0.プロローグ
大きな鍋に、潰したにんにくとオリーブオイルを放り込む。
じゅわっと音を立てて、香ばしい香りが辺りいっぱいに広がったところに、厚切りにしたベーコンを投入。
揺すらず、振らず、じっと待つこと数分。
じじ……とベーコンが鳴き、表面にふくふくと油が弾けてきたあたりでひっくり返し、かりっと仕上げる。
そこに、硬めに釜茹でしたパスタを加え炒め、これだけで準備は完了だ。
それを、今度は大きなボウルに移す。
卵と粉チーズを、こんもりと盛ったボウルにだ。
混ぜて、混ぜて、また混ぜて。
未だほかほかと湯気を立てた麺に、卵が、粉チーズが、もったりと絡みついてゆき、とろけるような色合いを呈するようになる。
この時点で、ボウルから立ち上る濃厚な匂いに、誰かがごくりと喉を鳴らした。
麺が冷めぬうちに、皿に取り分け、仕上げにガリリと黒胡椒を削る。
そうすればあっという間に、カルボナーラの完成である。
「皆さん、今日もお疲れ様でした! では早速食べましょう! 勝利ー!」
風通しの良い広い空間に、そんな不思議な掛け声が響く。
人の輪の中心に立ち、最初に声を上げたのは、大学生くらいと見える年頃の少女だった。
艶やかな黒髪に、少しだけ釣り気味の大きな瞳。
どこか気まぐれな猫を思わせる、なかなかの美貌の持ち主だ。
「勝利ぃいい!」
一方、即座にそれに唱和したのは、多くは年かさの男性陣である。
よほど腹が減っているのか、自分の皿を確保するや、たちまちそれを口に運んでゆく。
「うおお……っ」
「んま……っ」
一拍置いた後、辺りからは次々とそんな唸り声が上がった。
口元に近付けるだけで、ふわりと鼻腔をくすぐる胡椒の香り。口に入れるや、たちまち広がる濃厚な味わい。
麺を噛めば、とろけるようなソースが舌に絡み、ベーコンを噛めば、かりっとした感触の後に、脂の甘みがこっくりと広がってゆく。
誰もが恍惚とした表情を浮かべ、夢中でカルボナーラを貪りつづけた。
――いや。
ただ一人、浮かない、というより、困惑の表情を浮かべて、周囲を見回す者があった。
ぽっちゃりとした体つきに、子犬のようにつぶらな瞳。
中年なのだが、どこか気弱さを感じさせる男性である。
「どうしたの、繁さん? 足りなかった? もっといる? 私の分あげようか? あーんする?」
「いやいい。ほんとにいい。そうじゃなくて……みのりちゃんも、なんだか随分、ここの暮らしに馴染んだなあって思って……」
みのり、と呼ばれた少女は、引き気味の繁の皿に、強引に――もとい、かいがいしくカルボナーラを分けてやりながら、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「そりゃ……自分でもそう思うけど。え、なにか問題あるっけ、それ?」
「いや……」
繁は言葉に窮して、再度辺りを見回した。
手近なものをテーブル代わりにし、和気あいあいとカルボナーラを食す男たち。
時にどっと笑い声を上げ、活気よく食べ進める彼らと、それを笑顔で見守るみのりは、さながら寮生と寮母のような図だ。
「みんなで料理して、同じ釜の飯を食べて団結を強める日々。問題どころか、人間関係に希薄な現代人にとって、得難い素敵な生活だよね」
「いや……その、釜の種類が問題というか、状況が根本的に問題っていうか……」
ぼそっと呟く繁の視線の先には、先ほどまでパスタを茹でていた巨釜があった。
大きな大きな釜。
具体的には、そう、地獄で獄卒が罪人を煮るのに使えるほど、大きな釜だ。
「お腹が空いてるからそんなこと言うの? もっと取り分けよっか? あーんする?」
「だから、いいってば! っていうかお願いだから、三尺三寸箸を、菜箸代わりに使わないで……!」
「おうおう、どうした繁坊。嬢ちゃんと俺たちが一生懸命作ったカルボナァラを食わねえなんて、父親の風上にも置けねえ奴だぜ」
とそこに、老年の男性が、べらんめえな口調で繁の肩に腕を回してくる。
彼は癖なのか、額に巻いた三角の布でがしがしと短髪を掻きながら、陽気に笑った。
「今日の飯もうめえなあ! みのりちゃんよぅ、あんたと繁坊が来てからこっち、俺たちの食生活は随分向上したし、日々やることもできて、感謝しかねえぜ」
