9.地獄の業火で炒めてやる(3)
「お待たせしました」
完成の興奮も冷めやらぬうちに、みのりは恭しく「マーボーナス」とやらを皿に取り分けると、そっと豪炎たちの前に置く。
それから、真っすぐに瞳を覗き込み、告げた。
「あなたはまだるっこしいことは嫌いそうだから、この際はっきり言ってしまうわ。どうぞ、この料理を食べてみて。それで、もし少しでも美味しいと思ったなら、私たちに力を貸してほしい」
凛とした口調に、嘘偽りはない。先程の毅然とした指揮ぶりも相まって、彼女の姿は、さながら尋常に名乗りを上げて勝負を挑む武士のようだった。
「……さして美味しくなかったら?」
「そのまま受け流してくれればいい。得意でしょう、流すの?」
どちらに転んでも、互いに損はないということだ。
豪炎はやり取りを打ち切ると、目の前の皿に集中した。
いや――応酬を続けるのがもどかしい、と思えるほどには、目の前の料理に関心を奪われていた。
ふわりふわりと、白い蒸気をたなびかせる一品。
「ナス」という名の野菜は、鮮やかな紫色の皮でてらてらと光りを弾き返し、細かく砕かれた「ネギ」は、ひき肉やたれと絡み合いながら、たっぷりとナスにまとわりついている。
白い皿の縁には、透き通った赤い油が浮き、それはなぜか、ひどく豪炎の胸を騒がせた。
辺り一面に漂う「ニンニク」の香りと、焼けた肉の匂い。
そして、吸い込むたびに鼻の内側がかっと焼けるような、刺激に満ちた香りが、彼になにかを予感させる。
豪炎は無言で箸を差し込み――食器類は麗雪が一通り用立てていた――、どっしりと重みすら感じるそれを、静かに口に運んだ。
そして、
「――…………!」
思わず、カッと目を見開いた。
これまでに経験したことのないような速さで、様々な感触と味わいが、一斉に彼に襲い掛かったのだ。
噛めばじゅっと音がするほど、ふんだんに油を吸った「ナス」の感触。
舌にとろみを残すほど、濃厚な「ネギ」の甘さ。
ひき肉の香ばしさ、それらを包むたれの奥深い塩味、そしてなにより――
(舌が……痺れる……!)
それらを怒涛の勢いで押し流す、圧倒的な、辛さ。
口に含めばたちまち、舌が反応してじゅわりと唾を湧き上がらせる。
五感すべてに殴り掛かってくるような刺激の強さに、豪炎は最初それが「辛み」という感覚だとは気付かなかった。
感じるのはただただ、舌を刺す痺れと、あとは熱だ。
はっきり言って、痛い。
焼けるような痛み。
しかし、――その奥に、得も言われぬ、旨みがある。
(なんだ……なんなんだ……)
豪炎は、真実を求める信徒のように、ただひたすら箸を操る。
途中、箸では十分にタレが掬えないことに気付くと、麗雪が掲げていた匙を引ったくり、がつがつと食べた。
(辛い……むしろ痛い。が、舌が辛みに覆い尽くされるその直前、一瞬だけ閃く、至上の味わいがある……。いや、直後か? 辛いのに、辛さを乗り越えるや、たちまち次のひと口が食べたくなる)
その至上の味わいは、捉えた矢先にひらりとすり抜け、近付くほどに遠ざかる。
豪炎は、もはや中毒者のように、絶え間なく匙を振るって味を追いかけ続けた。
(辛い……うまい……辛い……だがうまい……うまい……!)
