―伊勢 大内山―
伊勢という土地は南北に長く、気候は土地という土地で様々にあるが、総じて言えば雨の良く降る事で知られている。特に、伊勢中部並びに南部はたびたび癇癪を起こして土地の者に暴風と洪水を浴びせる気難しい性格で知られていた。また伊勢と大和にまたがる大台ケ原は世界でも有数の降雨地帯として、年中雨が降っていると云っても過言ではない。
伊勢から大台ケ原を越して行けば紀州の東部に出る。丁度越した辺りは尾鷲と言い、台風が列島に渡りをつけて来るに及んでは、必ずと言って良い程そこを通って来て、多量の雨風を用もないのに押し付けて来た。どの時代においても、尾鷲に台風が踏み込んで来るのは変わらず、尾鷲の傘は他所に比べて丈夫に出来ていた、とさえ言われる程だった。
南伊勢から紀州の東端にかけては人も少なかったが、列島を惨禍に包んだ第四次世界大戦以降は、我が物顔で列島に進駐する列強諸国の面々すら入るのに躊躇う鬱々とした雨と獣道の村々に故郷を追われた人々が大勢やって来て、不幸中の幸いに、潰れ掛けの村々は過疎から過密へ一気に変わってしまった。隣近所は数代前より知っていたこの近辺の者達は、顔も風習も知らぬ余所者達に碌な思いも抱いてはいなかったが、統治者として君臨し出した北畠家の支配の下で「交雑」が進み、遂には彼らと同化するに至った。
但し、それは飽くまで非常事態を利用して武断統治を行った北畠家の努力がたまたま実を結んだだけの結果に過ぎず、多くの場合に賞賛される「同化」という成果は、数多の統治者が夢に抱きながら、大抵は幻として惜しむに留まるものである。そして、幻となってしまった時は、無理に結び付けようとした結果の化学反応で、一気に矛盾と不満が爆発するのである。
雨音が心地良いリズムで、列車を無人の駅舎で待つという、無為に過ごされる時を楽しませてくれる。普段、地を叩く水の粒など気にもしない事ばかりなのだが、今この時のように、暇を持て余している時などには、こうやって耳を立てていると色々と感じ入る事が多いものだ。柄にもない、と言われてしまうとそれまでなのだが、余裕のない生活をしていると、つい、このような感傷に耽ってしまう事がある。
苦しい「宮勤め」に耐え切れずに逃げ出し、言わば傷心の私が帰る場所は一乗谷にはなかった。結局、そのまま行先も告げずに出奔し、有り金を以て国中を渡り、漸く今の勤めに就いた時には金もなく、夜を過ごす床さえも満足に得られない有様だった。それからというもの、一所懸命に勤めていたという記憶はあるものの、一体何をしていたのかは余り印象に残っていなかった。少し残念ではあるが、無我夢中とはこういう事を言うのだろう。言葉を扱う仕事をしながら、今こうやって思い返す中で諺の核を見出すとは我ながらに…そう、未熟だと思う。嘗て言われたように。
「笑われてしまいますね、あの方に」
不意に声に出してしまい、己の耳でそれを聞くと、少し顔が火照った感がある。
何という事でしょうか!?
こんな所で、こんな場所で、何を考えているのか、私という者は!
