16.河原の石でふかしてやる(2)
由は、やけに大人びた仕草で唇の端を持ち上げた。
「母さんはね、ずっと僕のことを、姉の『由貴』として育てたがってた。女の子の服を着せて、言葉遣いや行動も淑やかにさせて。本物の『由貴』と過ごした思い出を精密に再現させて、それでようやく、娘を亡くした心のバランスを保ってた」
最初、違和感はなかった。
母親の愛は、違わず自分に注がれているのだと信じていた。
けれど、体が少年のものとして成長するに従って、母が求めるものと、自分が求めるものの差は徐々に開いてゆく。
とうとうある日、盗み見た母の日記から、自分の名が姉と同じであることを知って、由は頭が真っ白になるほどの衝撃を受けた。
「その時ちょうど、本物の『由貴』の年齢を僕は越してしまっていたから、あと少し待てば、母さんも正気に返って――というか、再現するべきものが無くなって、普通の親子になれたのかもしれない。でも、僕は待てなかった。怖かったんだ、用済みになっちゃったらどうしようって」
恐怖は焦りを呼ぶ。
焦りは、大人びていたはずの由から、冷静な思考力を奪った。
由はその頃から、まるで反動のように、「いかにも男の子」といった行動ばかりを取り始めた。
言葉を乱暴なものに改め、大声を出して。
悪戯をして、駆け回って、物を壊す。
母は青褪めた。
穏やかだった表情をかなぐり捨てて、時に頬を打って、金切り声で由を詰った。
こんなの、私の子じゃない。
回を重ねるごとに、母の罵倒は鋭さを増し、小突く程度だった暴力も、髪を掴むくらい激しくなっていった。
そして、それに呼応するように、由の行動もまた、徐々にエスカレートしていった。
「見てほしかった。僕の……僕自身の名前を呼んで、抱きしめてほしかった。もっとも、僕だけの名前すらなかったんだから、無理な話だけど。それである日、いたずらのつもりで窓枠によじ登ったら――」
そこで由は、苦いものを飲み込んだかのように、ぎこちなく笑った。
「足を滑らせて、死んじゃった」
みのりは眉を寄せて、押し黙った。
かけるべき言葉が、見つからなかった。
由は再び石を拾うと、近くの地蔵に乗せ、代わりに一つ石を引き抜き、というのを繰り返した。
「沙汰が下りて、賽の河原――地獄に連れてこられた時は、だから、やっぱりなって思ったよ。冷静に考えて僕は、ベランダからの転落死で娘を失った母親に、同じことを再現して傷付けたわけだから。そりゃそうだよね、って感じ」
「…………」
「転落の先輩である本物の『由貴』は、残念ながら既に昇天してしまってたみたいだけど、だから僕は、ここで母さんが来るのを待ってる。万が一あの人が、僕たちを失ったことに罪の意識を感じていて、それで地獄に来たなら……大丈夫だよって。傷つけてごめんねって、謝りたいから」
か細い声で告げられた内容に、みのりは顔を顰めた。
「謝るの? あなたが?」
「……そう。それ、宗おにいさんにも言われた」
由はなぜだか、愉快そうにみのりのことを見た。
彼が賽の河原にやって来て、初めて出会った獄卒は宗であったらしい。
――君、新人? かわいいねえ。
おいで、こっちで石を積むんだよ。教えてあげる。
地獄の住人とは思えぬ美しい顔で、気さくに話しかけられ、由は適当な石を積みながら、自身のそうした思いを隠さず話した。
母に会いたい。
会って詫びたい。
そのためなら、自分に差し出せるものは何でも差し出す、と。
すると、にこやかに相槌を打っていた宗は、その表情を全く変えぬまま、
――君、本当にかわいいねえ。
突如として、由がぞんざいに積んだ石塔を、華麗に蹴り飛ばしたのである。
勢いよく飛び散っていく石に呆然とする由に、宗はわずかに目を細めた。
――君の母親がここに、来るわけなんかないじゃない。
まるで研ぎ澄ました刃のような、鋭い声。
硬直してしまった由の耳元に、宗はそっと囁いた。
――気付くべきだ。君の母親は、最初から最後まで、君のことなんか見ていなかったよ。
