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10.地獄の業火で炒めてやる(4)

「いてて」


 指先に走った痛みに、みのりは眉を寄せて唸った。

 皿に傷口が触れないよう、変に指を曲げてしまったのがいけなかったのか、人差し指に走った傷が開き、再び赤い血を滲ませている。


 つぅ、と滴りはじめた血を見ながら、みのりは「あーあ」と溜息を落とした。


「これ、治るまでに時間が掛かるかなぁ。繁さんに気付かれないといいんだけど」

「なんだおまえ、やはり先ほど切られておったのか? 見せてみろ。……あいや、傷口が大きいようならやはり見せるな。血は好かぬ」

「麗雪、あなたそれで獄卒って、ほんとどうなのよ……」


 馬頭鬼・豪炎を無事に仲間に引き入れてから、数刻。

 巨釜の麻婆茄子も一皿分を残すばかりとなったところで、みのりは席を立ち、一足早く刀林処裏の倉庫に向かっていた。

 豪炎の魔手から最後の一皿を守り、確実に保存するためだ。


 ちなみに麗雪は、倉庫に保管されている料理を見るのが好きなので、という理由で着いてきている。

 豪炎は釜に残った麻婆茄子をこそぎ取っているところで、繁や真は調理器具の片付けを始めているところだった。


「失敬なやつだ。流血に慄かぬおなごのほうがおかしいのだ。みのり、おまえ、先ほどはその状況でよく、豪炎のやつに平然と話しかけおったな。見ていてこちらの肝が冷えたぞ」

「その状況もなにも、指先をちょっと切られただけじゃない」


 みのりは躊躇いもせずに薄暗い庫内を進み、保管場所にたどり着くと、丁寧な手つきで皿と「封」の札を置いた。

 一方で、血をにじませた自らの指のことは放置したままである。


 それを見ていた麗雪は、小さく溜息を漏らした。


「のう、みのりよ。おまえ、自分に無頓着な奴よの」

「そう?」

「おう。豪炎を怒らせたら命が危うい。それくらい、おまえとてわかっておったろう? なのに、おまえは引くどころか、あの時ますます豪炎のやつを挑発しにかかったではないか。おまえは、怯えるとか怖がるということを知らんのか?」


 麗雪が呆れて指摘すれば、みのりは眉を顰めた。


「そりゃ、私だってひやっとはしたわよ。実際指を切断されてたら、たぶん泣き叫んでたと思うし、部位によっては死んでたかもしれないけど、……でもまあ、それだったら、一瞬のことじゃない」

「なんだと?」

「じわじわ死んでいくよりは、楽かな、ってこと。想像でしかないけど」


 なにげなく答えると、麗雪はいよいよ呆れの表情を深めた。


剛毅ごうきというか、愚かというか。よいか、おなごというのはな、ちっとは隙があったほうが可愛いのだぞ。おまえに怖いものや苦手なものはないのか」

「あるわよ。……冷たいご飯とか」

「冷たいご飯が怖い? なんだそれは。――はっ。まさか、饅頭怖いというやつではあるまいな」

「……麗雪って、意外にそういう現世うつしよの文化に詳しいわよね」


 ぼそりと呟くと、麗雪は誇らしげに胸を張った。


「まあな。獄卒同士の会話は殺伐とし過ぎて馴染めなかったものだから、代わりに現世の文化を亡者どもから聞き出しておったのだ」

「……へえ」


 なんとなく、みのりは、学校に馴染めない女の子が二次元に没頭してゆく様を思い浮かべた。


「で、だ」


 と、そこに、麗雪がにんまりと笑みを浮かべて迫る。

 彼女はみのりの肩を掴むと、ぐいと顔を覗き込んだ。


「おまえ、惚れた腫れたといった話はないのか」

「はっ?」

「あるだろう、おなごであるならば、浮いた話の一つや二つ! ガールズトークに秘密事は許さんぞ」


 なんでも麗雪によれば、「あの長官殿」に迫られておきながらあっさりと躱すみのりの恋愛観が、以前から気になっていたのだという。

 しかも今日になって、さらに「あの豪炎」からの求婚も華麗にスルーしていたので、これはどういう神経の持ち主かと、問い詰めずにはいられなくなったらしい。


「よいか。鬼的に見ても、長官殿の容貌は実に優れておるのだぞ。彼が『河原のお兄さん』だった時代のファンも多いし、卒業の日には、水子たちと踊るラストダンスを見に、賽の河原に行列ができたほどだ。しかも今となっては、獄卒から昇り詰め、閻魔大王陛下に次ぐ実力者。多少、腹黒さや、胡散臭さはあるが、そこがまた良いというのが、鬼女の総意だ」