「いえいえ、むしろ真さんはじめ、皆さんに、私たちが協力してもらってる立場だもの。調理器具はどうにかできても、火力は皆さんの人魂モードが頼みだからね」
「かー、謙虚よな。気風もよくて指揮も上手、度胸も随分据わってる。繁坊、あんた、いい娘を持ったじゃねえか。俺が生きてる頃に出会えてりゃなあ」
口癖になりつつあるフレーズを今日も嘯く彼は、白装束を身にまとっている。
厳密に言えば、彼だけでなく、隣に座す繁も、カルボナーラをがっつく男性陣も――つまり、みのりを除く全員が、白装束と、天冠と呼ばれる三角布を着けていた。
それだけではない。
彼らの背後に横たわる調理器具たち。
先ほどまで、パスタを茹でたり、ベーコンを炒めたり、にんにくをすり潰したりするのに使ったものはすべて、それぞれ罪人を茹でる釜だったり、焼き殺すための鉄板だったり、挟み潰すための拷問器具であった。
のどかにアウトドアでの食事を楽しむ彼らの周囲には、青空と山と静かな湖の代わりに、赤黒い闇と焦土の山と、泡を吹く血の池が広がっている。
そう。
ここは、生ある者が住まう閻浮提を下ること四万由旬、奈落の底に広がる闇の世界。
生前の罪を裁かれ、名を奪われた亡者たちが、その罪を贖うべく、苛烈な責め苦を負わされ続けるという――いわゆる、地獄、なのである。
「あ、そうだわ、血の池であっためてた温泉卵、食べごろかもしれない。繁さん、温玉乗せにするの、好きでしょ? いくつか取ってくるわね!」
八大地獄の一門、黒縄東第十六小地獄。それがこの場の正式名称だ。
だが、みのりはその禍々しい看板を全力で蹴り倒すような朗らかさで、ぱっと席を立っていく。
その横顔には、達成感による笑みが浮かんでいた。
(真さん率いる死者軍団との仲は、今日も良好。人魂の火力調整も随分うまくなったし、拷問用釜の扱いにも、だいぶ慣れたわ。そろそろ、閻魔大王や、あのいけすかない長官の胃袋も掴めるレベルかしら)
いけすかない長官の、やけに整った顔を思い浮かべた辺りで、みのりはしかし、無意識に眉を寄せる。
「やあ、今日もいい匂いがするね」
背後から美声が響いたのは、ちょうどそんなタイミングだった。
「…………!」
みのりは素早く振り向く。
それから、腕を組み、繁に向けていたにこやかな表情を完全に投げ捨てて、冷たく目を細めた。
「出たわね、長官殿。今日はどんなご用向きで?」
「『宗』と呼んでいいと言ったのに。……ねえ、その、台所の黒い悪魔を見るような目つきやめてくれる? せっかく、意中の女の子の様子を見に来たっていうのに、傷付くなあ」
なにもなかったはずの空間から突然現れたのは、すらりとした体つきの美貌の青年である。
高い鼻梁に、形のよい唇。切れ長の瞳は、無造作に肩でまとめた黒髪と同様、男性だというのにどきりとするような艶を帯びている。
大陸風とでも表すべき、道服と呼ばれる衣装をまとった彼――宗は、中華コスプレ愛好者の気だるげな美丈夫、と括れなくもない。
が、特筆すべきことに、その瞳は赤く、耳は鋭くとがり、頭上には一本の角が生えていた。
「冥府の鬼に、傷つく感受性があったなんて驚きだわ」
鬼、という、現実にはありえない存在を前にしても、みのりはもはや動じない。
いや、鬼という属性を差し引いても、これだけの美貌の持ち主に微笑まれたら、普通の娘なら多少は頬を赤らめたろうが、みのりは至って平然と、塩対応を維持しつづけた。
「気になる子の言葉は、特別響くんだ。傷付いた僕を撫でて抱きしめてくれていいよ」
「可哀そうに。塩を塗り込んであげましょうか。あと近い。寄らないで。出口はあっちよ」
「ひどいなあ。せっかく、酒が大好きな君のお養父さんに喜ばれそうな、おいしい赤ワインを持ってきたのに。今日の品書きにもぴったり」
「ちょっと座っておしゃべりでもしていく?」
そして、繁の好物をちらつかされて、ぱっと掌をひっくり返した。
その鮮やかさには、さすがの鬼も若干表情を引き攣らせるほどである。
「……相変わらず、清々しいほどのファザコンぶりだね」
「やだ、照れるわ」
みのりはワインを受け取りながら、しげしげとラベルを眺める。
「高そう。もしかして、これを受け取ったらまた、『嫁になれ』みたいな対価が発生するの?」
