れないが、宴へと連れてゆく、その段取りについてでも話しているのだろうか。
いや、彼が話すにつれ、繁が青褪め、傍らの豪炎たちに縋りつくというのは不思議だ。
「ちょっと――」
繁の許可を待って、賽の河原に留まり続けている必要はもうないだろう。
いったいなにをしているのかと、塀から足を踏み入れたみのりだったが、
――がっ!
突然、麗雪と豪炎の二人から繁が殴られたのを見て、彼女は悲鳴を上げた。