そして君もまた、彼女に詫びたいわけではないはずだ。
君は、本当は、この期に及んで彼女に自分自身を見つめてもらいたいだけ。
名を奪われた今なら、状況が変わっていることを期待して……ね。
由は咄嗟に殴り掛かっていた。
美貌の獄卒はそれを避けることはせず、頬を殴られても平然と微笑んでいた。
「それが、宗おにいさんと僕の出会い」
「出会いとしては、かなり最悪の部類ね」
冷静なコメントを差し挟みつつも、みのりは、自分自身と宗の出会いのことを思い出していた。
――どうか、お願いします。私にできることならなんでも……
みのりがそう告げた途端、不穏な空気をまとった彼。
今なんとなくわかった。
それがあの鬼にとっての逆鱗だったのだ。
だが、宗がそうした反応を返すことも、今となっては理解できる気がした。
だって、客観的に由の話を聞いたとき――その献身は、あまりに痛々しかったから。
静かに視線を落とすみのりをよそに、由は懐かしむように続けた。
「最初は大嫌いだった。僕の心を折りたいからそんなことを言うんだろうって。こうなったら意地でも河原を動かないぞと、石を一個も積まないで過ごしたこともあった。でも……」
一年が過ぎ、二年が過ぎ。
徐々に周囲の子どもたちが入れ替わってゆくのを見守りながら、由も次第に不安を覚えていった。
やはり母は――来ないのかもしれない。
「宗おにいさんは相変わらず、僕に嫌な言葉ばかり囁いた。どれも、事実ばかりだ。僕は不安と怒りをごちゃまぜにして、とうとう宗おにいさんを罵った。あんたなんか大嫌いだ、あんたに何がわかる、口を出すなって」
絵に描いたような八つ当たりだ。
叫びながら、自分でも呆れるほどだった。
だがその時、宗は初めて、心からのものとわかる笑みを見せて頷いた。
――そう。そうだよ、その通り。
これはあくまで、君だけの、君が解決すべき問題だ。
それから、平たくて積みやすい石を、由の掌に握らせた。
――母親に待たされるんじゃない。
君が、君の意思でどこに行くかを決めるんだ。
由が言葉の意味を理解するよりも早く、宗は続けた。
――君の罪には、君が向き合うんだ。
僕にはそれをどうすることもできない。
ただ……見守ってはいるよ。ずっとね。
約束しよう。君が罪を受け入れて天に昇るまで、僕は必ず、この河の近くで君を見ている。
彼は由の腕を取り、河原に最初の石を積ませると、「だから」と続けた。
――だから、約束してほしい。
時間が掛かってもいいから……必ず、こんな場所、抜け出すんだよ。
そうして彼は、閻魔大王の筆頭候補と噂されていたにも関わらず、今も冥府の一役人――自由に地獄へと行き来できる身分を、維持している。
「その日から、僕は少なくとも、石を積むことを自分に許した。もしかすると、昇天に十分足るレベルの石塔も作りかけた。でも……」
そこで由は、困ったように眉を下げた。
「最後のひとかけらを載せるときに、やっぱり、手が止まっちゃうんだ」
彼は、地蔵のつむじに乗せかけていた石を引き上げ、ころりと河原に落とした。
「だって、本当に後ちょっとだけ待てば、母さんは来るかもしれない。すれ違っちゃったら、これまで待った分がもったいない。それにやっぱり……あの人が、可哀そうだ」
あと数年。
いや、あと数か月、もしかしたら数日待つだけで、状況は変わるのかもしれない。
そう思うと、どうしても踏み切れなかった。
「…………」
みのりは膝に顔を埋めながら、そんな由を瞳だけ動かして見つめた。
期待しないと嘯きながら、縋るようにして待ち続けるその心理は、彼女にも馴染みがあったから。
「――由くん」
やがて、体を起こすと、切り出した。
「お腹空いた。石焼き芋、作ろう」
「は?」
唐突な提案に、由はきょとんとする。
それを無視して、みのりはさっさと自称・ピサの斜塔を崩し、ずんぐりとした形に積み上げ始めた。
「ねえ、手伝ってよ。竈の形にするにはどうすればいいと思う?」
「え、っていうか待って、なんでここで焼き芋の流れ?」