…あの方に初めて会ったのは京の四条烏丸の喫茶だったが、それよりというもの、物思いに耽るたびに、不意に、ついつい、あの方を憶う。武骨な手を思い出し、変わらない表情の内に秘めたものを感じ入らせる瞳、平服で武具を一切纏わぬ身にありながら、精悍で精強な、武者の姿を見た、それでいてどこか…寂しい?そう、寂しそうな後ろ姿。あの方は私が探りを入れて来たのを看破しながら、最後まで付き合い、コーヒー二杯の伝票を以て去って行く時に、私に告げたのだ。
「未熟だな」
あれで心に穴が空き、そこへあの方が入り込んでしまった。それ以降、私の心には若干の余裕もなく、徐々に膨らむあの方への想いが、意気軒昂に励んでいた勤めを押しのけつつあった。
ルポライター。フリーになって以降も生計を立てるには充分に仕事にあり付いて来た。今日という日もその為にここまで来ているわけだが、結局、あの方の事ばかり考えていたわけである。
雨音を聞いても懐かしい。京の夜道に危ない目にも遭ったが、あの方がそこに居て、私を守ってくれた。その日は確か雨で、襲われて腰の抜けた私を無理に起こさず、ただ己の傘を私に寄越して、無言で闇に去った。その後の、またその後も、あの方とは多くの時、多くの場所で出会って、別れた。
常に多くを語らず、それでいて多くの事を私に残して行った。こういう仕事をしていると、色んな筋から様々に話を聞く。その中に、つい、あの方の事も探してしまう。あの天変地異の後においても、だ。
天変地異の中、京にて一乗谷縁の者の安否を認めるのに奔走し、その内に、あの方の事も聞いた。坂東の父祖の地を舞台に、異世界の者共と斬り結んだと云う。相手方の、星川という女将軍は、中々に手練た技を以て宇都宮の兵の追撃をかわして兵を下げたと云う。今後、坂東は大いに荒れるだろう。聞き及んだ誰もがそう思ったわけだが、その矢先に聞き及んだのは、
「和睦…か」
星川と東京の日本政府が連合し、坂東の武者達と争うという構想だったようだが、何と、星川を通じて先日に交戦していた宇都宮側から和睦を提案して来たと云う。
暗鬱な気が心の内に起こる。
平穏になる事に異存はない。しかし、調査の内に聞き及んだのは、この話を宇都宮に持ち掛け、「和睦」に奔走している者の名前である。
大関資増。坂東那須七騎の一つ、大関家の男。そして、彼が坂東に下向する直前に会っていたと云う人物が、大河内具家。ここ伊勢を支配する伊勢守護 北畠家の親類衆筆頭格。
「日本人」を名乗る人々は知らないのだろう。知らなくて当然だ。「敷島人」とて、この二人について、全ての事を知っているわけではない。しかしながら、大関と大河内と聞いてその両人に思い当たる事が僅かにもあるならば、彼等を只人と想い、善行を行うに際して、それが無償或いは名誉欲を満たされる事のみによって行われるとは決して思わないだろう。このような両人の名前を異世界にまで轟かせるような事はあってはならないと個人としては強く思うし、そうであるべきだ。
だが、それはもはや無理であろう。この組み合わせは最悪である。この地に居れば特に良く分かる。
今居る大内山の地は大河内御所軍の南部への最前線である。南部には同じ北畠家の親類、赤羽御所家の支配する紀伊長島がある。一門であるのだが、北畠家の政治的な、そして軍事的なライバルである紀州総督府徳川家と伊勢守護北畠家が対峙するに及び、大河内御所はいわゆる最前線にある赤羽御所家を「潜在的な内通者」と見做して、大内山に強兵を揃えているのである。
つまり、いつでも滅ぼせるように。
大内山と紀伊長島の間には伊勢守護管理の公営鉄道があり、天変地異後も変わらずに運行してはいるのだが、線路は取り替えられてはいるものの四国家時代より遡って、日本国があった時代から少なくともあったわけで、北畠がとりわけこの区間に望んで設けたわけではない。ましてや北畠一門の内訌ゆえに列車の往来がこの区間だけ極端に少ないのだ。嘗ては人口が少なく、やむを得ない事ではあったが、今はどちらも賑わっている程であり、それでいて一時間に一本あるかないか。途中の梅ケ谷の駅に至っては最早在ってないような物だと聞き及んだ。私が、こうして無為に過ごしているのは、紛れもなく、乗り損ねたからである。都会並みにとは言わないが、せめてもう少し便があればここに一時間以上も待たなくて良かった筈である。それに、少しぐらい定刻過ぎても、乗客無しで発車するな。運行が無駄ではないか。
…ほら貝の音が聞こえて来た。時計を見れば午後に差し掛かる頃だ。電波時計は先頃の天変地異で機能麻痺しており、ネジ巻仕掛けの旧態然としたタイプの時計が敷島人、日本人問わず売れているそうだが、地元の民はこの音で正午を知ると云う。
大内山を支配するのは、平家の末裔を自称し、累代の北畠家臣下として知られた大内山家とその当主大内山但馬守頼光である。現に、北畠の白地に「割菱」の紋が染め抜かれた軍旗を最上段に、あちらこちらに赤地の旗が見受けられる。当代当主 頼光の趣味で、割菱を左右二本杉で囲う紋に改めている。北畠家を守護する事を誓った、御丁寧な文様だが、実質は親類衆でしかない大河内御所の尖兵に留まっている。そして、実際大河内の軍権を握っている若御所、大河内侍従具家が、一体どれほど彼等の忠誠を信用しているかを考えると、大内山の先行きも暗い。
そうこうしている内に、尾鷲方面へ出る列車が声を鳴らしてやって来たのが分かった。目的地は紀伊長島。この雨の中、彼の地まで歩くのは、正直しんどい。待ちに待った列車に乗り込んで行くべく、リュックを肩に掛けて、腰を上げた。