「ツッコミどころは多々あるんだけど、なに『河原のお兄さん』って」

「賽の河原を担当する獄卒の俗称だ」


 もとは、子どもたちに罪を自白(うた)わせ、踊るようにして石塔を崩していく姿を差す表現だったようだが、宗の(外見上は)穏やかな笑みに、心を許す子どもたちも多くいたらしい。

 知り合いで言うと、由も、宗のことを慕っていたそうだ。


 みのりがなんとも形容しがたい表情でいると、麗雪はさっさと話を戻してしまった。


「さて一方の豪炎だが、実はこちらも、筋骨隆々の肉体と寡黙な雰囲気が、守ってもらいたい年頃の鬼女に大人気だ。多少空気の読めなさや攻撃力過多なところはあるが、そこもまた鬼としては魅力的とも言える」


 麗雪はそこで、肩に置いた手に力を籠めた。


「というわけでみのり、実際のところはどうなのだ」

「いや、どうと言われても」


 みのりは困惑に眉を寄せた。


「まず、豪炎さんはべつに、私を口説いてきたわけじゃないでしょ? それにそもそも、鬼と人間じゃ、その……種族が違うわけで。そういう対象として考えられないというか」

「姿かたちはほぼ同じではないか! 正直、私はイケメンの亡者に当たるとちょっと気合いが入るぞ!」

「そうなの?」

「滅多に遭遇しないがな!」

「でしょうね」


 雑に返してから、みのりは困ったように唇を歪めた。


「恋バナを期待されているところ悪いんだけど、……私、恋愛経験もないし、そういうの、よくわからないわ」

「なんと張り合いの無い。ならば、地獄で初めての恋をすればよいではないか。長官殿からはまだ時々ちょっかいを出されているのだろう?」


 庫内の一角を見て、麗雪がにんまりと笑む。そこには、宗がふらりと現れるたびに置いてていく酒の数々が、いつの間にかかなりの種類に渡り溜まっていた。


 それを見た瞬間、脳裏にあの涼やかな声が蘇った。


 ――みのり。そう。それが君の名前。


「…………」


 無意識に、口を引き結ぶ。

 同時に蘇った、心の柔らかなところを撫で上げられるような感覚、その正体がまさかときめきなどとは思えなかった。


(あれは単なる――恐怖よ。大切な名前を、鬼に呼ばれてしまったことへの)


 みのりは小さく首を振り、きっぱりと言い放った。


「ないわね」

「え」


 麗雪が目を丸くする。そんな彼女に、みのりはふんと鼻を鳴らしてみせた。


「どちらかといえば、嫌いだわ、あの人。繁さんを助ける力があるのに、助けてくれない」

「……どこまでも繁第一主義よの」


 呆れたように遠い目をした麗雪は、そこでふと顔を強張らせる。

 だが酒を見つめたままのみのりは、気付かず続けた。


「それに、たしかに美形なんでしょうけど、底意地の悪さが透けた顔だと思わない? 常に微笑んでるのも、余裕こいてる感じでなんだかむかつくっていうか。お酒はもらうけど」

「そ、そうか、よくわかった。あの、ところでだな」

「そりゃ地獄ではもてるんでしょうよ。でも、ちょっと迫れば女は落ちるぜ、みたいな雰囲気がね、なんかこう、いらっとくる感じ? お酒はもらうけど」

「お、おう。いやあの、みのり――」


 なぜだか麗雪は、先ほどまでノリノリで話を振ってきたくせに、青褪めて小刻みに首を振っている。

 みのりは若干の怪訝さを抱きながらも、勢いのまま続けた。


「思わせぶりに笑いかけて、お酒をちょっと寄越して、そのくらいで口説いてるつもりなら、片腹痛いわね。それくらいなら、料理を気持ちよく平らげてくれる豪炎さんのほうがいくらか――」