「石で調理できるものが他に思い浮かばないからよ。ほら急いで、宴まであんまり時間もないんだから」
質問には、あえて噛み合わぬ答えを寄越しておく。
ぐいと腕を引っ張って石を握らせると、由は戸惑いの表情を浮かべた。
「というか、みのりちゃん、料理することは宗おにいさんから禁止されてるんじゃ……」
「獄卒たちを懐柔するなっていうのと、死者たちを扇動して地獄の秩序を乱すな、ってことでしょ。由くんは獄卒じゃないし、賽の河原は厳密には地獄じゃないから、全然おっけー」
嘘だ。
本当は、繁に見とがめられたらどう言い訳しようかと、こっそり獄内の方をちらちらと窺っている。
だが、みのりは、今この瞬間、どうしても由に焼き芋を食べさせたいと思ったのだ。
幸い、繁たちの姿は見えなかったので――刀林処とは反対側に回っているのかもしれない――、みのりは若干緊張を解きながら、由に告げた。
「しんみりしちゃったときには、人間、あったかい食べ物を食べるべきなのよ」
由の話を聞いて、思うところはいろいろあった。
しかし、なんと言葉を掛けて、どう行動するのが正解か、みのりにはよくわからない。
だから――昔、繁が自分にしてくれたのと、同じことをしようと思った。
「だから、付き合いなさい」
きっぱりと言い切ると、由は目を丸くして、それから小さく苦笑した。
「……それ、今度はなにを作ってるの? 誰かの墳墓?」
「もう、竈だってば。蒸せるようにドーム型をした、二階建てみたいな造りにしたいの。下に燃料を入れて、上に芋を転がして。できる?」
「貸して」
説明するや、器用に石を組み合わせてゆく。
見る間に竈が形作られてゆくのを横目に、みのりは素早く刀林処裏の倉庫へと忍び込み、必要なものを集めてきた。
とは言っても、材料は芋、そして燃料と布くらいだ。
みのりは腕いっぱいにそれらを抱えて、すぐに河原に戻ってきた。
「お待たせ。わ、すごい! もう竈ができてる!」
「ふふ、芋を入れた後に、ここの穴を塞げば完成だよ」
石ころクリエイターと化した由は、誇らしげにVサインを決める。
それから、みのりが持ってきたものを見て、不思議そうに首を傾げた。
「その布は?」
「濡らして芋に巻き付けるためのものよ。新聞紙が無かったから、倉庫に予備で置いてある天冠を使用。で、こっちはいわゆる鬼のパンツね。あくまで在庫で、未使用品だから安心して。麗雪情報では、耐火・耐水性に優れてるらしいから、アルミホイル代わりにいいかなぁと」
「鬼のパンツって、そんなに通気性が悪そうな仕様なんだね……」
繁がいたなら、死者の天冠や獄卒の衣服を調理に使うなんて、と青褪めそうなものだが、だいぶ地獄擦れしている由は、妙な観点でしみじみ頷くだけだった。
ちなみに、火力はこれまでだと死者軍団の人魂モードを頼りにしていたのだが、さすがに由一人に何十分も燃え続けてもらうのも忍びない。
かといって、獄内にまともな木は生えていないので――刃が生えていたり毒を持っていたりするものならある――、縄を短めに切ったものを油に浸して、薪代わりにした。
縄や油の本来の用途はお察しの通りである。
着火だけ由に手伝ってもらい、石をかちかちに加熱。
きれいに洗った芋を、濡れた布とアルミホイル代わりの衣服で包み、竈の中に放り込んでしまえば、準備は完了である。
「石で残りの穴も塞いで……あとは待つのみ、と」
「なんだか、調理っていうのが申し訳ないような調理だね」
「なに言ってるのよ。待つのも立派な調理行為の一部だわ。繁さんと一緒に料理をするとき、私は専ら『待ち』の担当だったもの」
由はなんとも言えない表情になったが、懸命にも突っ込みを飲み込んだようだった。
「……そ、そうだね」
「それに、人は待っても裏切るけど、料理は必ず完成するわ」
さらりと付け足した言葉に、今度こそ由は押し黙った。
ぱち、ぱち。
縄が焼ける音がする。
炎が上がり、あまりに火力が強そうに見えるときは、燃えていない先端を引っ張ってずらす。