止まらない、と言った様子で匙を繰る。
その隣では、麗雪が涙目になって茄子を口に運んでいた。
「う、うま……っ、うまひ、のだが、か……っ、かはい……! のだが、止まらぬ……!」
彼女もまた、豪炎ほどではないにせよ、辛さと美味さの二重奏に、すっかりはまり込んでいるようである。
「さ、喉が渇くでしょう。こちらもどうぞ」
タイミングを見計らい、みのりはさらに錫の容器を差し出す。
そこには、きんと音が鳴りそうなほどに冷やされた、黄金色に弾ける液体が湛えられていた。
「これは……?」
「ビールというお酒よ。さ、ぐいっと」
促されるまま含んでみれば、たちまちしゅわっと泡が弾け、口内を駆けてゆく。
マーボーナスで焼けただれたようであった舌が一気に冷やされ、その爽快感に豪炎は目を見開いた。
うまい。
初めて感じる喉越しと苦みに、驚きもあったが、それ以上の快感に、ついごくごくと飲み干してしまう。
酒精は軽いようだが、その分止まらぬ美味さがある。
飲めばぐびり、と鳴る音までもが、実に愉快な酒だった。
(それに……――)
この酒を飲むと、舌がすっきりする分、また料理のひと口が欲しくなる。
彼は左手にビール、右手に匙を持ち、がつがつと両者を流し込んだ。
もう、夢中だった。
「なんか……願ったりの展開とはいえ、馬の兄ちゃん、ちっとこう……ヤクでいっちまったような顔つきしてんな……」
「ある種、そうかもね」
獄卒たちの反応に引いたらしい真が、顔を引き攣らせて呟けば、みのりはほくそ笑む。
その脳内では、大学の心理学講義で学んだ内容が蘇っていた。
人は過剰な痛みに接したとき、それを鎮静すべく脳内麻薬を分泌する。
そして、辛みとは、厳密には「味覚」ではなく、痛覚と温覚で感知される「刺激」、つまり痛みだ。
今彼らは、過剰な痛みを己の脳内麻薬によって宥め、それに酔うことでさらなる刺激を欲し、というサイクルに嵌まっているのだ。
「そろそろ、駆け引きに持ち込むべきタイミングかしら……ふふふ」
「みのりちゃん、どんどん悪い顔になってるよ……!」
繁の嘆きを聞き流し、みのりは豪炎に近付いていく。
そして彼の腕から、まだ半量ほど中身を残した皿を、ぱっと取り上げた。
「なにを……っ」
「――さあ」
ずしりと重い皿を掲げたまま、にぃ、と口の端を持ち上げる。
我ながら、嫌らしい笑みを浮かべているだろうことがわかった。
「最初に話したことを覚えてる? もし少しでも美味しいと思ったなら……これをもっと食べたいなら、私たちに協力、してくれるわよね?」
「…………」
「具体的には、再審まで食い繋げるだけの食材――あなたたちが言うところの『現世飯』の食材を、買ってきてもらいたいの。豪炎さん、あなた、ガッポリ貯め込んでるんでしょう?」
「みのりちゃん……! 顔つきも言い回しも悪役のそれになってるよ……!」
皿を抱えたまま、指で銭のポーズを示してみせると、繁がさめざめと嘆く。
が、気にしない。
誰になんと思われようとかまわない。繁のことさえ助けられればいいのだ。
だから――馬頭鬼が身震いするような鋭い眼光で睨み付けてきても、まったく堪えなかった。
「……みのり、と言ったな」
「そうよ。さあ、食べるの? 食べないの?」
「み、みのり……これでもこやつは、無間地獄勤務だった獄卒ぞ。も、もう少し穏やかにだな……」
麗雪ですら緊張で顔を強張らせるような、豪炎の殺気立った形相。
しかしみのりは、それを微笑んで受け止めてみせた。
――きんっ!
ただ、次の瞬間に響いた硬質な音には、さすがに目を見開かざるを得なかった。
「え?」
戸惑い、視線を周囲に走らせる。
まるで金属がなにかとぶつかったかのような音だったが、特にどこにも、衝突を示す痕は無い。
が。
――ふ……っ!
突然、重い皿を持っていたはずの両手がふっと軽くなったので、みのりはぎょっとした。
「えっ!?」
見れば、皿の縁を掴んでいたはずの指は、ただ「皿の縁だけを掴んでいる」。
いつの間にか、丸い皿の両端が切り落とされ、四角みを帯びた皿と中身は、豪炎の腕によって抱きかかえられていた。
「取るな。俺のだ」
「…………!」
さすがに、絶句する。
あと一センチずれていたら、指が切断されていたのだと思うと、どっと冷や汗が滲んだ。
いや――。
今頃になって、つぅっと、右の人差し指の側面になにかが伝う気配を感じる。
視線を向ければ、そこには淡く一筋、紙で切ったような赤い血が滲んでいた。
「さ、皿が……!? え!? な、なに!? 指、無事!? み、みのりちゃん、無事!?」
みのりが驚くくらいなのだから、繁はもはや恐慌状態だ。
豪炎はと言えば、軽く片眉を上げてこちらを見ている。
牽制。
あるいは、脅し。
相手の意図を悟ったみのりは、とっさに繁から指を隠した。
みのりの負傷や無茶をなにより嫌う彼のことだ。ばれたら交渉どころではない。
「平気よ。――ねえ、豪炎さん」
みのりはさりげなく皿の両端をテーブルに置き、ゆっくりと口を開く。
視界の隅では、青褪めた麗雪がこちらを止めようと身を乗り出していた。
これ以上豪炎を怒らせたら、次は命が危ないとでも思っているのだろう。
だが――それほどこちらの料理にのめり込んでいるのなら、望むところだった。
――ばんっ!