「結納をワイン一本で済ませるほど、落ちぶれてはいないつもりだよ」
「なら頂くわ」
きっちり確認を済ませてからワインを引き寄せたみのりに、宗は首を傾げた。
「もしかして、君のお養父さんの好物を山と用意すれば、君はあっさり僕の妻になるのかな」
「ないわね。まずない」
「頑なだねえ。君は、お養父さんの地獄行き判決を覆したい。僕は、閻魔大王陛下に一番近しい側近で、かつ君に興味を持っている。断る理由がわからないんだけど」
「あなたとは、楽しい食事ができそうにないもの」
そっけなく告げて傍をすり抜けると、宗は「ふうん?」と不思議そうな声をあげた。
「それが君の結婚に求める条件なんだ?」
「というよりは、繁さんの言い付けよ。楽しく食卓を囲めると思う相手としか、付き合っちゃいけませんってね」
しゃがみ込み、湯気をたなびかせる血の池に躊躇いもなく手を浸す。
卵を収めた籠ごと引き上げると、みのりは重さを確かめるように軽く揺すり、頷いた。
「繁さん、あれで結構頑固親父だから――そこがまた素敵なんだけど。私を鬼の嫁にやるくらいなら自ら地獄に落ちてやるって、そう宣言したからには、ほんとにやると思うし」
「……彼には従順だねえ」
冥府の長官は、薄い唇に皮肉げな笑みを浮かべた。
「君たちって、本当に養父と養女? 義理の親の地獄行きを覆すために、自ら進んで地獄に留まるなんて、わりと狂気の沙汰だよ?」
「正気だし、本気よ」
言い切って、立ち上がる。
それから、肩越しに相手のことを睨みつけた。
「言いたいことがそれだけなら、もう帰ってくれる?」
「ちょっとおしゃべりでもって、さっき君が言ったのに」
「したでしょ。今終わったのよ。沙汰を覆してくれる見込みがないんじゃ、これ以上話しても時間の無駄だわ。文明の利器がないぶん、とっても忙しいの」
みのりがきっぱり告げると、宗は大仰に両手を挙げてみせた。
「だから、ひとつ頷きさえすれば、いくらでも甘やかしてあげるのに」
「私が繁さんと約束する前に頷かせればよかったのよ。私は、繁さんのためならどこにでも嫁入りする用意があったっていうのに」
みのりが息を鳴らすと、宗は肩を竦める。
男のものになるも、ならぬも、養父のため。あまりに色気のない回答だったためだ。
「やれやれ。君たちの間にはどんな因果があるのかねえ。……ぜひ、君の口から語ってもらいたいところだけど」
彼はみのりを振り向かせ、くいとその顎を取った。
「ちょっと、近――」
「困ったら、いつでもお呼びよ。僕が君への興味を失わないうちに、ね」
また鬼お得意の宴にでも出ていたのだろう、酒の匂いの混ざった、甘い囁き。
人間ではありえない完璧な美貌で覗き込まれ、さすがにみのりが息を呑むと、宗は静かに笑った。
「ねえ。君の名前を教えてよ。このワインのお礼に、それくらいは許されるだろう?」
「知ってるくせに。どうして毎回それを聞くの?」
「君の口から聞きたいからだよ」
この鬼は、乱暴なことはしない。物腰も柔らかく、いつも笑みを浮かべている。
みのりの顎を掴む力も、ごくごく優しいものだ。
だがその優しさと、穏やかさが、――時々、ひどく恐ろしい。
自分たちを生かすも殺すも彼次第。すべてこの男の掌の上という気が、するから。
「……みのりよ」
「そう」
聞き出しておきながら、その答えを聞くと、宗は興ざめしたようにぱっと顎から手を離す。
それから、「それじゃあね、みのり」と呟き、一歩後ろに下がった。
途端にざあっと冷たい風が吹き、宗の体はそれに溶かされでもするように、輪郭をぼやけさせてゆく。
風がみのりの髪を巻き上げ、それが元の位置に戻る頃には、宗の姿は消えていた。
みのりは風に漂う残り香を睨むがごとく、じっと宙を見つめる。
ついで、籠を持った手を、きゅっと握った。
「――ふん、見てなさい」
猫のように大きな瞳に、凛とした光が浮かぶ。
「あなたの力になんか頼らなくても、獄卒や閻魔大王の胃袋を掴んで、絶対に繁さんの沙汰を、覆してみせるんだから」
その声には、苛烈といって差し支えない意志が滲んでいた。
みのりがなぜ、地獄なんかで日々調理をしているのか。
それを説明するには、時をいくらか遡る必要がある。
そう。
あの、寒い寒い、通夜の日にまで――。