「――へえ」


 それから、ぎょっとして背後を振り向いた。


「興味深いね」


 そこには、美貌の鬼――宗が佇んでいた。

 彼は相変わらずの美しい微笑を浮かべ、優雅にこちらに近付いてくる。


「僕なりに、君が自分自身の意志で僕を選んでくれるよう、控えめに接していたつもりだけど、そうした配慮は全くもって無駄だったようだ」


 穏やかにすら見えるのに、今日に限っては妙な迫力があり、思わずみのりは顎を引いた。


「いえ、無駄……というか……」

「脅した方が早いのかな? 再審なんてうまくいくはずがない、さっさと血盟約を取り下げて、僕のものになったら、って」

「そんなの逆効果よ」


 宗の発言を聞くや、みのりは眉を吊り上げて噛みついた。


「お生憎様、今日だって馬頭鬼の豪炎さんを味方に引き入れたばかりだもの。再審までに、関係各者の胃袋を掴める予感しかしないわ」

「馬頭鬼を味方に、ねえ」

「食材も気前よく買ってくれそうな、頼れる味方よ。豪炎さんがいれば、少なくとも――」


 食材に困ることはない、と続けようとして、みのりは中途半端に言葉を切った。

 宗が、その瞳を剣呑に細めたからだった。


「――気に食わないなぁ」


 塑像のように整った容貌は、笑みを手放すと、途端に見る者を凍らせるような冷たさを孕む。

 硬直するみのりに、宗はまた一歩近付いた。


「そう何回も、ほかの男の名前を呼ばないでくれる? 僕も僕なりに、君に心を砕いているというのに」


 それに、と、彼はみのりの腕を取った。


「これは、なに?」


 彼が落とした視線の先には、未だ血を滴らせる指の傷があった。


「べ、べつに――」


 みのりは咄嗟にごまかした。

 なぜだか、詳細をこの男に知られない方がいいような気がしたのだ。


「料理中にちょっと切っただけよ」

「ふぅん? 利き手を? ……ねえ、麗雪」


 宗は端から信じていない様子で頷くと、さっさと矛先を麗雪に切り替えた。


「教えて?」


 短く、問う。


「……は。みのりが料理を駆け引きに使おうと、食事中に豪炎から皿を取り上げたところ、豪炎が苛立ち、皿の縁を切り落としました。その時にできた傷です」

「ちょっと、麗雪!」


 麗雪にあっさり事情を暴露されてしまい、慌てる。

 宗は答えを聞くと、ますます不愉快そうな顔つきになった。


「ふぅん。じゃあ、豪炎に、付けられた傷なんだ」

「……左様で」


 渋々、といった様子で、顔を強張らせた麗雪が答える。

 それを聞いた途端、宗はみのりの指を口元に引き寄せた。


「なにを……」


 そして――ぺろりと血を舐め取った。


「僕以外のために、血を流すだなんて論外だよ」

「…………!」


 みのりは予想外の言動にぎょっと目を見開き、そして、見る間に傷口が塞がっていくことに気付いて、もう一度驚いた。


「なに、これ……」

「手当て。兼、消毒」


 宗は言い切ると、固まるみのりの頬をそっと撫でる。


「これでも、僕は君のことをかなり気に入ってるんだけどな。もう一度だけ聞くよ、みのり(・・・)。血盟約を取り下げて、僕のものになるつもりはない?」

「あるわけ、ないじゃない……」

「そう」


 冷えた手は、ややあって、ゆるりと離された。


「残念」


 その言葉は、いつもの穏やかな笑みに覆われしまい、真意が窺えない。

 戸惑い、立ち尽くすみのりに、宗は日本酒と思しき瓶を押し付けると、「じゃあ」と軽く手を挙げた。


「今日は、この辛そうな料理をもらっていこうかな」


 軽く呟く。

 ふわりと冷たい風が捲き起こり、次の瞬間には、麻婆茄子を載せた皿ごと、姿が消え去っていた。


「ちょっ、麻婆茄子……! んもう、なんなのよ、いったい――」

「ぅはあああああ!」


 宗の言葉に引っ掛かりを覚え、みのりは眉を寄せたが、困惑の独白は、隣から響いた盛大な溜息に掻き消された。

 振り向けば、麗雪がぐったりした様子で蹲っている。


 どうしたの、と問えば、彼女は責めるような目でみのりを見上げてきた。


「おまえが下手に逆らうから、私が巻き込まれたではないか。久々に鬼気を込めて名を呼ばれたぞ」

「鬼気……?」

「鬼が宿す力のことだ。強い鬼気を込めて名を呼ばれれば、従わずにはおれぬ。おまえ、長官殿に名を呼ばれて、よくも平気で立っていられるな」


 私など未だに眩暈がするわ、と嘆かれて、みのりは一瞬黙り込んだ。

 名を呼ばれても、平気でいられる理由。


(心当たりなら……ひとつだけ、ある)


 無意識に自らの両腕を抱きしめる。

 ふいに、あの寒い日の光景が、脳裏によみがえったからだった。


 靴ごしにすら、じわりと足裏を刺す地面の冷たさ。

 細くて頼りない手足、涙で揺れる視界。

 がさりと、ビニール袋を鳴らす音。ほんのり漂う、甘い匂い。


「みのり? どうした?」


 立ち尽くすみのりを不審に思ったらしい麗雪が、首を傾げる。

 我に返ったみのりは、「なんでもない」と答え、頭を振った。


 宗の怒りは、思いのほか恐ろしかった。

 彼の謎めいた態度も、妙に引っ掛かる。

 だが今は、とにかく再審だ。


 この小地獄はほぼ掌握した。

 となれば後は、獄外で沙汰に関係する人物まで対象を広げ、その懐柔に乗り出さねばならない。


(絶対……繁さんの地獄行きを覆してみせる)


 みのりは、手に持ったままだった酒瓶を、きゅっと握り締めた。

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