みのりは、無事な左手で、強くテーブルを叩いた。
「麻婆茄子」
「…………?」
相手が怪訝そうな顔になったところに、上から目線で言い放つ。
「それが、その料理の名前。他と混同しないで、よく覚えておいてね。麻婆豆腐。トムヤムクン。担々麺、チゲ、ソムタム……辛くておいしい料理は、他にもまだまだいっぱいあるから」
「…………!」
豪炎が静かに息を呑んだところに、みのりはにっこりと微笑んだ。
「私が五体満足でいられたなら、いつか作ってあげる。そのためには、食材と、それを買うための先立つものが必要なのよ。わかるでしょ?」
豪炎はじっとこちらを見つめてきた。
みのりもまた目に力を籠め、見つめ返す。
けっして、動揺を悟られるな。
自分にそう言い聞かせて、彼女は笑みを深めてみせた。
「ねえ。今、体が火照ってるでしょ。汗が噴き出るでしょ。それってすごく、生きてる、って感じがしない?」
「…………」
「あなた、いつもつまらなそうな顔をしてるわよね。でも、これからは違うわ」
話の着地点が見えないのか、豪炎が怪訝そうに眉を寄せる。
その彼に、みのりはぐいと顔を寄せ、言い放った。
「協力してくれるなら――私が、あなたの日々を刺激的にしてあげる」
しばしその場には、落ちた針の音が聞こえそうなほどの沈黙が下りた。
やがて、豪炎は不意に興味を失ってしまったように、皿に視線を戻す。
それから彼は、勢いよく皿の中身を喉に流し込み、飲み下すと、口を甲で拭いながら、みのりのことを仰ぎ見た。
「みのり」
「なに?」
みのりは、平静の仮面をかぶって、ゆっくりと答える。
が、それを弾くほどの勢いで、どんっ、となにかが卓上に投げ出された。
びくりと肩を揺らし、――しかし、その正体を認めると、みのりは目を見開いた。
投げ出されたのは、紐を通された円形の金属。
大量の、貨幣だった。
「ひとまず、百万ほどある。足りるか」
こちらの貨幣単位はわからないが、ぎっしりと蛇のような形で連なっていることと、麗雪がぎょっと息を呑んでいることで、大金なのだということは察せられる。
掠れた声で、「え、ええ……たぶん」と頷くと、あまり表情が動かないらしい馬頭鬼は、淡々とした顔で、「ん」と欠けた皿を差し出した。
「お代わりをくれ。ビール、とやらも」
「あ、はい……」
「皿も今度、もっといいやつを買ってくれ」
「あ、はい……」
「あと、みのり。おまえをくれ」
「あ、は……――は?」
はい、と頷きかけて、みのりは胡乱げな顔つきになった。
「……今、なんて?」
「おまえをくれ。嫁に来い。大切にする。なので、毎日辛い料理を作ってくれ」
聞き間違えようのないプロポーズだ。
だが、明らかに料理目当てでしかないことが駄々洩れなプロポーズでもあった。
「な、なに言ってるんですか!? ねえ、あなた、うちの子に出会って数刻でなに言っちゃてるんですか!? っていうか鬼でしょ!? 獄卒でしょ!?」
求婚された本人より、なぜか繁の方が動揺して叫んでいる。
テーブルにばんっと手を突き詰め寄る繁から、豪炎はさりげなく皿を守っていた。
「あの長官もそうだけど、なんかね、あんたたち、そういうことを軽々しく口にしすぎなんですよ! くれくれってね、猫の子じゃないんですよ!? そういうのは、好き合った者たちが、時間をかけて決めるものでしょ!」
繁が叫ぶと、豪炎は無表情のまま応じた。
「ならば心配は無用だ。俺はみのりに対して、これまで他者に感じたことがないほどの好意を感じている」
「単純に激辛料理が気に入っただけでしょ!?」
「先ほどから興奮のためか汗も滲むし、胸も高鳴って、生きている実感がする。たぶんこれが恋だ」
「いやだからそれ単に唐辛子のせいでしょ!?」