そうやって、竈の中身が見えないなりに火力調整を続け、二人は黙々と縄を引っ張り続けた。
「あったかい……」
「焼けた石って、相当熱いものね」
それでも時折、石の熱に惹かれたようにぽつんと会話が生まれる。
石の隙間からは時々細く煙がたなびき、甘い匂いが広がり始めた。
みのりは、そっと目を閉じてそれを吸い込む。
やがて頭を振って思考を切り替え、とうとう立ち上がった。
「よし、そろそろかな」
持ち込んでいた三尺三寸箸で、石のいくつかを取り除き―みのりがやると竈が全壊しそうだったので、由が代わった――、隙間から芋を引っ張り出す。
濡れた河原の石の上に置くと、布でくるんだ芋はしゅっと小さな音を立てた。
それほどに熱いのだ。
火傷せぬよう、細心の注意を払って布を剥ぐと、蒸気の奥から芋が現れた。
皮はほどよく乾燥し、内側の身と離れているためかぼこぼことしている。
「はい、どうぞ。こっちは由くんのね」
「あっつ!」
あちちと言いながら手渡せば、由も熱さに驚いたように、せわしなく両手の間で芋を転がした。
「ええと、このまま割って、食べればいいんだよね?」
「そうよ」
ちょっと躊躇ったように問うてきたところを見るに、由はあまりこの焼き芋に、食欲は刺激されていないようだ。
さもありなん。
何度も食べたことのあるみのりにとっては、この時点で十分甘さを予感させる姿だが、一般的には、かなり地味な光景だ。
焼き芋が、本当に美味しそうに見える瞬間というのは――
「わ……」
熱さに顔を顰めながら、おっかなびっくり芋を半分に割った由が、感嘆の声を上げる。
掌の上では、真っ白な湯気と、黄金色に輝く断面が顔をのぞかせていた。
ふわ、と湯気が立ち上るたびに、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
乾燥した皮とは裏腹に、芋はずっしりと蜜を含み、潤んでいるかのようにさえ見えた。
手で折ったために割り口はぼこぼことして、じっと見つめていると、ぷくりと蜜が滲んでくる。
こく、と由が喉を鳴らした。
「いただきます」
小さく告げるその横で、みのりも一緒にかぶりついた。
いや、思い切りかぶりつこうとして、つい歯の先だけで齧ってしまう。
湯気越しですら伝わる、それほどの熱さ。
歯の先がちんとする感覚、それを追いかけるように、ねっとりとした甘さが口中に広がった。
「甘……」
隣では、由が驚いて声を上げる。
「え……っ、これ、砂糖入ってないよね?」
「もちろん。見てたでしょ」
さては、石焼き芋初体験だったか。
かつて自分が呟いたのと、まったく同じ感想を口にする由に、思わずみのりはにやついてしまった。
バターを混ぜた菓子のように、どっしりとコクのある甘み。
けれど、ふんわり漂う甘い香りはあくまで自然なもので、くどすぎない。
「思ってたより、美味しいでしょ?」
「うん……」
「ちなみにそれね、芋焼酎を垂らして、啜りながら食べると最高なんだから」
「みのりお姉ちゃん、オヤジだなあ……ううん……」
ツッコミにキレがないのは、食べるのに夢中になっているせいだ。
爪の先で皮を剥がし、はふはふ言いながら芋にかぶりつく由を、みのりは小さく微笑んで見守った。
「熱い?」
「うん」
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
やり取りに、かつての繁と、自分が重なる。
食べ物というのは――とにかく、ほかほかしていなくてはならない。
寒くて凍えそうになっていたみのりを掬ってくれたのは、いつだって、温かな手と、それが差し出してくれる温かな料理だったから。
脳裏にまた、あの日の光景が蘇る。
みのりは、火を失って少しずつ冷めてきた竈を、ぼんやりと眺めた。
「――ねえ、由くん」
下の方には、灰となった縄が燻っている。
「私、これからすごく、嫌なことを言う。だから、せめてあったかいものを握りしめたまま、聞いてね」
「え……?」
「由くんのお母さんは、やっぱり、来ないんだよ」