「手まで若干震えてきた。恐らくこれが、会いたくて震えている状態だ」
「違うよカプサイシンだよ!」
一向に噛み合わない会話に、繁は再度テーブルを叩くと、勢いよくみのりに向き直った。
「みのりちゃん! こんな甘言に乗せられたらダメだよ! ま、まだ、結婚なんて……というか、鬼となんて――」
「あ、繁さん、そのお皿の破片危ないよ。貸して、私、先に捨ててくる」
が、みのりはそれ以上に噛み合わない返事を寄越してくる。
というか、豪炎と繁のやり取りの一切に頓着していない様子だった。
「あ、遮ってごめんね。私のために叫ぶ繁さん、本当に素敵よ。どうぞ構わず続けて?」
「いや……続けてっていうか……あの、今、彼に、みのりちゃんがプロポーズされてたんですけど……」
「あはは、ないない」
みのりは軽やかに手を振る。
戸惑う繁に、彼女はなんでもないことのように説明した。
「すぐに刀を振り回す男ってどうかと思うし」
「む……」
「それに、一獄卒に嫁入りしたところで、沙汰は覆らないだろうし。っていうかそういう手段、繁さんにダメって言われたじゃない? お金は頂戴したから、私の用は済んだっていうか、特にときめく余地はないっていうか」
生真面目に繁の言いつけを守る姿勢とは裏腹に、言っていることはえぐい。
それからなぜか、みのりは少し照れたように付け足した。
「だいたい、料理が気に入ったからって、私に求婚するっていうのが間違ってるのよ。だって、これは、繁さんのレシピと、みんなで作った――つまり、みんなでもぎ取った勝利じゃない」
「嬢ちゃん……」
へへっ、と笑いながら告げるみのりに、真がぐっと来たように息を呑む。
それから彼は、ばしんとみのりの肩に腕を回した。
「あんた……つくづく男前な嬢ちゃんだよ……!」
「いやでもここ別に男ぶりを上げるべき局面じゃないよね!?」
いきなり斜め上に駆け上がっていった展開に、繁が思わず突っ込む。
豪炎は一連のやり取りを見守ると「なるほど」と頷いた。
「俺が間違っていた。この胸の高鳴りは侠気への感動だった。求婚は撤回する。斬りつけたのも謝るから、俺も仲間に入れてくれ。ともに地獄の激辛王を目指そう」
「あっさり少年漫画路線に転向しやがったこの鬼!」
そして、かなりさくっと身を引いた豪炎に、繁が愕然とする。
養い子を鬼になどやりたくない、かといってあっさり撤回されるとなにか残念な気がする。
そんな複雑な心境が滲む表情だった。
「激辛王は目指さないけど、仲間にはぜひなってもらうわよ。獄卒や鬼の食嗜好をレクチャーしてもらわなきゃ」
「承知した。嗜好についての指南も任せろ。鬼はおしなべて辛いものと酒が好きだ」
「待て豪炎、私は揚げ物の方が好きだ」
「む。ならば辛い揚げ物。これで解決だな」
「いや、二人の好みじゃなくて、鬼全体の好みを聞いてるんだけど」
振り上げた拳の置き所を悩む繁をよそに、みのりたちはわいわいと話し合っている。
議論は一瞬盛り上がりを見せかけたが、「ところで、お代わりはまだか」という豪炎の一言によって、あっけなく収束した。
巨釜いっぱいに作った麻婆茄子を取り分け、豪炎を中心にみるみる平らげていく。
早くも底を見せはじめた釜を覗き込み、みのりは満足げなため息を漏らした。
これでこの小地獄を統べる獄卒二人は仲間に引き入れたし、再審までの日々を食い繋ぐ見通しもついた。
指を切られた時にはひやりとしたが、今回もまた――
「勝利」
みのりは、傷ついた右指を、拳を握ることで隠し、呟いた。
性格悪い主人公ですみませんw
こんな感じでまだもう少し続きますが、お付き合いいただけますと幸いです。
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